「峯中記略扣 常蓮坊」(江戸時代後期-末期に成立か)
「是(=黒尊仏岩)ヨリ北ヱ行黒尊仏岩[石]有是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜[龍]樹菩薩ノ尊有是ニ札納而[尤]モ此馬場ニ而竜[龍]樹ボサツ[菩薩]馬ニ御ナ[ノ]リ相[被]成候ト云伝也此向ハ行者カエシト云大キナ岩有是ヨリ右ノ方ハ平イ地ノカキ[ヤ]ノ也夫ヨリ峰ニ登リ彌[弥]陀ガ原ト云所ニ出是ニ一宿致シ是ヨリヲリ込蔵王権現有札納是ヨリ下リコフバセ上リコフバセト云所新客サカサ木ノ行所有是ヨリ峰ニ登リ神前ノ平地也此所ニ不動尊有此所ニ一宿ス」
(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より引用。[ ] 内は「神奈川県史 各論編 5 民俗」の表記。表記が異なる箇所のうち文意に関わる所だけ表示した。)
「県史」では「黒尊仏岩石」と表記されている。「而モ」は〈しかも〉、「尤モ」は〈もっとも〉。
「峯中記略扣」は日向山霊山寺常蓮坊(日向修験)の峰中記。
(上部)明治21年測量「蛭嶽」 (下部)明治21年測量「塔嶽」
尊仏岩を発し、長さ「百間程」(約180m)、幅が「五間位(約9m)ノ龍ガ馬場」に達する。
「此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納」その真ん中あたりに「竜樹菩薩ノ尊」像があり、札を納める。「此馬場」で「竜樹ボサツ馬ニ御ナ[ノ]リ相成候ト云伝」竜樹菩薩が馬の姿で現われたというと伝わる。
「馬ニ御ナリ相成候」を直訳すれば〈馬(の姿)になった〉だが、「県史」による解読「馬ニ御ノリ被成候」であれば、龍樹がこの馬場で〈馬にお乗りなされた〉になる。
騎馬の竜樹なんてあるんかな?馬に乗る姿は馬鳴(菩薩)なのでは?(後述)
伝説では役小角(役行者)は摂津国箕面山(大阪府箕面市)の箕面瀧にある龍穴(御壺)に入って修行していた時、竜樹菩薩から秘法を授けられて悟りを開き、その後吉野金峰山で金剛蔵王大権現を感得したとされるが、この伝説の内容・経緯には様々なバリエーションがある。
その竜樹菩薩が「龍ガ馬場」で「馬ニ御ナ[ノ]リ相[被]成候」という伝承が(山伏には)あったようなのだ。
(左)14世紀、チベット仏画の龍樹菩薩(Los Angeles County Museum of Art) 背後に蛇が描かれている。
(右)浄土真宗では龍樹大士(師)と尊称される。
「龍樹」はサンスクリット名「ナーガールジュナ」の漢訳。
「ナーガ」はインド神話の蛇の精霊・蛇神。中国に入ると、水中の龍宮に棲んで水・雲・雨を司り天空に昇る水神とされていた「龍」「龍王」と訳され、八部衆に組み込まれて仏法の守護神となった。魔力で雨を呼び、釈迦誕生時に清浄水を注いで祝い、釋迦が悟りを開いた際に守護したとされる。
「アルジュナ」はインドの大叙事詩「マハーバーラタ」に主役の一人として登場する英雄。
空(くう)の思想を確立したとされる龍樹(菩薩)は2-3世紀の南インドの仏教者。大乗仏教を体系づけ、小釈迦ともいわれる。真言宗の第3祖とされ、浄土真宗では七高僧の第一祖、八宗の祖師(大乗仏教の開祖)とされる。南海の龍宮から「華厳経」など多くの大乗経典を持ち帰ったという伝説がある。
鳩摩羅什が漢訳したとされる(が、実際には違うらしい)「龍樹菩薩伝」を元にした「今昔物語集」巻4第24話「龍樹俗時作隠形薬語」は、仏道に入る前の竜樹と仲間が「隠形薬」(透明になる薬)を作り、夜毎に国王の宮殿に忍び込んで何人もの后妃を犯したが、それがバレて仲間は切り殺され、竜樹だけがなんとか逃げおおせ、後に出家して仏法に帰依した、という話。
芥川龍之介は、この話をネタにして「青年と死」と題する短い戯曲を書き、その末尾に「―竜樹菩薩に関する俗伝より―」と付記している。
竜樹菩薩と馬との関係が、よくわからない。
竜樹菩薩造・筏提摩多三蔵訳とされ(るが後の北魏の書とみられている)、空海が重視したという「釈摩訶衍論」巻第一に次のような話がある。
(「」内は 早稲田大学図書館蔵「釈摩訶衍論. 巻第1-10 / 竜樹 造」(建長8年跋高野版の覆刻)より引用)
「大王名ヲ輪陀ト曰フ 千ノ白鳥」が「聲ヲ出」すと大王は「徳ヲ増シ」たが声を出さないと徳を失った。白鳥は白馬を見ると「聲ヲ出」したが見えない時には常に声を出さなかった。其の時、大王は白馬を求めたが得られず、「外道ノ衆」が鳥を鳴かせたら佛教を排斥する、「佛弟子」が鳴かせたら外教を排して佛教だけを信じると言った。すると「菩薩神通力ヲ用テ」白馬と白鳥を呼び出したので「正法」が絶えることはなかった。「是ノ故ニ世尊ンテ名ヲ馬鳴ト曰」それで皆が菩薩を尊んで「馬鳴」と呼んだ。
馬に乗る馬鳴菩薩(「諸尊図像鈔」国立国会図書館蔵 より)
馬鳴(菩薩)は1-2世紀、古代インドの大乗仏教開祖の一人と見なされる仏教学者・仏教詩人。
中国では馬鳴菩薩は貧しい人々に衣服を施す菩薩・養蚕織物の神として祀られ、日本でも養蚕農家の守り仏とされた。
鳩摩羅什訳(といわれる)「馬鳴菩薩傳」には〈「餓七疋馬」飢えた7頭の馬の前に餌となる草を置き、比丘(びく)に説法をさせたところ、馬は草を食べようともせず、比丘の説法に聞き入って涙を流した。「馬解其音故遂号為馬鳴菩薩」馬が比丘の言葉を解したので、この比丘は馬鳴菩薩という名になった。〉(「」内は 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション「馬鳴菩薩傳・龍樹菩薩傳・提婆菩薩傳」より引用)という「釈摩訶衍論」と違う話が記されている。
話の内容は異なるが、どちらも「馬鳴」の名称が馬との関わりに由来すると説かれる。
古代インドでは馬を神、あるいは神の乗る神聖な動物として祀った。それが仏教に取り入れられて馬頭観音や、馬鳴菩薩が乗る馬として表現されるようになり、日本へ伝わったということである。
では、龍ガ馬場と竜樹菩薩はどういう関係があるんだろ?
〈龍〉から竜樹菩薩を、〈馬場〉から馬の姿をした、あるいは馬に乗った竜樹を連想したのだろうか?
後で述べるが、白山の龍ケ馬場で登場するのは仙人であり、富士山では流鏑馬である。どちらにも竜樹は出てこない。
竜樹菩薩と馬とが結びついたのは、馬鳴菩薩傳・龍樹菩薩傳・提婆菩薩傳を一冊にまとめた南宋時代の書物が伝来していたため、龍樹と馬鳴が混同されていったんじゃないかな、とも思われる(個人の感想です)。
アーネスト・サトウは物見峠から龍ケ馬場を望見している。
(11月26日)「遠見場[漢字で表記されている]と呼ばれる場所では竜ノ馬場という草深い頂上と三の峰そして鳥屋に至るまでの美しい風景が得られる。」(庄田元男訳「日本旅行日記 2」第14章〈丹沢でアトキンソンが遭難 1873年[明治6年]〉より)
「Enkemba, a spot where the Sho-gun's officials used formerly to rest when they came on their periodical tours of inspection,(略) The grassy knoll on the other side of the deep valley on the west is called Riu no Bamba(the Dragon's Racecourse).」(「A Handbook for Travellers in Central & Northern Japan」第2版 Murray社 1884年〈Route 4.-The Circuit of Oyama.〉からp.86〈From Tanzawa to Miyagase〉のルート解説)
「遠見場(えんけんば)」は物見峠である。かつて幕府の役人が御林の巡見(御料所巡見)に来た時に、ここで休憩したという。西の深い谷(中津川流域)の向うに見える草山は龍ノ馬場であるという。「三の峰」は丹沢山-本間ノ頭の尾根(丹沢三峰)を指す。
「秦野市史叢書 新聞記事」(2004年 秦野市) 「丹沢」より
「4 趣味津々たる丹沢御料地 丹沢山人一学氏の踏査 龍が婆々 塔が峰より峰つたい二十七八町にして達す。カリヤスといえる草一面に生い茂れり。但し南西面は大抵岩石地 (略) 此処より三境までは大凡十五町ばかりあり。」(明治44年9月5日『横浜貿易新報』3732号)
「カリヤス」刈安・青茅はススキに似たイネ科の多年草。「南西面」の「岩石地」は〈行者カエシ〉であろう。「三境」は丹沢山。
「14 謎の丹沢山へ 龍ケ馬場と云える広く且平なる草生地あり。南西面は大底岩石地にして (略) 展望頗る絶佳。」(大正4年5月21日『横浜貿易新報』5082号)
「南西面」の記述の一部がNo.4とほぼ同じ。
龍ケ馬場と呼ばれる場所は富士山や白山にもあり、丹沢の「龍ガ馬場」伝説は白山信仰から発してるんじゃないかと思う。
848年に加賀馬場白山寺が鎮護国家の道場と定められた(「白山之記」)。白山の影響力は非常に大きなものであったろう。