塔ノ岳 尊仏岩 (9)

    塔ノ岳から不動ノ峰 (2)

「峯中記略扣 常蓮坊」(江戸時代後期-末期に成立か)


「是(=黒尊仏岩)ヨリ北ヱ行黒尊仏岩[石]有是ヨリ登リ龍ガ馬場也此所百間程ノ長サニ而広ハ五間位ノ馬場ノ形也此中所ニ竜[龍]樹菩薩ノ尊有是ニ札納[尤]モ此馬場ニ而竜[龍]樹ボサツ[菩薩]馬ニ御[ノ][被]成候ト云伝也此向ハ行者カエシト云大キナ岩有是ヨリ右ノ方ハ平イ地ノカ[ヤ]ノ也夫ヨリ峰ニ登リ彌[弥]陀ガ原ト云所ニ出是ニ一宿致シ是ヨリヲリ込蔵王権現有札納是ヨリ下リコフバセ上リコフバセト云所新客サカサ木ノ行所有是ヨリ峰ニ登リ神前ノ平地也此所ニ不動尊有此所ニ一宿ス」
(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より引用。[  ] 内は「神奈川県史 各論編 5 民俗」の表記。表記が異なる箇所のうち文意に関わる所だけ表示した。)

「県史」では「黒尊仏岩石」と表記されている。「而モ」は〈しかも〉、「尤モ」は〈もっとも〉。

「峯中記略扣」は日向山霊山寺常蓮坊(日向修験)の峰中記。

(上部)明治21年測量「蛭嶽」 (下部)明治21年測量「塔嶽」

塔嶽 蛭嶽尊仏岩を発し、長さ「百間程」(約180m)、幅が「五間位(約9m)ノ龍ガ馬場」に達する。
「此中所ニ竜樹菩薩ノ尊有是ニ札納」その真ん中あたりに「竜樹菩薩ノ尊」像があり、札を納める。「此馬場」で「竜樹ボサツ馬ニ御ナ[ノ]リ相成候ト云伝」竜樹菩薩が馬の姿で現われた
というと伝わる。

「馬ニ御ナリ相成候」を直訳すれば〈馬(の姿)になった〉だが、「県史」による解読「馬ニ御ノリ被成候」であれば、龍樹がこの馬場で〈馬にお乗りなされた〉になる。

騎馬の竜樹なんてあるんかな?馬に乗る姿は馬鳴(菩薩)なのでは?(後述)

伝説では役小角(役行者)は摂津国箕面山(大阪府箕面市)の箕面瀧にある龍穴(御壺)に入って修行していた時、竜樹菩薩から秘法を授けられて悟りを開き、その後吉野金峰山で金剛蔵王大権現を感得したとされるが、この伝説の内容・経緯には様々なバリエーションがある。

その竜樹菩薩が「龍ガ馬場」で「馬ニ御ナ[ノ]リ相[被]成候」という伝承が(山伏には)あったようなのだ。


竜樹菩薩(左)14世紀、チベット仏画の龍樹菩薩(Los Angeles County Museum of Art)  背後に蛇が描かれている。
(右)浄土真宗では龍樹大士(師)と尊称される。
「龍樹」はサンスクリット名「ナーガールジュナ」の漢訳。


「ナーガ」はインド神話の蛇の精霊・蛇神。中国に入ると、水中の龍宮に棲んで水・雲・雨を司り天空に昇る水神とされていた「龍」「龍王」と訳され、八部衆に組み込まれて仏法の守護神となった。魔力で雨を呼び、釈迦誕生時に清浄水を注いで祝い、釋迦が悟りを開いた際に守護したとされる。

「アルジュナ」はインドの大叙事詩「マハーバーラタ」に主役の一人として登場する英雄。

空(くう)の思想を確立したとされる龍樹(菩薩)は2-3世紀の南インドの仏教者。大乗仏教を体系づけ、小釈迦ともいわれる。真言宗の第3祖とされ、浄土真宗では七高僧の第一祖、八宗の祖師(大乗仏教の開祖)とされる。南海の龍宮から「華厳経」など多くの大乗経典を持ち帰ったという伝説がある。

鳩摩羅什が漢訳したとされる(が、実際には違うらしい)「龍樹菩薩伝」を元にした「今昔物語集」巻4第24話「龍樹俗時作隠形薬語」は、仏道に入る前の竜樹と仲間が「隠形薬」(透明になる薬)を作り、夜毎に国王の宮殿に忍び込んで何人もの后妃を犯したが、それがバレて仲間は切り殺され、竜樹だけがなんとか逃げおおせ、後に出家して仏法に帰依した、という話。

芥川龍之介は、この話をネタにして「青年と死」と題する短い戯曲を書き、その末尾に「―竜樹菩薩に関する俗伝より―」と付記している。


竜樹菩薩と馬との関係が、よくわからない。

竜樹菩薩造・筏提摩多三蔵訳とされ(るが後の北魏の書とみられている)、空海が重視したという「釈摩訶衍論」巻第一に次のような話がある。

(「」内は 早稲田大学図書館蔵「釈摩訶衍論. 巻第1-10 / 竜樹 造」(建長8年跋高野版の覆刻)より引用)
「大王名ヲ輪陀ト曰フ 千ノ白鳥」が「聲ヲ出」すと大王は「徳ヲ増シ」たが声を出さないと徳を失った。白鳥は白馬を見ると「聲ヲ出」したが見えない時には常に声を出さなかった。其の時、大王は白馬を求めたが得られず、「外道ノ衆」が鳥を鳴かせたら佛教を排斥する、「佛弟子」が鳴かせたら外教を排して佛教だけを信じると言った。すると「菩薩神通力ヲ用テ」白馬と白鳥を呼び出したので「正法」が絶えることはなかった。「是ノ故ニ世尊ンテ名ヲ馬鳴ト曰」それで皆が菩薩を尊んで「馬鳴」と呼んだ。

馬鳴菩薩馬に乗る馬鳴菩薩(「諸尊図像鈔」国立国会図書館蔵 より)

馬鳴(菩薩)は1-2世紀、古代インドの大乗仏教開祖の一人と見なされる仏教学者・仏教詩人。

中国では馬鳴菩薩は貧しい人々に衣服を施す菩薩・養蚕織物の神として祀られ、日本でも養蚕農家の守り仏とされた。


鳩摩羅什訳(といわれる)「馬鳴菩薩傳」には〈「餓七疋馬」飢えた7頭の馬の前に餌となる草を置き、比丘(びく)に説法をさせたところ、馬は草を食べようともせず、比丘の説法に聞き入って涙を流した。「馬解其音故遂号為馬鳴菩薩」
馬が比丘の言葉を解したので、この比丘は馬鳴菩薩という名になった。〉(「」内は 慶應義塾大学メディアセンター デジタルコレクション「馬鳴菩薩傳・龍樹菩薩傳・提婆菩薩傳」より引用)という「釈摩訶衍論」と違う話が記されている。

話の内容は異なるが、どちらも「馬鳴」の名称が馬との関わりに由来すると説かれる。

古代インドでは馬を神、あるいは神の乗る神聖な動物として祀った。それが仏教に取り入れられて馬頭観音や、馬鳴菩薩が乗る馬として表現されるようになり、日本へ伝わったということである。

では、龍ガ馬場と竜樹菩薩はどういう関係があるんだろ?

〈龍〉から竜樹菩薩を、〈馬場〉から馬の姿をした、あるいは馬に乗った竜樹を連想したのだろうか?
後で述べるが、白山の龍ケ馬場で登場するのは仙人であり、富士山では流鏑馬である。どちらにも竜樹は出てこない。

竜樹菩薩と馬とが結びついたのは、馬鳴菩薩傳・龍樹菩薩傳・提婆菩薩傳を一冊にまとめた南宋時代の書物が伝来していたため、龍樹と馬鳴が混同されていったんじゃないかな、とも思われる(個人の感想です)。


アーネスト・サトウは物見峠から龍ケ馬場を望見している。

(11月26日)「遠見場[漢字で表記されている]と呼ばれる場所では竜ノ馬場という草深い頂上と三の峰そして鳥屋に至るまでの美しい風景が得られる。」(庄田元男訳「日本旅行日記 2」第14章〈丹沢でアトキンソンが遭難 1873年[明治6年]〉より)

「Enkemba, a spot where the Sho-gun's officials used formerly to rest when they came on their periodical tours of inspection,(略) The grassy knoll on the other side of the deep valley on the west is called Riu no Bamba(the Dragon's Racecourse).」(「A Handbook for Travellers in Central & Northern Japan」第2版 Murray社 1884年〈Route 4.-The Circuit of Oyama.〉からp.86〈From Tanzawa to Miyagase〉のルート解説)

「遠見場(えんけんば)」は物見峠である。かつて幕府の役人が御林の巡見(御料所巡見)に来た時に、ここで休憩したという。西の深い谷(中津川流域)の向うに見える草山は龍ノ馬場であるという。「三の峰」は丹沢山-本間ノ頭の尾根(丹沢三峰)を指す。

「秦野市史叢書 新聞記事」(2004年 秦野市) 「丹沢」より

「4 趣味津々たる丹沢御料地 丹沢山人一学氏の踏査  龍が婆々 塔が峰より峰つたい二十七八町にして達す。カリヤスといえる草一面に生い茂れり。但し南西面は大抵岩石地 (略) 此処より三境までは大凡十五町ばかりあり。」(明治4495日『横浜貿易新報』3732)

「カリヤス」刈安・青茅はススキに似たイネ科の多年草。「南西面」の「岩石地」は〈行者カエシ〉であろう。「三境」は丹沢山。

「竜樹菩薩ノ尊」像には言及がなく、明治末には竜樹菩薩像が既に消失していたことがわかる。

14 謎の丹沢山へ 龍ケ馬場と云える広く且平なる草生地あり。南西面は大底岩石地にして (略) 展望頗る絶佳。」(大正4521日『横浜貿易新報』5082)

「南西面」の記述の一部がNo.4とほぼ同じ。

龍ケ馬場と呼ばれる場所は富士山や白山にもあり、丹沢の「龍ガ馬場」伝説は白山信仰から発してるんじゃないかと思う。

848年に加賀馬場白山寺が鎮護国家の道場と定められた(「白山之記」)。白山の影響力は非常に大きなものであったろう。

      ( 続 く )

 塔ノ岳 尊仏岩 (8)

   塔ノ岳から不動ノ峰 (1)

     [ 黒尊佛山方之事 ]

「文化二乙丑年 黒尊佛山方之事 八月六日参詣」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」)
「是(=尊佛岩)從右エ峯傳ニ不動嶽エ参ヘシ、此道方ハ尊佛より不動嶽迄凡弐里也、此道イタツテナン所也、是從スヾ野々中ヲワケ参ヘシ、イタツテスヾ野シケキ事ヤブノ事シ、スヾ野高キ事セイ長より弐尺程モ高キ所ヲ通ルヘシ、其中ニホソキ道モ有、又ハ道トモヲホシキ所ヲワケテスヾ野中ヲ登ヘシ、尊佛より半道モ参リ瀧口ト申ス所有、此所ニテ南ニ向テ山壹ツ越、向ニ大山石尊峯見エルナリ、瀧口ト申ス所イタツテ系(ママ)ナル所也、又是從峯傳エニ登リヲリ、イタツテ何ン所、又是從右之通、スヾ野々中ヲ参ヘシ、或草ヲハケ、道モ無キ所ヲ通ヘシ、程無不動嶽エ参也、」

「黒尊佛山方之事」は文化2年8月6日(1805年8月29日)、大山町の御師・佐藤(藤原朝英)氏が、おそらく「掘村修ケン中」(堀村の本山修験3坊)か、その関係者を先達として大倉から蛭ヶ岳まで1日で往復修行した記録。

「是從右エ峯傳ニ不動嶽エ参」尊仏岩から右へ尾根伝いに不動岳へ行く。

一行は金冷しから塔ノ岳西面の巻き道を通って尊仏岩の基部に達している。とすると、「不動嶽」=北方向は〈左〉になるはずだが、なんで「右エ」なんだろ?
考えられるのは、岩の基部で「大日尊」を拝んだ後、岩の上部(今、石仏・板碑がある所)に登り、岩頭に載っている石仏にも礼拝を行ったのではないか、ということである。すると「右エ」は〈北へ〉を意味することになる。

尊仏岩下のガレ沢左岸側から岩の頭までの登りは急ではあるが特に困難もなく、いずれにしろ稜線まで登らなければならないのだから、遠回りになるわけでもない。
今では尊仏岩の頭の高さは1メートルにも満たないが、大震災で崩落するまでは3メートル前後はあり、頭の上に石仏も安置されていたと思われ、崇高感もより強くあったのだろう。

「尊佛岩」から塔ノ岳北側の尾根筋に出、およそ「弐里」(実際の距離はその半分くらい)の「不動嶽」へ、頭より「弐尺程モ高」い所もあるスズタケ(篠竹)をかき分けて進む難路。「不動嶽」は地形図上の1614mの峰ではなく、その東方、現在不動ノ峰休憩所がある小平地を指す。
「尊佛より」蛭ヶ岳へ「半道モ参」ると「瀧口ト申ス」大変景色のよい所があり、南の山越しに「大山石尊峯」が見える。そこからもスズタケや草をかき分け、「道モ無キ所ヲ通」って尾根を進む。

不動ノ峰 大滝明治21年測量「蛭嶽」(部分) 
青字は「峯中記略扣」、赤字は「黒尊佛山方之事」にある地名(推定含む)。

「瀧口」はどこを指すのだろう。「半道」が〈行程の途中〉の意味であれば龍ケ馬場の可能性もあるが、〈行程の半分ほど〉を意味するのなら、もう少し先ではなかろうか。
「瀧口」が〈滝への降り口〉という意味であれば、「瀧」は行場であった早戸大滝を指すと思われる。

明治21年測図「蛭嶽」に、丹沢山から西に降りた鞍部から大滝沢沿いに道記号が記されている。現在はその鞍部から西の1550mあたりから北へ〈大滝新道〉を降りるようになっている。
しかし丹沢山から尾根道(ツルベ落シ)を西に降りていくと大山は見えなくなるため、この鞍部は「此所(=瀧口)ニテ南ニ向テ山壹ツ越、向ニ大山石尊峯見エルナリ」との描写と合致しない。
となると「瀧口ト申ス所」は丹沢山の頂上らしい。丹沢山からは「南ニ向テ」南東方向に「山壹ツ越」長尾尾根の上に「向ニ大山石尊峯見エルナリ」大山が見える。
丹沢山の頂上から西の鞍部を経て早戸大滝までは下り一方になるので、山頂を「瀧口」=〈滝への降り口〉と呼んだとしても、さほど不自然ではないように思える。

丹沢山から早戸大滝への下降路はもう一つあったようだ。

鉄道省山岳部編「日本山岳案内 1 丹澤山塊・道志山塊」(博文館 昭和15年)より
「丹澤山・中津川概念圖」(部分)
丹澤山中津川概念図
現在は図中の「瀬戸澤頭 1340」を太礼ノ頭、「太礼頭 1320」を円山木ノ頭と呼んでいる。

「早戸川大瀧澤遡行  (前略)瀧(=早戸大滝)の上部からは、澤も順長になり(略)しばらくで澤は左右に岐れる。左は涸澤で右は水流がある。左の涸澤を登ると、丹澤山から三ッ峯に至る山稜に藪を突破して登るのであり、右の水流のある澤を登れば、丹澤山と不動峯との鞍部ブッコシへ藪を漕いで登り着くのである。いずれも同じ位である。
水流ある澤は、間もなく藪を漕いで出た地點が、丹澤山から蛭ヶ岳に至る縦走路の水場に當り、その水場を出ると主稜までは直ぐであって、鳥屋ブッコシの鞍部に出て、熊笹の斜面を一息に登れば、そこは一等三角點標のある、丹澤山山頂である。」(日本山岳案内 1「丹澤山」)
早戸川源頭から丹沢三ッ峰と主脈への2コースが案内されている。「ブッコシ」は〈乗越〉である。

「宮ヶ瀨より丹澤三ッ峯經由   (前略) 瀨戸澤ノ頭(1375m)からは樹林の中を(南に)降る。降り切った鞍部で、右下の早戸川瀨戸澤を詰めて來た踏跡が、右からかすかながら合ってゐる。鞍部からは一路登りとなり(略)丹澤山の頂上へ出るのである。」(日本山岳案内 1「丹澤山」)  文中の( ) 内は拙註。
「瀬戸澤」は大滝沢の誤り。丹沢三峰の記述に地名の混乱がみられる。

塚本閤治「丹沢山塊」日本山岳寫真書 (昭和19年 山と渓谷社 / 生活社)
(丹澤山頂上から三ツ峰への山徑へ入り)「やがてさゝやかな鞍部に達し、此處で大瀧澤への下降路を示した指導標に出逢ふ。」(「丹澤三ツ峯」)
1375m標高点(瀬戸沢ノ頭)の南側が「さゝやかな鞍部」だったらしい。
ただし、この鞍部は蛭ヶ岳への経路からは外れるため「瀧口ト申ス所」には該当しない。

丹沢山北側から早戸川源流に降りるこの道は大正時代の新聞記事にも掲載されており、古くからあったようである。
丹沢山頂上から北・西のどちらに行っても早戸大滝に降りられるとなると、頂上を「瀧口」と呼ぶことにさほどの違和感はないように感じる。

「秦野市史叢書 新聞記事」(2004年 秦野市) 「丹沢」より
「25 丹沢山探検記(下) 丹沢山 山頂より岐路を北に取りて深谷を下る谷底に炭小屋あり。(略)真に製炭業者の容易の業にあらざる事を知る(略)此の渓谷は中津川の土(上?)流早戸川の水源地なり。下る事三十町にして有名なる「大滝」を見る。高さ十六丈巾二丈、真に壮観なり。」(大正7年5月9日 『横浜貿易新報』6163号)
丹沢山「山頂より岐路を北に取」って「深谷を下」っている。頂上から北の尾根を下り、早戸大滝より上流に下降した、ということは前述の鞍部から降りるのと同ルートであろう。そんな山奥の谷底で炭を焼いていたとは!

「是」(=瀧口)からの尾根伝いの登り降りも、ここまでと同じように笹藪をかき分け、道もない所を通ったりで「イタツテ何ン(難)所」なかなか大変である。程なく「不動嶽エ」到着。
 
「不動嶽ハイタツテ平チ也ル所、近所見廻ス所ニ小シバ之所モ有、 又ハ草フカキ所、或スヾ野々所モ有、イタツテスザマシキ大木有、 又ハマサシク天狗ノ御アソヒ所ト相見エ、九尺四方程、イタツテキレイナル所有之也、二ケ所程有也、イタツテスコキ所アル也、先不動尊ノ座ス所、左ノ方ニクボミ有、 九重ノ紅葉ノ大木有、此下ニ長壹尺程ノ不動尊護守(ママ)ナサシメタモウ也、不動尊御迎タモウハ未申方ヲ御迎タモウ也、時ニ年号貞次(ママ)三年三月二八日也、 是文化二年迄凡四百四十三年也、」

「不動嶽ハ」まったくの平地で、あたりを見回すと芝草地や草深い所、笹藪もあり巨木もある。また、まさに天狗の遊び場のように見える「九尺四方程」の非常に美しい所が「二ケ所程」あり、「イタツテスコキ所アル也」もの凄い(=素晴らしい・たいへん趣がある)所がある。
左方の窪地に「九重ノ紅葉ノ大木」があり、その下に「長壹尺程ノ不動尊」が「未申方」西南を向いて安置されている。「貞次三年三月二八日」貞治(北朝の年号)3年3月28日(1364年5月8日)と銘がある。文化2年(1805)より443年ほど前である。 

「九重ノ紅葉」は葉がこんもり茂った楓、という意味か?
「不動尊」が「未申方」を向いているのは、ここからは大山が丹沢山に隠れて見えないため、役行者が修行に励んだと伝わる西南の富士山に向けたのだろうか。

修験道の開祖とされる「役優婆塞」(役小角)が讒言を受けて「伊圖之嶋」(伊豆大島とされる)に流された時、「身浮海上 走如履陸」体は海上に浮んで陸にいるかのように走り、「飛如翥鳳」鳳(おおとり)のように空を飛んだ、「夜往駿河 富ジ(山+氏)嶺而修」夜には駿河に行って富士山で修行した(「日本霊異記」)、という。
御殿場市増田の護法山青龍寺(臨済宗建長寺派)は、その時に役行者が創建したと伝わる。当初は真言寺院だったが1335年、竹之下合戦で焼失、南北朝期に禅院として再建されるも焼失、1532年に再興。

「年号貞次三年」貞治3年(1364)は足利尊氏の息子で初代鎌倉公方として在職中であった基氏が、かつて逗留した日向山霊山寺(日向薬師)に幡(はた)を奉納した年である。霊山寺は足利氏との関わりが深かった、ともいわれている。この幡は「宝城坊の錦幡(きんばん)」として現在まで伝わる(県指定重要文化財)。
「三月二八日」は春の峰入りに際して奉納された、ということだろうか。

この頃は観応の擾乱(1349-1352)から物騒な世相が引き続いており、少し前の1352年から翌年にかけて南朝方の新田義興(義貞の子)らが河村氏・松田氏・波多野氏の一部(波多野氏は南朝側・北朝側に分裂)などと共に河村城に籠って北朝軍と争い敗れているが、貞治3年ころには、足利氏の支配下にあった丹沢山地東部の愛甲郡毛利庄における政情はわりと安定していたようである。

塔ノ岳大倉尾根にあった不動尊像には「貞治四巳年」と銘があったという。「不動嶽」の「不動尊」にあった「年号」の翌年になる。
石像を山中に奉納するには、当時としてはかなりの資金力と労力とを要したことであろう。日向山霊山寺(日向薬師)や足利氏(北朝勢)の動向となんらかの関連があるのかもしれない。

      ( 続 く )

 塔ノ岳 尊仏岩 (7)

     不 動 の 水 場 

不動の水場赤点線は金冷し-尊仏岩間参詣道の残存部分(推定含む)

塔ノ岳西尾根1380m地点に〈不動の水場〉(不動の清水)がある。丸東講社先達であった竹内富造氏が寄進した不動像が安置されていることから、こう呼ばれている。
大正期までの記録に不動の水場という名称は見えず、昭和期に入ってからの呼称のようである。

「不動(の)清水」は弘法大師が発見したという伝説もあり、「弘法の加持水」とも呼ばれたそうである。
「丹澤・塔岳雑談」坂本光雄 「現在でも不動尊が祀られてある塔ノ岳直下の水場を土民は弘法大師の發見された所謂ミタラシだと傳へております。」(「山と渓谷」 第40号 1936年11月)

文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」は「先尊佛嶽ハ奥ニテ、イタツテ足場モハルシ、ガケ也」との記述から、塔ノ岳西面の山腹を経て尊仏岩に達していることが分るので、著者の佐藤氏は不動の水場を通ったはずだが、水場についてはふれていない。
常蓮坊「峯中記略扣」には「是(=塔ノ峰)ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有是ヨリ登リ龍ガ馬場也」と記されている。塔ノ岳頂上から尊仏岩に降り、「是(=黒尊仏岩)ヨリ登リ」水場には寄らず、山頂あるいは山頂北側の尾根に登り返している。

尊仏岩への道(左)山頂から不動の水場へ降りる登山道の脇に旧道が残っている
(右)1430mあたりから北の尊仏岩に向う参拝道跡か(右下の草斜面)?前方のガレ場には獣道が続いている。

「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄(「あしなか」第41輯 1954)
「不動の水場から孫仏へ詣づる廻旋の賽路(略)最近この道を伝って不動の水場から孫仏岩跡へ出たが、山腹みちは幽かながら判るが、途中三か所ばかり赤土の雨裂があって通過に困難であった。」

1955年10月30日-11月3日に丹沢で国民体育大会山岳競技が開催された際、尊仏山荘で使用する水は不動の清水でまかなえたそうだが、山が荒れるにつれて水量が減っていったという。

不動の水場
不動の水場に並ぶ石造物 右側に水場がある(2023年4月)
(左端) 2019年建立、龍神碑。龍神図の右に「如法水生守護龍神」、下に「〈〇東〉丹沢山東光院」。
(その右) 不動明王碑。台石に不動明王を表す種字(梵字)「カーン」と「不動の水場」。
(中央) 明治14年、竹内富造氏が寄進した不動像。
(その右) 花立の頭⇒塔ノ岳山頂⇒不動の水場と移転してきた大日如来像。
(右端) 山頂から移された 1961年建立・遭難者供養塔。

かつては山頂から移転した石祠があったが、すでに崩壊してしまったようで見当らない。
調べてみると2007年3月のブログに、まともな姿の石祠が写っている画像があった。さらに後の記録では、石造物群の左に石祠の残骸らしき石塊が写り込んでいるものがいくつかあった。

2023年4月 塔ノ岳山頂
山頂
中央、2001年建立「狗留尊佛如来」碑。その左右に聖観世音菩薩(右は丹沢登山愛好者 / 左は丹沢遭難者供養のため)。「狗留尊佛如来」碑の種字(梵字)アーンクは胎蔵界大日如来を表す。右端の弘法大師像・左端の地蔵菩薩像のそれぞれ右に〈〇東〉の紋がある。

ブログ「偏平足 里山の石神・石仏探訪」の「石仏77 塔ノ岳(神奈川)」(2007年03月25日 )に約30年前(1980年前後か)の山頂の石造物(石祠・文字塔・大日如来像)と大日如来単体の写真が掲載されている。その後、石造物3体は不動の水場に移転し、石祠は消え失せたが、文字塔と大日如来像は現存する。
山頂にあった頃の大日如来像は、花立の頭にあった頃より風化が進んでいるものの、現在の姿に比すれば、原型にはるかに近い。

大日如来 板碑
(左)花立の頭にあった頃の大日如来像 岩田傳次郎氏 撮影(部分)
(中)山頂を経て不動の水場へ移転した大日如来像 (2023年4月)
(右)山頂から移転した狗留尊如來碑

明治14年(1881)4月、武蔵國多摩郡由木村大澤(現・八王子市南大沢)の丸東講社先達・竹内富造が寄進した不動像。

水場の不動尊
(左)2023年4月 風化が著しく、台石は失われている。
(中)1975年9月「水場の不動尊」(奥野幸道「丹沢今昔」より転載) 台石の文字がはっきり読み取れるが、光背がなくなっている。
(右)「水場不動尊」 昭和10年(1935) 漆原俊氏撮影 光背の火焔光もかなり残っている。
台石「志願 武相 同行」
裏面「嘉永元申年二月初山 維時明治十四辛己年四月迄 登山六十三度 武蔵國多摩郡柚木大澤住 竹内富造建之」
下端に篆書体で丸東講社の講紋が浮かし彫りされていたそうである。

かつては不動尊像の横にもう一体の石像があったという。
坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」:(不動尊像の)「傍らに一尺二寸ばかりの滝に打たれた行者の石像が立てかけてあって、明治二十一年相州行者が、寄進されたと誌してある。」「傍らに竹内先達の相承者とおぼしき相州行者の寄進した石像が一基苔むして立てかけてある。裏面に『明治二十一年五月十三日、相州行者俗名松野泰吉施主武相丸東講社中』と刻まれている。」

竹内富造氏が最初に(丹沢三山に)登拝したのは嘉永元年2月(1848年3月初旬-4月初旬)。明治14年(1881)4月、63度目の登拝時にこの不動像を寄進した。明治45年(1912)1月歿、90歳。
数え年の90歳から逆算すると文政6年(1823)生れとなる。(数え)26歳で丹沢(三山)初登山、水場に不動尊を寄進したのは59歳の時だった。

川村岸の東光院には「孫佛大先達 六十度登山 武州南多摩郡柚木大澤村 竹内淡路富蔵」と記された付箋が貼付された青根村講中の「拘留尊佛信心簿」が保存されているとのこと。
竹内富造氏は丸東講社の開祖として「孫佛大先達」と称していた、ということであろう。

丸東講は富士講の一派である丸岩講の枝講であるが、丹沢三山(蛭ヶ岳・不動ノ峰・尊仏岩)を巡拝する竹内先達の丸東講は独自の講社であった。
〇の中に「東」の講紋は両者に共通する。竹内先達の丸東講社が使用した紋の「東」は篆書体で東光院の頭文字である、とする見解もあるが、どうだろうか。

丹沢南麓戸川村(現・秦野市)の富士講の丸東講は、竹内先達の丸東講社と何らかの関わりがあったとする説があるものの、どのような関係であったかは不明。
竹内氏の地元である現在の八王子市周辺の(武州)丸東講に関する情報も得られず、氏の地元での丸東講社先達としての活動についても不詳。

小屋
(左)明治15年11月測量 迅速測図「神奈川縣相模國大住郡堀山下村外三村」視図「(ロ) 孫佛行者ノ茅舎」
(右) 2023年4月 「孫佛行者ノ茅舎」跡にベンチが設置されている。
明治10年10月、玄倉村「据置願」(「山北町史史料編 近代 No.51」)にある「小屋掛」がこの場所だった。

「塔ケ嶽」高野鷹蔵 (山岳 第1年 第1号)
(明治38年9月24日)「小さな小屋の破れた跡があって不動の石像がある。玆に夏は雨乞にでも來る連中が泊るのであらう。然し五人と泊れるものではなく又大に破損して居った」

「四十年前の丹澤を語る」武田久吉 (1951年4月「山と渓谷」143号)
(明治38年9月24日)「カネ澤(=小金沢)」右岸尾根を「登って行く内に、破れた小屋跡と不動尊の石像のある水場へ出た。」

「丹澤山塊」戸澤英一・藤島敏男 (「山岳」第13年 第3号 大正8年)
(大正7年5月12日)「五月十五日は孫佛様の縁日で、多くの参詣人が塔岳の頂上に集り、水が一杯二銭で賣れると云ふ話をきいた」
「其處(=不動の水場)は頂上から四五丁熊木側によった所で、苔清水が樋を通って落ちてゐる。一杯二銭の清水が之であらう。甚藏(=案内人の猟師)は「孫佛様の御籠塲」と云ってゐたが、成る程傍に倒壊した小舎らしいものがあった。」

明治10年、玄倉村が神奈川県に提出した狗留孫仏「据置願」では「信仰人・村方一同ニテ春秋二期米麦蒐合、道路修繕或ハ小屋掛休息致、参指(詣)人之不都合無之様(これなきよう)厚ク注意仕度(つかまつりたく)、一同商議仕候」(「山北町史 史料編 近代 No.51」)と維持管理に熱意をみせていた。

上掲した明治15年測量・迅速測図の視図に描かれた「孫佛行者ノ茅舎」はきちんと手入れがなされているように見受けられる(この小屋を測量作業の根城にしたのであろう)が、その23年後の明治38年の記録では「小さな小屋」は「大に破損して」おり、さらに13年後の大正7年5月には「孫佛様の御籠塲」は「倒壊した小舎らしいもの」になり果てていた。

「明治の中頃最明寺の徒弟に直応というのが居て一時行方知れずになったので、八方手分けして捜したら、この孫仏山の行場に篭っていたということである。」(坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」)
「最明寺」は東寺真言宗如意山最明寺(大井町金子)。承久元年(1219)頃、松田山頂上近くに創建。文明元年(1469)、現在地に移転して中興。
「明治の中頃」であれば視図が描かれてからさほど経っていない頃で、「孫佛行者ノ茅舎」もまだ持ちこたえていたと思われる。「直応」はこの小屋に「篭って」修行に励んだのだろう。

「最近尊仏小屋の渋谷さんが、水汲みの折にこの小屋跡で、手斧と金燈篭の扉を拾ったと私に見せてくれた。いずれも赤さびていたが手斧は行者でも使用したものか、珍しい形をしていた。」(同上)

玄倉からの「道路」も、
(箒杉沢から小金沢に入り)「千米突位の所迄來て溪流が登れなくなると左の方即ち此澤(=小金沢)の右岸へとよじ登る(略)其所を無茶苦茶に攀ぢ登るので足塲は惡るいし中々苦しい。十町ばかりも登ると小さな小屋の破れた跡があって不動の石像がある。」(高野鷹蔵「塔ケ嶽」)
「逆木(さかさぎ)までは昔から小徑があったらしく(略)それから先は川の中や幽かな踏跡を辿る他なく、それも鍋割あたり迄はどうやら行けても、塔の嶽迄は全く踏跡すらない有様であった。」「カネ澤(=小金沢)に入って行った。傾斜は漸く急となり、細まった澤の水をよけ、落石を避け乍ら、喘ぎ〳〵登って行く。やがてそれも登れなくなると、右岸の尾根に取り付いて、ブナの林内を、腐葉土の上に厚く積った落葉を踏み、魚貫して登って行くのであった。いよ〳〵踏跡もなくなって足場は益々惡くなる許りである。」(武田久吉「四十年前の丹澤を語る」)
と描写され、明治38年9月には道跡すらろくに残ってはいなかったようである。

不動の水場の南側、金冷しからの参拝道跡
不動の水場への道(左)道跡が少しだけ残っている。

  ()小さなガレ沢の向うに水場の道標とベンチが見える。


     ( 続 く )

 塔ノ岳 尊仏岩 (6)

      探索調査報告 

尊仏岩 -1
(左)赤点線は明治21年測図「塔嶽」に記入された道記号。青破線は尊仏岩への現在の一般的なルート。
(右)尊仏岩上に文字塔と2体の如来型座像。

 [ 文字塔 ]
文字塔
 





(左) 文字塔 種字(梵字)の下に「尊佛」
(右) 梵字「アーンク」

文字塔の種字は胎蔵界大日如来を表す「アーンク」を簡略化したように見える。


この文字塔の裏面に、不思議な線が刻まれている。
裏面
(左)文字塔裏面の彫線 円の中に謎めいた線が彫り込まれている。何なのか、さっぱり分らん。
(右)彫線を黄色でトレースした。目視では識別できず、指でなぞって確認した線も含む。右下の白っぽい苔はかなり厚く、その下にも隠れた線があるんじゃないかと思われる。

 [ 石 像 ]
尊仏岩-2

武田久吉氏は 「丹澤山の近況と眺望」 (「山岳」第18年第2号) に「尊佛の岩は谷間に墜落して、跡には小石佛一両體が残るに過ぎない」(大正13年8月、神奈川県青年連合会震災跡実地調査の記録)と書いている。
「小石佛一両體」は尊仏岩の上に乗っているこの2体の石仏なのだろうか。

坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」によると「この石像は地元の人達の話では、多分玄倉の衆が谷間から拾い上げて祀ったものだという」(「あしなか」第41輯 1954)
関東地震は武田氏一行による調査行の前年9月、丹沢(相模)地震はその年の1月であったから、石仏は震災から間もなく捜索・発見され、運び上げられたようである。

2体の石像は、どちらも阿弥陀定印を結んでいるように見える。
印相(左)参考図:阿弥陀定印 (中)左側の像の印相 (右)右側の像の印相  
印相(手指の形)からすると阿弥陀如来像か?

基部

崖縁から尊仏岩基部を見下ろす (2023年4月)

黄色枠あたりに文化2年に「大日尊」(「黒尊佛山方之事」)、明治10年には不動尊と薬師如来(「据置願 玄倉村」)が安置されていたと思われる。

文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」
「尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之、大日御迎タモウ所ハ此方少シ丑方エ御迎タモウ也」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より一部引用)

明治10年(1877)「据置願 玄倉村」
「前建 不動」「前立 薬師如来」

 [ 旧参詣道 ]
「先尊佛嶽ハ奥ニテ、イタツテ足場モハル(悪)シ、ガケ也」(「黒尊佛山方之事」)
①
(2023年4月撮影)
(左) ①から西側、不動の水場へ続いていた道の跡。古道跡がうっすらと残る。
(右) ①から東側、下地が岩盤なので道跡がしっかり残っている。

「不動尊の祀れる水場、所謂ミタラシで口や手を清め右に山頂へは登らず、左へ場悪るのみちを樹木に跨がり岩に這ひすがりつつして(少し大袈裟かも知れませんが)孫佛岩に達するのです。」(「丹澤・塔岳雜談」坂本光雄「山と溪谷」第40号 昭和11年11月)

尊仏岩下へ
(左)前方の岩角を回り込んで尊仏岩下のガレ沢(大金沢源頭)に降り立つ。
(右)降り立ったガレ沢から見上げる尊仏岩(2018年4月)。

塔嶽明治21年測量  1/20000 「塔嶽」

(明治38年9月24日)
「其れ(=不動の水場)から二町も登るとやっと道に出た。其れを左へと少し行くと目の前に高さ三丈ばかりの大きな石が立って居る。其れが孫佛なので、其所から二十間ばかり(約36m)道が壊れて居る所を降る(註:〈登る〉の間違いと思われる)と此岩の下に行ける」(高野鷹蔵「塔ヶ嶽」「山岳」第1年第1号 明治39年)

「それ(=不動の水場)から僅でハッキリした小徑に出遭い、それを少し左に行くと、目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黒尊佛が立って居た。(略)黒尊佛は高さ五丈八尺ばかりといわれ「其形座像の仏体に似たり、故に此称あり」と古記録にある。」(武田久吉「四十年前の丹沢を語る」(「山と渓谷」143号 1951年4月)
「古記録」は「新編相模國風土記稿 玄倉村 塔ノ嶽」を指す。

高野・武田両氏は参詣道から尊仏岩を見上げただけで、岩の基部まで登らなかった。
「茲(=孫佛)に来たのは五時四十五分で未だ此邊は喬木林なのであるからうす暗く時間も遅いので(略)一寸見た丈で又すぐ登る事にした」
(高野鷹蔵「塔ヶ嶽」)

尊仏岩-3
2018年4月 撮影

「此(=「黒尊佛」)下ノ右方ニ壹丈程之高キ岩ナランテ有、尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之、大日御迎タモウ所ハ此方少シ丑方エ御迎タモウ也」 (「黒尊佛山方之事」)

2018年4月、尊仏岩基部の黄色枠の所が狭いながらも長細い平坦地になっていた。人工物は何もなかった。
ここに前立が安置されていたと思われ、登拝者はこの場で祈りを捧げたのであろう。関東大震災以前はもっと広かったと思われる。
2023年4月、この場所は左上から流入した土砂で埋っていた。

20232023年4月撮影

5年前と比べると、基部が土砂でかなり埋っている。2019年10月の台風19号で流れ落ちてきた土砂であろう。当初は白っぽい線まで埋ったらしい。下にある白い岩塊は、後に左上から落ちてきた落石。

画像を見て気づいたのだが、右下の白枠内、4つの岩は石積か?自然にこのように積み上がったのか?現地ではまったく気付かなかった。

 [ 山頂への道(跡) ]
右岸尾根へ

ガレ沢から右岸尾根に這い上る。
道跡のようでもあり、そうではないようにも見えるが、登るとしたらここだろうな。

「尊佛從三丁程登レハトウノ峯ト申ス峯有」(「黒尊佛山方之事」)
「孫佛から一町も登ると頂上」(高野鷹蔵「塔ヶ岳」)

明治21年測図「塔嶽」に記入された道は、尊仏岩の頭から高度にして20mほど下方で大金沢源頭のガレ沢を横断、右岸側の尾根を山頂に登って行く。
ガレ沢から頂上までの歩行距離を地形図から計算してみると200m余で、上記した両者の中間。

② 山頂へ② (左)這い上がった所の尾根は大した傾斜ではないが、その先で急峻になり、灌木や枯枝が覆いかぶさった段差がいくつか出現して、乗り越えるのに苦労した。道跡はない。

(右)尾根から見る尊仏岩。木の枝が重なり合って、はっきりとは見えない。


③
③ 尾根を登っていくと、〈尖った岩〉を経由する山頂-尊仏岩の一般的なルート(冒頭地形図の青破線)と合流した。
青破線のルートはここから左下へ下りて行く。


     ( 続 く )


 塔ノ岳 尊仏岩 (5)

      尊 仏 岩 

尊佛岩
(左)緑点線-赤点線は旧版地形図の道。現在、山頂から尊仏岩へ行くには、青破線のルートが使われている。
(右)迅速測図「神奈川縣相模國大住郡堀山下村外三村」 視図「(イ) 拘留孫佛」 測量年:明治15年11月 右側の小さな岩は、山頂から尊仏岩に降りる時に通る(左図の)〈尖った岩〉かもしれん。

孫佛様大正9年秋 松井幹雄氏撮影 (昭和13年「秦野山岳会編 丹沢山塊繪葉書」より)

松井幹雄「玄倉谷から丹澤山へ」
「此處が不動の清水だといふ。(略)お塔の峯は眞上だと聞いて、勇む心を左に絡む。土崩れの跡を横切る向ふには、孫佛様が、葉を振ひ落した枝に包まれて見えた。」(霧の旅会会報「霧の旅」第七號 大正10年7月、昭和9年「霧の旅」朋文堂 に再録)

拘(倶/狗)留孫仏は過去七仏(釈迦以前の七仏、釈迦牟尼仏は第七仏)の第四仏。
縦長の大石・巨岩を「拘留孫仏」として崇める例は各地にあり、塔ノ岳の尊仏岩もその一つである。

江戸時代の文書では、「倶(拘/狗)留」に「黒」の字を当てて「黒尊仏岩」(「峯中記略扣」)、「黒尊佛」「尊佛岩」(「黒尊佛山方之事」)、「黒尊佛」(「新編相模国風土記稿 玄倉村」)、「石孫佛」(同「三廻部村 観音院」)と表記される。

尊仏岩を「お塔」とする記録はなく、おそらく明治時代以降に民衆の間で「お塔」と呼ばれるようになったのではないかと推測する。
尊仏岩を「玄倉の人たちは狗留尊仏(くりゅうそんぶつ)ともよび、天狗の留る石だから尊いのだといっている。」(川口謙二「書かれない郷土史」p.59)といった様々な俗説も明治以降に発生したのであろう。

関東地震、翌年の丹沢地震(相模地震)で上部が崩壊する前の尊佛岩の高さは「三丈壱尺」 約9.4m(玄倉村による計測。後述)。
上部は崩壊したが中央部から下はあまりダメージがなかったように見え、現状は(大雑把な目測で) 7m くらいか。

[ 江戸時代の記録 ]
「峯中記略扣 常蓮坊」(江戸後期-末期)「是(=「塔ノ峰」)ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有」

「黒尊佛山方之事」(「大山御師文書」) 文化2年(1805)「此所(=尊佛嶽)ニ高サ弐丈五尺程之高キ岩有之也、是ヲ黒尊佛申也、又此下ノ右方ニ壹丈程之高キ岩ナランテ有、尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之、大日御迎タモウ所ハ此方少シ丑方エ御迎タモウ也、」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より一部引用)

城川隆生氏は「日向修験にとっての「塔ノ峰」と「弥陀薬師ノ塔」(塔ノ岳)、「黒尊仏岩」(山麓の宗教者は「孫仏岩」「拘留孫仏岩」とも表記)は近世末期になって現れる在俗行者にとっても重要な行場で、また里の村人たちにとっても信仰の対象として登拝が行われていました。その先駆的記録として『黒尊佛山方之事』を位置付けることが出来ます。日向修験と同時同場所で全く違う空間認識を持って抖擻する山岳修行者群が19世紀初めにすでに生まれていたのです。」と付記している。

「新編相模国風土記稿」(1841年完成)には塔ノ岳・尊仏岩に関連する以下のような記述がある。
「三廻部村 観音院 寺傳に、村北三里餘山境に至りて、塔ノ嶽ト云ニ石佛アリ、石孫佛ト号ス。当寺此石佛に因ありて、山号とすと云、其縁故詳ならす」
「玄倉村 塔ノ嶽 此山ノ中腹ニ土俗黒尊佛ト唱フル大石アリ。高五丈八尺許、其形座像ノ佛體ニ似タリ。故ニ此称(=黒尊佛)アリ。此山ヲ他郷ニテハ尊佛山ト唱フ。(中略)三廻部村観音院ニテハ、此石ヲ孫佛尊ト呼ビ、其寺ノ山號ヲモ孫佛山ト唱へリ、何ノ縁故アリヤ詳ナラズ」
「高五丈八尺許(約17.6m)」はあまりにも高すぎる。

玄倉前尊仏玄倉前尊仏 

風土記稿は幕府地誌調所に各村から地誌御調書上帳を提出させたうえ、地誌調出役が現地調査することになっていた。
天保6年(1835)に横野村から蓑毛村あたりの現地調査が行われており、玄倉村の現地調査もその頃かと思われるが、玄倉村みたいな山奥まで出役がほんとに来たのかな。
玄倉村が提出した書上帳は現存しないようなので確かめようがないが、編纂段階で〈玄倉の前尊仏〉と取り違えた可能性もあるんじゃないかと思う。
〈玄倉の前尊仏〉については 塔ノ岳 尊仏岩 (1)  を参照してくだされ。

[ 明治時代の記録 ]
玄倉村が明治10年(1877)に神奈川県に提出した公式記録ともいえる願書。
綱を使って実測したと推定され、もっとも信頼度が高い。
尊仏岩の「周囲」まで測ってるのがエライ!

「山北町史 史料編 近代」より 「No.51 狗留孫仏据え置き願いと回答」 
「 据置願  (略)足柄上郡玄倉村
狗留孫佛  
石像  周囲五丈二尺 丈ケ三丈壱尺 建立 年月不詳  
前建  不動  石像 周囲三尺 丈ケ壱尺八寸  建立 年月不詳  
前立  薬師如来  石像 周囲三尺 丈ケ壱尺八寸 建立 年月不詳
敷地  三拾坪  第三種官有地
但、永続方法、信仰人・村方一同ニテ春秋二期米麦蒐合、道路修繕或ハ小屋掛休息致、参指(詣)人之不都合無之様(これなきよう)厚ク注意仕度(つかまつりたく)、一同商議仕候  同郡同小区川村岸 請持 東光院住職
(略)従前村方一同信仰仕居(おり)候ニ付、何卒(なにとぞ)将来御据置成下度(なしくだされたく)、此段奉願(このだんねがいたてまつり)候也
信仰人(24名)  明治十年十月 (略) 東光院住職 本多恵現 (以下略)
(回答)書面願之趣、聞届候事 明治十年十二月十五日 神奈川県印 」

「石像」は「狗留孫佛」(尊仏岩)自体である。
「周囲」は現在石像・板碑 計3基がのっかっている岩の根本のところに綱を回して測ったんじゃないかな、と推測する。
「周囲五丈二尺」約15.8m、「丈ケ三丈壱尺」高さ 約9.4m、「建立 年月不詳」 だろーね。
「前建」と「前立」は意図的に使い分けているのか判断しかねる。どちらかが岩の基部にではなく、天辺に安置されていたために書き分けたのだろうか。「狗留孫佛」の頭の上にのっけた仏像を〈マエダチ〉とは言わないかな。
「前建」「前立」ともに「周囲三尺」 約91cm、「丈ケ壱尺八寸」高さ 約55cm。
文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」に「尊佛岩之下ニ長壹尺程之大日尊有之」と記されていた「大日尊」の記入がなく、すでに消え失せていたらしい。

「但」以下は、これからも信者と玄倉村が共同で春秋の二回、米と麦を集めて奉納、参道修繕、(不動の水場の)お籠り堂維持管理に努め、参詣者に不都合がないよう一同で申し合わせております。 玄倉村では昔から狗留孫佛を信仰しておりますので、「請持」の川村岸 東光院住職からも、なにとぞすえ長くよろしくお願い致します~、といった内容。

「塔ヶ嶽」 高野鷹藏 (「山岳」 第1年第1号 明治39年4月)
「土俗黒尊佛と唱うる大石(略)高さ五丈八尺とあるが其れ程高くはない様である」
「土地のものは御塔とか、孫佛(ソンブツ)サンとか云ふて中々信仰して居る」
「此岩の頭とも云ふべき所には、佛像が置いてあるとかで其所迄登れるそうであるが、登りもしなかった。」
(明治38年9月24日)「其れ(=「少さな小屋の破れた跡」)から二町も登るとやっと道に出た。其れを左へと少し行くと目の前に高さ三丈ばかりの大きな石が立って居る。其れが孫佛なので、其所から二十間ばかり道が壊れて居る所を降ると此岩の下に行ける。」

明治21年測量「塔嶽」(左)明治21年測量 1/20000 「塔嶽」
(右)高野・武田両氏が見上げた位置からの尊仏岩(2018年4月) 震災前は2m以上高かった。

「目の前に高さ三丈ばかりの大きな石が立って居る」(「塔ヶ嶽」)と書いているから尊仏岩を下から見上げているはずだが、続いて「降ると此岩の下に行ける」とあるのは矛盾している。「降る」ではなく「登る」でないと「此岩の下に行け」ない。
同行者の武田久吉氏も「目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黒尊仏が立って居た」(後述)と記しており、明治21年測量図「塔嶽」に記された「孫佛」への道から尊佛岩の下に達したことは間違いない。

「四十年前の丹沢を語る」武田久吉(「山と渓谷」昭和26年4月号)
「それ(=不動ノ水場)から僅でハッキリした小径に出遭い、それを少し左に行くと、目の前に高さ三丈もあろうかと思われる黒尊仏が立って居た。」

[ 大正時代の記録 ]
「丹澤山」 武田久吉 (「山岳」 第8年第3号)
大正2年(1913)8月31日「(塔ノ岳頂上から)北方に少し降りた(略)孫佛の石は山かげの妙な處へ只一つ生へぬけた様に立って居る、高さは一丈許もあらうか、頂に小さな地藏佛を安置してある、恐る〳〵はひ上って、生へて居る」植物を「採集し」「丁度手頃な石のかけ一つ謹んで頂戴する。」

塔ノ岳山頂から下降し、尊仏岩の上に降り着いたわけである。
「頂に小さな地藏佛を安置してある」尊仏岩に「地藏佛」はそぐわない気もするが、民俗学にも造詣の深い武田氏が見誤るとは思えない。
「高さは一丈許」(=約3m)と述べている。現在の高さが1m弱くらいだから、大地震で上部の、高さにして2mほどが崩れ落ちたことになる。

「丹沢山塊」 戸澤英一・藤島敏男 (「山岳」 第13年 第3号 大正8年) 
大正7年(1918)5月12日「孫佛様といふのは(不動の水場から)二三丁離れた所に在る五丈位の岩で、上には阿彌陀様の石像が安置されてある。」

尊仏岩天辺の石像が大正2年の「地藏佛」から、5年後には「阿彌陀様の石像」に替わっている。
「丹沢山塊」には武田久吉氏の「丹澤山」を参照したことも書かれており、大正2年に「(尊佛岩の)頂に小さな地藏佛を安置してあ」ったことは承知のうえで「阿彌陀様」と書いている。5年の間に石像が交代したのだ。石像を時々とり替えてたんですかね。
この「阿彌陀様の石像」も、震災で崩れ落ちた岩塊とともに大金沢に消え去ったに相違ない。

[ 関東地震・丹沢地震 ]
尊佛岩(左)大正9年 松井幹雄氏撮影(部分) 左下に写っている出張った岩(オレンジ色の線)は現存しない。岸崖が浸食されて後退し、この撮影地点は消失した。手前に写り込んでいる樹木から判断すると、カメラがわずかに右に傾いており、尊仏岩が実際よりも前傾して見えているように思う。
(右)2mくらい高い位置で撮影。沢岸の浸食により、(左)の画像より1mほど右寄りになっている。上部のオレンジ色破線は推定・崩落部。「その面に梵字で大きく「惡」と刻まれ」ていた(後述)という「その面」が黄色点線で囲った垂壁部分。垂壁部から斜め上方が崩落したようである。

大正12年9月1日の関東地震(関東大震災)と、翌年1月15日に発生した西丹沢を震源とする丹沢地震(相模地震、神奈川県西部での揺れの大きさは関東地震と同程度だったと推定される)は丹沢山地にとてつもない被害をもたらし、尊仏岩の上部も崩落した。
ほとんどの資料は〈関東大震災で崩れ落ちた〉と述べている(わずかだが丹沢地震をあげているものもある)が、目撃者がいたわけではなく、あくまでも推測である。
まず関東地震で崩れ、さらに丹沢地震が追い打ちをかけた、という可能性が最も高いんじゃないかいな。

「明治の山旅」 武田久吉 (1971 平凡社)
「この石(=「孫仏の巨岩」)は大正十二年九月の関東大震災か、またはその翌年一月十六日(註:15日の誤り)の丹沢地震の時に、金沢に転落して亡失してしまった」

「金沢に転落して亡失」とはいっても、崩落したのは上部で、下部は気丈にも大震災を耐え抜いて現存しているが、これらの文から、尊仏岩全体が消失したと誤解されるようになったのかもしれない。

「丹澤山の近況と眺望」武田久吉(「山岳」第18年第2号「雜録」より)
「尊佛の岩は谷間に墜落して、跡には小石佛一両體が残るに過ぎない、それでもその下の水は依然湧出している」(大正13年7月下旬、関東大震災後、神奈川県青年連合会震災跡実地調査の際の記録)
尊仏岩跡に「小石佛一両體が残」っていたのだ。現在、岩頭に置かれている2体の如来像がそれなのだろうか。
「塔ノ岳孫仏記」(坂本光雄)によると「多分玄倉の衆が谷間から拾い上げて祀ったものだという」(後述)。
「依然湧出している」「その下の水」は不動ノ水場のことだろう。

「丹澤玄倉川と周圍の山々」坂本光雄(「山と渓谷」28号 昭和9年11月)
「此の大石(=尊仏岩)の上に座像の佛體が安置せられてあったのが、大正の震害で、大金澤へ轉落したのは諸兄の周知の事と思ふ。」

[ 昭和時代の記録 ]
坂本光雄「丹澤・塔岳雜談」(「山と渓谷」第40号 昭和11年11月)
「昔の孫佛岩の形態に就いて(略)里の古老に訊ねてみますと、高さ二丈許りの立岩で周邊が十間餘りもあり上身が少しく前に屈してゐてその面に梵字で大きく「惡」と刻まれ、そしてその前に上が平坦で根本の尖った一間程の岩が恰度臺座の様に在ったと云はれてをります。そして何時の頃からか孫佛岩の上に二尺許りの座像の如来様が安置されてその前には木劍や鐵劍などが供へられたと云はれて居ります。」
「孫佛様はいつの頃からか所謂ひょんなことの守神と云ひ始められて放逸無漸の遊民が、納太刀と云って大きな木太刀をかついで博奕の勝利を祈願しに登られるやうに成りました。(略)縁起をかつぐ階級の人々に大分信仰されてゐた様です。」
「孫佛様は傳へられる處に依りますと冨士淺間様竝びに大山石尊様と共に三姉弟だと云はれ、靈験極めてあらたかな一面非常な荒神様だったとも申されてをります。」
「孫佛様の通力に恐怖した山麓の人々は狂留孫佛様じゃと云ってその靈験のイヤチコ(=神仏の利益・霊験が著しいこと)さには昭和の今日でも根ッから信じ切って居ります。」
「狂留孫佛は狗留孫佛とも言って狗(ク)は天狗の狗で天狗さんが留ってゐらっしゃるでー、孫佛様は天狗さんズラー、と村民はそういって居ります。」
「孫佛様の由來(略)の第一説は七百年許前の昔、孔雀明王の呪を念じると飛行自在の身となったといふ有名な役の小角が塔ノ岳に登られて始めて大きな立岩を發見してこれに祈禱をして狗留孫佛を祀ったと云ふ話があって、第二説は元禄二年の頃、曾我原の山中の岩窟に澄禪上人と云へる高僧が住んで居りまして暁の夢のお告げに狗留孫佛の舎利を授けられ、これをお告げの通り塔ノ岳へ登りこの岩に祀ったと云ふ話、も一つは」「日本武尊が東夷征伐の砌り相模の國へ渡られ秦野盆地より菩提山を經て塔ノ岳へ登らせ給ひこの岩に憩はれたと云ふ話、よってもって日本武尊を祀ったので、尊佛(ソンブツ)山と云ふ。この説は(略)三ノ塔山の次峰の大平山(=二ノ塔)に在る日本武尊の力石と穪される陰石から附會された説ではなからうかと思考せられます。」

「昔の孫佛岩」を「里の古老に訊ねてみますと」「周邊が十間餘り」「上身が少しく前に屈してゐてその面に梵字で大きく「惡」と刻まれ」
「昔」がいつのことなのか分らんし、「と云はれてをります」なので「里の古老」の体験談ではなく、伝え聞いた話なのだろう。
「周邊が十間(=約18m)餘り」は明治10年の玄倉村による計測「周囲五丈二尺(=約15.8m)」と大差はなく、その記憶が残っていたと思われる。
「その面」は[関東地震・丹沢地震] 画像の黄色点線で囲った垂壁部分。そこに「梵字で大きく「惡」と刻まれ」ていた、というが、本当かな。
「梵字で」「惡」の意味が分らんが、梵字「アーンク」または「アーク」(どちらも胎蔵界大日如来を表す)の読みを「惡」(アク)と記憶していたのか、「惡」の字に似た梵字だった、ということだろうか。
この垂壁部分には彫込みがあったような形跡は見えない。二度の大地震でも損傷がなかったように見えるのだが、表面が剝離したのかな。どういうことなのか分らん。

「その前に上が平坦で根本の尖った一間程の岩が恰度臺座の様に在ったと云はれてをります。」
文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」「此(=黒尊佛)下ノ右方ニ壹丈程之高キ岩ナランテ有」の「高キ岩」なんだろうと思うが、高さが「壹丈程」(約3m)から「一間程」(約1.8m)に縮まってる。頭の方から少しずつ崩れてたのかな。
「一間程の岩」は現存しない。大震災で上部から崩落してきた岩なだれもろとも崩れ去ったに相違あるまい。

「何時の頃からか孫佛岩の上に二尺許りの座像の如来様が安置されてその前には木劍や鐵劍などが供へられたと云はれて居ります。」
「何時の頃からか」では何時の頃なのか分らん。
尊仏岩の上にあったのは、大正2年8月には「地藏佛(=菩薩)」(「丹澤山」)だったが、5年ほど後の大正7年5月には「阿彌陀様(=如来)の石像」(「丹沢山塊」 )に代っていた。
「何時」が震災前で大正7年ころより後だとすると「二尺許りの座像の如来様」は阿弥陀如来だったことになるが、その前代の「地藏佛」よりもずっと前のことなのかもしれん。

「如来様 (略) の前には木劍や鐵劍などが供へられ」ていたという。大山で参拝者が木太刀を奉納した〈納め太刀〉の風習に倣ったのだろう。
「そんぶっつぁん」(尊仏さん=尊仏岩)がいつからか「ひょんなこと(=博打)の守神」ともみなされるようになって「納太刀と云って大きな木太刀をかついで博奕の勝利を祈願しに登られるやうに成」ったためであるらしい。「縁起をかつぐ階級の人々(=博徒)に大分信仰されてゐた様で」ある。
1950年ころまで、5月15日のお祭には大倉尾根のあちこちで賭場が開かれ、警察も黙認していた(せざるを得なかった)ようである。

「丹沢山塊」(塚本閤治 山と渓谷社/生活社 昭和19年9月発行)
「古くから例年黒尊仏の祭礼は四月、六月に山北の川村岸の東光院に依つて行はれ (略) 何時の間にか変つた五月十五日の祭礼日には (略) 頂上を始めとして大倉尾根の要所々々に近郷近在の名うての博徒共が網をはり、登拝に来る善男善女及登山者に対して運試しの賭博を盛んに奨めたと言ふ習慣があつたさうである。」

「孫佛様は」「冨士淺間様竝びに大山石尊様と共に三姉弟だと云はれ」ていたそうである。初めて聞いた。こういう俗信もあったんだ。
「孫佛様は天狗さんズラー、と村民はそういって居ります。」
先に「玄倉の人たちは(略)天狗の留る石だから尊いのだといっている。」(川口謙二「書かれない郷土史」)ことを記した。「村民」は玄倉村民なのかな。それはともかく、典型的な俗信。
「孫佛様の由來」「第一説」役小角を引き合いに出すのはよくある話、「第二説」の「澄禪上人」については後に述べる予定。

坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」(「あしなか」第41輯 1954) 
「堀山下村の城入院、南条氏は金で造つた一寸三分の如来の像が、孫仏岩の中段へ祀りこめられてあつたという。この如来様をめぐって行者の間で取合いをしたと、いまでも大倉部落の年寄りの語り草になつている。昔は本山派と当山派の山伏の間に軋轢があったものであらう。」 
本当の話かなあ、ちょっと信じがたい。「金で造った」如来像というのが眉唾ものだし、江戸時代以降の丹沢山域で「当山派の山伏」が本山派と競り合えるほどの勢力を有していたとは、とうてい思えない。

同上
「(尊仏小屋の主人から)例の地震(=関東地震・丹沢地震)で大金沢へ転げ落ちた孫仏岩跡の直ぐ傍に、三体の石仏が祀られてあることを知らされた。(中略)昔は孫仏岩の附近に、三か所ばかり石仏が山麓各村から祀られてあって、石仏を祀ってある場所を屋敷(ヤシキ)といつていた。」
「苔むした岩上に三体の石仏が安置されてあつて、その前に小さなブリキ製の鳥居が建てられてある。
この石像は地元の人達の話では、多分玄倉の衆が谷間から拾い上げて祀ったものだという、三体の石仏の中、一体は右手の藥指を折り、左手に宝珠(藥壺)を持った素人でも一目で判る薬師如来である。この石像の最も興味のあるのは、台座に彫られた二匹の鼡(ねずみ)の彫刻(略)」
「薬師仏の前の二体は共に同形で、堀山下村の城入院・南条氏に写真をお見せした所、掌の如印が内漠であるから、胎蔵界の阿弥陀如来であろうと申された。この二体の相違は、左方は比較的新らしく何んらの損傷もないが右方は最も古びて、御首が欠けて無くなつている。
(略)阿弥陀仏はともに台座が無く、薬師は三重の台座の上に蓮華座があって(略)
この石仏の前のブリキ製の鳥居には(略)昭和〇年五月十五日建之佐野半七と僅かに判読される(略)
(略)薬師仏の裏面に、次の如く彫られてある。
『上溝村 願主・清水五郎兵ヱ 武相世話人 座間岩次郎、甘利徳次郎、島崎延治郎、浅見和助、二見佐市郎、高野歳次郎、青木兼吉、佐藤兵左ヱ門』
それから台座の方に、先達、竹内氏と認められる。ただし年号が彫られてない(略)明治初期のものらしい」 (昭和28、11.30 稿)
「上溝村」は現在の相模原市中央区。

第二次大戦後の1953年11月に書かれた文である。その頃、尊仏岩には石仏が三体あったのだ。

大正13年8月に尊仏岩を訪れた武田久吉氏は「尊佛の岩は谷間に墜落して、跡には小石佛一両體が残るに過ぎない」(「丹澤山の近況と眺望」)と記している。
「小石佛一両體」は現存する二体の石仏ではないだろうか。大金沢に転落していたものを「玄倉の衆が谷間から拾い上げて祀ったもの」だと思われる。現在では二体とも首が欠けているが、当時は一体は「比較的新らしく何んらの損傷もな」かったのだ。

鼡の彫刻がある「台座の方に、先達、竹内氏と認められる」薬師仏は更に後になってから見つかって運び上げられたか、あるいは二体の阿弥陀仏と同じ頃に発見されていたが、当初は尊仏岩の基部に安置され、大正13年9月以降に上方に移された、ということかもしれない。
その薬師仏がいつの間にか消えてしまい、その跡に文字塔が建立されたのだろうか。

薬師仏は、明治10年(1877)に玄倉村が神奈川県に提出した「据置願」(「山北町史 史料編 No.51) に記された「前立 薬師如来 石像」であった可能性もあるように思う。
「薬師仏」には「年号が彫られてない」し、「前立 薬師如来 石像」は「建立 年月不詳」とされ、どちらも建立年が不明である。

水場の不動尊に刻まれた銘によると、竹内富造の「初山」は「嘉永元申年(1848)二月」、水場に不動尊を寄進したのが明治14年(1881)であった。
寄進の順番からすれば、水場よりも尊仏岩の方が前になるだろう。竹内先達の寄進になる薬師像が、明治9年以前から尊仏岩の基部にあったとしてもおかしくはない。

      ( 続 く )

 塔ノ岳 尊仏岩 (4)

      「 峯中記略扣 」の
    入峰ルートを考える

  
「峯中記略扣 常蓮坊」(江戸時代後期-末期)のうち「丹沢問答口」から「山江入」って「小家ヲカラケ一宿」し「尊仏云所ニ出札納」「大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」までの部分を検証する。

「丹沢問答口江出山王権現札納此所迄ハ里人送リ是ヨリ別レ行人斗リ山江入小家ヲカラケ一宿ス」

「峯中記略扣」が文政元年(1818)以後の成立であれば、門戸口にはすでに集落があって住人がいたから「問答口」(=門戸口)は入峰ルート上の最後の人里となる。
ルート図
札を納めた「山王権現」は檜沢にあったのではないだろうか。
「大正3年2月3日   横浜貿易新報 4611号 丹沢山の住民(1) 現代式の太古桃源村 鶏犬に和す伊吾の声」(「市川生」筆)に「行く程に沢の傍に春日神社があった。境内に立っている古びた石碑は青苔蒸して銘読む可からずは残念至極、今より四五年前の事、此境内の片隅から鎧や兜や太刀や人骨が発掘されたそうである。」(「秦野市史叢書 新聞記事」)という記述がある。
「此境内の片隅から鎧や兜や太刀や人骨が発掘された」とあるから、「此境内」は江戸時代以前からあったはずである。

「春日神社」があったのは筆者・市川君が門戸口から諸戸事務所へ向う途中なので檜沢の傍と考えられ、明治の神仏分離の際、かつてあった仏教系の施設を神社に衣替えしたものではないかと推測する。(春日神社については 
矢櫃峠周辺の道 (6) を参照してくだされ)
「峯中記略扣」の行程から推定すると、「山王権現」が明治以降「春日神社」に取って代わられた可能性が高いように思う。

「丹沢問答口江出山王権現札納」門戸口から札掛への道を「山王権現」まで下って「札納」、「此所迄ハ里人送リ是ヨリ別レ行人斗リ山江入」ここまで随伴して来た「里人」と別れ、ここからは「行人斗リ山江入」行人だけで更に札掛への道をカンスコロバシ沢までたどり、藤熊川を対岸に渡って「小家ヲカラケ一宿」したと思われる。
「行人斗リ山江入」は、藤熊川を結界として左岸側は「行人」だけに許された聖域の「山」と見なされ、聖域である「山江入」って「小家ヲカラケ一宿ス」小屋掛けして一夜を過ごした、ということであろう。

「是ヨリ立出烏ケ尾ト云山ニ上リ三リ程也 (中略) 此山上ニ蔵王権現石仏有是ニ札納法示祓シ夫ヨリ向ノ峰ニ移リスズノ中ヲ暫ク行尊仏云所ニ出札納是江一宿祓シ是ヨリ西ノ方ヨリ北エ行大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」

「是ヨリ立出烏ケ尾ト云山ニ上リ三リ程也」 
「是」は「小家ヲカラケ一宿」した場所であり、ボスコオートキャンプ場の対岸にあたる。藤熊川をここまで降りてこないと「烏ケ尾ト云山ニ」直接登ることはできない(「烏ケ尾」は三ノ塔のことで、現在「烏尾山」と呼ばれている峰ではない)。
そこより上流から登ると二ノ塔にでてしまい、「峯中記略扣」の記述と違ってしまう。

「上リ三リ程也」この支尾根には現在も登山道(通称「ボスコルート」)があり、蓬平に登り着く。この道は明治15年測量「神奈川縣相模國大住郡寺山村」(迅速測図)に蓬平から尾根をこえて反対側のタライゴヤ沢側の途中まで実線で記入されている。
ヨモギ平(左)蓬平。 (右)「烏ケ尾」(三ノ塔)への道。

蓬平から「烏ケ尾」(=三ノ塔)までヨモギ尾根の道となる。「三リ程也」三里とは相当長く感じたようである。

「此山上ニ蔵王権現石仏有是ニ札納法示祓シ」三ノ塔の頂上には「蔵王権現石仏」があって「札納法示祓シ」札を納め勤行・祓いをする。

塔ノ岳 大山(左)三ノ塔北端から表尾根と塔ノ岳。三角屋根がある最初の峰が烏尾山。
(右)三ノ塔最高所から藤熊川の谷越しに見る大山。

ヨモギ尾根を登っていくと、三ノ塔(「烏ケ尾」)の南北に長い頂稜の北端に登り着く。
頂稜は南に向かって少しずつ高くなり、尾根が広くなった南端の最高地点に「三ノ塔休憩所」がある。
少し南のやや低い所に三等三角点が置かれ、その少し先まで幅広い尾根が続く。頂稜北端から三角点まで直線距離で約260m。
「石仏」が最高地点に置かれるとは限らないが、長い頂稜のどこかに置くなら、最も高く、かつ広い場所に安置する可能性が高いように思う。

「夫ヨリ向ノ峰ニ移リスズノ中ヲ暫ク行尊仏云所ニ出札納是江一宿祓シ是ヨリ西ノ方ヨリ北エ行大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」

「夫(=「蔵王権現石仏」に「札納法示祓シ」)ヨリ向ノ峰ニ移リ」
問題は「蔵王権現石仏」に札を納め勤行・祓いをしてから「向ノ峰ニ移リ」である。「向ノ峰」はどの峰か?
立木に邪魔されなければ、三ノ塔頂稜のどこからも烏尾山は見える。ニノ塔は、今は植林された杉林に隠れて最高地点からも見えないが、林がなければ見えるはずだ。どちらが「向ノ峰」なのか、判断できない。

「石仏」が「此山上」のどこにあったとしても、「行人」は藤熊川の谷の向うに大きく見える東の大山を正面にして「是(=「蔵王権現石仏」)ニ札納法示祓シ」蔵王権現に札を納め、勤行・祓いを行ったと想像される。このシチュエーションで、わざわざ大山に背を向けて儀式を執り行うとは思えない。

[「向ノ峰」が現・烏尾山 の場合 ]
尊仏云所
緑円は「向ノ峰」が現・烏尾山を指す場合の「スズノ中ヲ暫ク行」って「出」る「尊仏云所」の推定位置。
「暫ク行」の表現から頂上からあまり遠くない場所と推定され、これより下だと「西ノ方ヨリ北エ行」の表現とも合致しなくなる。

「向ノ峰」が現・烏尾山を指すとして「尊仏云所ニ出」て「是江一宿」し、翌日行者岳に向かうために「是(=「尊仏云所」)ヨリ西ノ方ヨリ北エ行」くとすると、「尊仏云所」は頂上からさほど遠くない位置にあり、その付近から山腹を西から北にトラバースして表尾根の1120m地点に合流する道があった、と考えないと「是(=「尊仏云所」)ヨリ西ノ方ヨリ北エ行」と符合しない。

関東地震(関東大震災)・丹沢地震以前は現在よりも山体がはるかに安定しており、今では想像もできないような山腹を馬道が横切っていた。
鍋割山の西、鍋割峠やオガラ沢乗越の北面は、現在では急峻なガレ場になっているが、関東大震災までは熊木沢出合の製材所と寄村を結ぶ馬道があって、荷を満載した駄馬が盛んに行きかっていたのである。
現・烏尾山頂上下方の西面を横切る徒歩道(馬道ではなかったろう)があったとしても、おかしくはない。

しかし文化2年「黒尊佛山方之事」では「行者嶽」から現・烏尾山南西尾根を下って大倉に戻ったと思われるのだが、とすると烏尾山からの下山中に「尊仏云所」に立ち寄るはずなのに、そのような記述はない(後述)。

[「向ノ峰」が二ノ塔の場合 ]
ニノ塔三ノ塔から南東に少し降りた地点から見るニノ塔。

「向ノ峰ニ移リスズノ中ヲ暫ク行尊仏云所ニ出」の文意は、「向ノ峰」(=二ノ塔)に「移リ」「スズ」(篠竹)を掻き分けて「暫ク行」き「尊仏云所ニ出」る、となる。

二ノ塔から「暫ク」降りて行って出る「尊仏云所」は、現在〈日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の足跡〉と呼ばれている所ではないかと推定する。かつては〈日本武尊の力石〉と呼ばれていたようである。
手前には鳥居もあり、かなり古くから信仰されていたように見える。
注連縄を張られた高みの、自然石で組立てた素朴な石祠(っぽいもの)の後に立っている岩が「尊仏」ではなかろうか。
注連縄の位置からして、祀られているのは明らかに岩であり、〈日本武尊の足跡〉ではない。石祠のような構造物も、割と最近になって、ありあわせの石で作られたように思え、元来はその場になかった物なのであろう。
かつては鳥居・注連縄、石祠みたいなものはなく、石だらけの高みに縦長の岩だけが立っていたんだと思う。

鳥居が建ち注連縄が張られた古くからの聖地であるように思われるにも拘らず、表尾根南麓地域の住民がこの岩を信仰対象として登拝した、という話は聞かない。
〈日本武尊〉にこじつけられるようになったのも、それほど古い話ではないんじゃないかと思う。
だとすると、この岩を祀っていたのは(現在どうかは不明だが)山麓の住民ではなかった、ということになりそうである。

唐子明神社 前尊仏
素朴な石祠(らしき物)の後の岩が「尊仏」か?

「札納是江一宿祓シ是ヨリ西ノ方ヨリ北エ行大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」 
「尊仏」に「札納」め、その場所に一泊。お祓いをして「是ヨリ西ノ方ヨリ北エ行」ここから西(実際には北西)へ行き、現在の烏尾山で北へ転じて進むと「大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」(=行者ヶ岳)となり、地形図上のコースと一致する。

日本武尊の足跡日本武尊の足跡

伝説では日本武尊の東征の際、阿夫利山に進軍した時(当時の大山には動物しか棲んでなかったと思うけどね)、水がなくて難儀した。
尊が岩を踏みつけると水が湧き出し、踏んだとされる窪みが〈日本武尊の足跡〉として残っている。

枯れることのなかった泉は明応7年(1498)の大地震で埋まってしまったという。
また、かつては側に石碑があったが明応7年、あるいは明暦年間(1655-1658)の地震で埋没した、とも伝わるそうである。
埋没したというのは泉なのか石碑なのか分らんが、そんな史料があるのかな?

「日本武尊が東夷征伐の砌り相模の國へ渡られ秦野盆地より菩提山を經て塔ノ岳へ登らせ給ひこの岩(=尊仏岩)に憩はれたと云ふ話、よってもって日本武尊を祀ったので、尊佛(ソンブツ)山と云ふ。この説は(略)三ノ塔山の次峰の大平山(=二ノ塔)に在る日本武尊の力石と穪される陰石から附會された説ではなからうかと思考せられます。この力石と云ふのは平坦な巨石でその面に直徑一尺三、四寸許りのワラジの足跡がありましてこれが所謂日本武尊が塔ノ岳へ登る途中、飲水に窮してお踏みになった足跡だと傳へられてドンナ旱天でもこんこんと清水を堪(湛)へて居ると云はれてをります。」(坂本光雄「丹澤・塔岳雜談」山と渓谷 第40号 昭和11年)

第二次大戦前のこの頃は「日本武尊の力石と穪され」ていたようだ。
この話では日本武尊が塔ノ岳へ登る途中に通った所とされている。
てことは、二ノ塔-塔ノ岳間の初縦走者は日本武尊か?

[「 黒尊佛山方之事」下山ルート ]
文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」
「是從廻下ノ向道也、壹里程廻也、此下向道ニ行者嶽座善石ト申参詣所是有ル也、是從下向イタシ、本之宿返り泊ル者也、」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より一部引用)

「黒尊佛山方之事」では「是」(=塔ノ岳頂上)から大倉尾根を下らず、「壹里程廻也」遠回りをして「此下向道ニ行者嶽座善石ト申参詣所是有ル也」表尾根を「行者嶽」まで行き「座善石ト申参詣所」役行者像に「参詣」、「是從下向イタシ、本之宿返り泊ル者也」そこから下山、前夜の大倉の宿に戻って、もう一泊している。
大日如来像があった木ノ又大日を過ぎて行者岳に至り、「是(=行者岳)從下向イタシ、本之宿(=「大クラ」の宿)返」るまで、どのルートをとったのだろうか。

「丹沢山塊」日本山岳寫真書 塚本閤治 (昭和19年 生活社 / 山と渓谷社) より「表尾根縱走」
「木ノ俣大日の山頂である。(略)大震災前は山頂の橅の巨木の俣に大日如來の像が安置されてあったのでかく名付けられたのだと云はれてゐる。」

行者ヶ岳役行者像

行者ヶ岳にあった役行者像
(昭和13年 漆原俊氏撮影 奥野幸道「丹沢今昔」2004 より転載
)


「大キナル岩ノ上ニ役ノ行者有」
昭和15年ころまで行者ヶ岳に役行者像があったが、いつしか消えてしまったそうである。

裏面に「大泉房尭真 永禄十三年庚三月十日(1570年4月25日) 権大僧都法印」銘があったという。

「表尾根縱走」 (三ノ塔から)「山徑は(烏尾山の)山頂を走らずに北側の腹を捲いて續いてゐる。(略)一一八八米の獨標記號の有る行者山である。此處から少しく下った一岩峰に昭和十三年迄は行者を刻んだ立派な石像と石造の巻物迄も安置してあったのだが、其れ以後姿を見せない。心無い登山者の惡戲であらうか。」(「丹沢山塊」)
烏尾山の「山頂を」通らずに「北側の腹を捲」く道があったようだ。
「行者を刻んだ立派な石像と石造の巻物」は行者岳の頂上から西側に「少しく下った一岩峰に昭和十三年迄は」安置されてあったという。このあたりの縦走路には岩場が多く、どこが「一岩峰」なのかわからない。

坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」(「あしなか」第41輯 1954)
「高さ二尺ばかりの二体の行者像が、岩上に安置されてあつて、その前に石で造られた巻物(経文)が供えられてあつた。これは昭和の初期まで、現存していたと、尊仏小屋の渋谷氏は語られた。」
かつては行者像が2体あったようである。

行者岳の西面は険しく、頂上から水無川側に降りる道はない。
現在〈政次郎の頭〉と呼ばれている峰の北側から戸沢出合に下る尾根道がある。当時も細々とした山道はあったと思われるが馬道ではなく、通行もわずかなものだったろう。

とすると現在の〈烏尾山〉から南西尾根を降りたことになる。
ヒゴノ観音馬頭観音碑(ヒゴノ観音)
(左面)「文化七年(1810) 庚午四月吉日 ▢(施)主 横野邑中」
(右面)「是より たん沢御林 拘留そん仏 みち」

915m地点に〈ヒゴノ観音〉と通称される横野村が建立した馬頭観音碑が現存することからも分るように、尾根のかなり上部まで馬道が続いていた。交通量の多い歩きやすい道だったのであろう。
「拘留そん仏 みち」と刻まれていることから、この道が横野村から尊仏岩への「東口」と称された参詣道であったことも知れる。

天保6年(1835)2月横野村「地誌御調書上帳」(秦野市史 第2巻 No.16)「山稼場 (略)字萩山中央限り牛くびれと申処より丹沢御林見廻り道行者山迄」
「萩山」は三ノ塔尾根下半の字名、「牛くびれ」(=牛首)からヒゴノ沢を渡り、十三曲を登って表尾根に至り「行者山迄」が「丹沢御林見廻り道」だったようである。

烏尾山-大倉明治21年測量「塔嶽」

「黒尊佛山方之事」では「尊佛山」(=塔ノ岳)から「藥師嶽」(=蛭ヶ岳)まで往復し、戻ってきた「トウノ峯」(=塔ノ岳)から「行者嶽」の「座善石ト申参詣所」に「壹里程廻」り道をして「是從下向イタシ」たのである。長い山歩きでかなり疲れていたはずであるから、なるべく歩きやすい道を選んで「下向」したに相違あるまい。

となると「行者嶽」からの下山ルートは烏尾山南西尾根を780mまで下り、〈十三曲〉と呼ばれたヒゴノ沢側の道から戸沢尾根(三ノ塔尾根)を「牛くびれ」(牛首)で越え、横野村山居を通り過ぎて水無川を渡り、大倉に戻ったと考えられる。

十三曲(左)表示板に記入された〈十三曲〉
(右)ヒゴノ沢(前方下の白い河原)を渡る手前の〈十三曲〉。馬道当時の法面の石積が崩れ、道路上に落ちた石を谷側にどかした岩屑が道沿いに散乱している。

現在の道は前方の白杭が立つ屈曲点で右へ曲り、表丹沢林道の上倉見橋に降りているが、旧道はまっすぐに進んでヒゴノ沢を渡っていた。杭の前方の立木の間が凹状に窪んでいるのがかつての道跡である。その先に痕跡は残っていない。沢を渡った旧道は、表丹沢林道の上方を牛首に向っていた。

坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」(「あしなか」第41輯 1954年)
(孫仏山からの)「下山路は大てい往路を大倉尾根へ降ったが、またいまの表尾根を木ノ又大日、行者岳と越え一一三七米の烏尾山から右手へ切れて、十三曲りの尾根へと下り、ヒゴノ沢を突切り三ノ塔尾根の突端をかすめて字山居(サンキョ)へ辿り、戸川村へも出たものであったという。
この路は明治二十一年の二万分の一地図には、判然と小径記号があって、三ノ塔尾根からは、三尺幅の立派な山径となっている。途中烏尾山から十三曲の尾根に、いまでもヒゴノ観音、又は十三曲の観音様と呼ばれる石像があって、孫仏山への賽路の名残りをとゞめている。」

「尊仏云所」は「札納是江一宿祓」(「峯中記略扣」)するような重要な行所であったようである。それが烏尾山南西尾根にあったとすると、その尾根を下山ルートにとった(はずの)「黒尊佛山方之事」で「尊仏云所」にも言及しそうなもんだが、全行程中には省略された行場がいくつもあるようで、ここも省かれてしまったのかも。

この道は横野近辺の住民の山仕事の道として大いに活用されただけでなく、「丹沢御林見廻り道」であり、また尊仏岩詣の「東口」「拘留そん仏みち」とみなされ、通行も盛んだった。
その道沿い、あるいはすぐ近くに「尊仏云所」があったとすると、山麓地域に「尊仏云所」に関する伝承がないのも奇妙ではある。

 塔ノ岳 尊仏岩 (3)

      信玄の隠し金山

大金沢前回「尊仏岩下方の大金沢には金鉱があって、永録年間に数百人の鉱夫が働いていたという伝説があり、塔ノ岳は金華山と呼ばれ、山頂西側に金華山と号する寺があったという話も伝わるが、信用しがたい。」と書いた。
その金鉱は武田信玄の隠し金山だというのである。

この話について、伝説はマスメディア(この場合は「山と渓谷」誌)を通して、このように作り上げられていくこともあるのか(現在でいう都市伝説)、との思いを抱いたので、本来のテーマからは外れるが、感懐を述べる。

「丹澤玄倉川と周圍の山々」坂本光雄 (「山と渓谷」第28号 昭和9年11月)
「傳説に依れば甲斐の武田信玄が此(=玄倉村)の附近の山々にて金を掘取りしより信玄の玄の字を冠して、玄倉(ゲンクラ)と呼び後玄倉(クロクラ)と轉稱されたものである。」

「丹沢・塔岳雜談」坂本光雄 (「山と渓谷」第40号 昭和11年11月)
「今年(=昭和11年)の春、ヤビツ峠から塔ノ岳へ遊びに行った時のことだった。足下の谷間から時たま凄じい音とともに山の崩れる様な響が聽える(中略)山麓でお百姓さんに訊ねてみました『(略)水無川のオキでよー金鑛が見つかったで、あっこで爆藥(ハッパ)かけてゐるんズラー』(略)どうやら丹澤の山懐にもゴールドラッシュ的な風景が演出されさうです。」
「永禄の頃、塔ノ岳北面の金澤に數百人の鑛夫が入込んで、ひところは盛んに金を堀り採ったと『新編相模国風土記稿』に見えて居ります。」

信玄の隠し金山伝説は坂本光雄氏の「丹澤玄倉川と周圍の山々」に記された荒唐無稽な「傳説」に発し、さらに同氏の「丹沢・塔岳雜談」の記述がそれを増幅させたように思われる。

「今年の春」の話は、水無川上流セドノ沢でマンガン鉱石を生産した大日鉱山のことと思われる。
〇福氏のブログ「丹沢の鉱山跡を探る 3 丹沢だより428号」および「村の税の負担と治山治水」三嶽敏雄(秦野市史研究 23号)、その他の資料によると大日鉱山は、丹沢に金鉱脈があるという伝説を頼りに昭和8年に試掘開始、しかし金はまったく出ず、かわりに良質なマンガン鉱を産出したという。しかし日中戦争が始まったため採掘中止、廃鉱となった。
戦後の1949年に事業を復活、採掘再開。採鉱現場から山道約8kmはそり又は馬、麓の戸川の事務所(現・戸川駐在所前)までケーブル線、戸川から渋沢駅までトラック便で運搬する計画でケーブル線工事にも着手したものの経営が立ち行かず、1953年閉山した。

「お百姓さん」が言った「金鑛」は金属鉱石の意味であるが、それをゴールドの「金」と誤解したものとみえる。「お百姓さん」も誤解していたのかもしれない。

後の話だが、2000年ころまで表尾根にあった書策小屋に上る〈書策新道〉(廃道)は、大日鉱山の仕事道を改修・延長した登山道だった。
大日鉱山跡は現在も廃坑として残っており、訪れる人もいる。

永禄年間(1558-1570)の初め頃には甲相同盟が結ばれていた。
だが時は戦国の世、仲が良かったなどと考えるべきではない。同盟を結んだのは、北条・武田両氏にとって、その方が都合がよかったから、にすぎない。
甲相同盟は永禄11年(1567)に破綻、翌年10月には甲州軍が小田原を包囲、続いて三増峠で甲相が激突する。

武田氏支配領域内における金採掘は武田氏の直轄事業ではなく、金堀を行う「金山衆」と呼ばれた採掘事業者が金山経営にあたり、武田家はその利権を保証して見返りを受け取る、という形をとった。

「(甲斐の)金山衆は間歩(=坑道)・掘場(=露天掘り)の所有者で稼業主であり、山主(山師)である。(略)領主と被官関係を持つ名主的武士であり、金山衆は山主集団であるとともに武士団を形成していたらしい。」(「日本鉱山史の研究」小葉田淳 1968)

玄倉川源流大金沢で金採掘が行われたとはとうてい思えないが、かなりの埋蔵量の金鉱があった(少量では採算が合わない)と仮定して話を進めると、箒杉沢あたりに数百人もが長期にわたって住み着いていたことになる。
となるとその間、採掘用具、精錬用の鉛(金山衆は金の精錬に「灰吹き法」を使った)だけでなく、膨大な量の食糧を搬入する必要がある。

輸送ルートは荷を満載した駄馬が通れるしっかりした道でなければならないから、城ヶ尾峠-二本杉峠-中川-玄倉-山神峠-大金沢の道しか考えられない。
中川-玄倉間の貧しい山村で、おそらく当時のその地域の全人口よりも多い数百人分の食糧を賄えるはずもないから、そのすべてを甲斐から搬入することになり、採取した金は甲斐への搬出が必要となる。

北条氏領内を隣国の多数の人馬が、我が物顔で毎日のように往来するのである。
しかもそれは相模国との交易のためではなく、北条氏領内で勝手に盗掘した金を、北条氏領民が住む村々を通って甲斐国に運び出す、つまりは盗み出すためである。
となると、盗品の輸送路を長期にわたって軍事的に確保する必要がある。その間、中川-玄倉間の住民は甲州の金山衆に支配されるのだ。

だが北条勢が、自領内の宝物が略奪されるのを黙って見ているはずはなく、ただちに駆けつけて、武士でもあった金山衆と戦闘になったはずである。
しかし、永禄年間に西丹沢山中で金の盗掘をめぐって金山衆と北条勢が戦った、という話は聞いたことがない。
聞いたことがないのは、そんな事件がなかったからである。地元にもそのような合戦伝承はない。

当時の地政学を考慮すれば、武田勢の金山衆が大挙して北条氏領内に侵入、長期にわたって居座り、なんの抵抗も受けずに勝手に金を堀りまくって持ち逃げする、なんてことはあり得ないことが容易に想像しうる、と思うんだが、へんてこな作り話がまことしやかに流布しちゃうのは、なんでだろ? ほんに不思議でごじゃる。

もう一度、最初の坂本光雄氏の文章に戻る。
「永禄の頃、塔ノ岳北面の金澤に數百人の鑛夫が入込んで、ひところは盛んに金を堀り採ったと「新編相模国風土記稿」に見えて居ります。」(「丹沢・塔岳雑談」)

「新編相模国風土記稿に見えて居」る「永禄の頃」「金澤に數百人の鑛夫が入込んで、ひところは盛んに金を堀り採った」話は「塔ノ岳北面の金澤」(=玄倉村)ではなく、「三廻部村 観音院」に見える「當村山中金澤」で砂金を産したという伝承のこと、としか考えられない。

「新編相模国風土記稿 三廻部村  観音院 永禄元年(1558)、當村山中金澤と云所より金銀砂を産せしより、鑛夫等集り、土著する者数百戸、多くは當寺の檀越(=檀家)となり、彼の地に寺を移せり。其の後金銀砂を産せず、鑛夫も離散して、當寺も舊地に復す」

同内容の記述が観音院所蔵古文書「寺属明細帳」にあるとのことで(「玄倉史話」池谷嘉徳 足柄乃文化 18)、「新編相模国風土記稿」はこれを参考にしたかと思われる。

「當村山中金澤」と明確に記されているように、「金銀砂を産」したのは「當村山中」(=三廻部村内の山の中)の「金澤」であった。坂本氏は、この部分を読まなかったのかな?
これが信玄の隠し金山伝説の一つとして語られるようになったのは、内容を誤読した坂本氏の記事がきっかけとなったんじゃないかと思う。とすれば、伝説の発生源が特定できる稀な例、といえる。

この「金澤」は、三廻部集落の北側を流れる、かつて「金堀沢」と呼ばれていたという現在の唐沢であるらしい(異説もある)。
丹沢に限らないが、「金」がゴールドであるのは稀で、ほとんどの場合は金属を意味する。
「金澤」も金属採取が行われた沢、と解釈すべきである。
伝説は大いに誇張されながら語り継がれるものだが、この話の場合も産したのは「金銀砂」ではなく砂鉄だったんだろう。「土著する者数百戸」も一桁か二桁大きく誇張されているものと思う。

当初は集落から700mほど北の「金澤」の近くにあった慈眼寺(後の観音院)が、水害か土砂崩れなどのため現在地に移転した、とも考えられる。
また元亀2年(1571)、織田信長との戦に参陣した寺僧が、比叡山焼討ちの際に討死したため慈眼寺は荒廃したといわれる。廃寺になった、という方が実態に近いのであろう。
90年以上も後の寛文2年(1662)に旧慈眼寺が上野寛永寺末観音院として再興された時に、旧地の「金澤」のあたりではなく現在地に寺を置いた可能性もありそうだ。
そうであれば「當寺も舊地に復」した(「新編相模国風土記稿 三廻部村 観音院」)のではなく、現在地に観音院として再興した、ことになる。     
      
       金 華 山

「塔ノ岳は金華山と呼ばれ、山頂西側に金華山と号する寺があったという話」を考察する。

坂本光雄「塔ノ岳孫仏記」 
「城入院の古文書には塔ノ岳を往昔は、金華山拘榴孫仏(クルソンブツ)と稱していたと誌してある。」(「あしなか」第41輯 1954年)
「城入院」は文化2年(1805)「黒尊佛山方之事」に「トウノ峯(=塔ノ岳)」山頂にある「石トウ」の所で「掘村修ケン中行ヲイタシ、三月廿三日祭(採)燈護摩修行仕」と記されている「堀村修ケン中」(堀村にあった本山修験3坊)の一つ。

大金沢金山伝説が、坂本光雄氏による「丹澤玄倉川と周圍の山々」(「山と渓谷」第28号 昭和9年)と「丹沢・塔岳雑談」(「山と渓谷」第40号 昭和11年)がきっかけとなって発生したとすると、「金華山と号する寺」伝説は大金沢金山伝説からの連想で作り出された、と考えられるんじゃないだろうか。
城入院の古文書に「塔ノ岳を往昔は、金華山拘榴孫仏と稱していた」とあったことも、金華山伝説が流布するうえで大きな力となったことだろう。

これらを読んだ登山愛好者の間で醸し出された作り話であるように思えるのだ。塔ノ岳周辺の地元には、金華山と号する寺の伝承は存在しないようである。

「金華山」の名称は、金華山黄金山神社がある石巻市鮎川浜の金華山からきているに相違ない。
東大寺盧舎那仏(奈良の大仏)造立中の天平21年(749)、陸奥国小田郡(延喜式神名帳「陸奥国小田郡 黄金山神社」に比定される遠田郡涌谷町黄金山神社)で初めて黄金(砂金)が産出され、大仏鍍金(めっき)のためとして朝廷に献上された。
金華山の社伝によると翌22年、金産出の吉事に因んで石巻市鮎川浜の島(後の金華山)に黄金山神社が創建された。
江戸時代に、初めて金を産出したのはこの島であると誤解されるようになって島は「金花山」「金華山」と呼ばれるようになり、霊場として信仰を集める島で修行した修験者が金華山信仰を各地に広めた。
島の登拝地巡拝に赴く信者は金華山黄金山神社の別当・真言宗金華山大金寺に参籠(おこもり)し、翌朝「お山がけ」に出向いたそうである。

塔ノ岳の金華山伝説は、大金沢の金採掘伝説・(不動の水場にあった)お籠り堂から尊仏岩への巡拝・丹沢山中を山岳抖擻する修験者、さらには「大金」沢と「大金」寺の名称が共通することから不動の水場に金華山と号する寺の存在を空想し、金華山を塔ノ岳に移しかえて出来上がっていったと考えられるように思う。

 塔ノ岳 尊仏岩 (2)

      塔ノ岳頂上

「新編相模国風土記稿」には「塔ノ嶽」(堀川村・戸川村・玄倉村・三廻部村)と「塔嶽」(堀齊藤村・堀山下村)の表記がある。「皇国地誌 玄倉村」では「塔ヶ岳」。

「新編相模国風土記稿」より
「堀川村 北にあり。塔之嶽と呼。登一里半餘。」
「堀齋藤村 塔嶽 北方に在。登六十町餘。麓より五十町許登り、字ヨシ澤と云所迄は幅六尺許の通路あり。夫より上は、道狭く甚嶮岨なり。」
「堀山下村 塔嶽 北に在。登り二里餘。」
「戸川村 山 西北に在。丹澤山の續にて、塔ノ嶽(以下略)」
「玄倉村 塔ノ嶽 村東大住郡界にあり。此山の中腹に土俗黒尊佛と唱ふる大石あり。(略)此山を他郷にては尊佛山と唱ふ。」
「三廻部村 観音院 孫佛山 寺傳に、村北三里餘山境に至りて塔ノ嶽と云に石佛あり。石孫佛と号す。(以下略)」

塔岳(左) 明治15年測図「神奈川縣相模國大住郡堀山下村外三村」(部分)
「塔ケ嶽」と記入。
(右) 明治21年測量 1/20000 「塔嶽」(部分)

金冷シ(の頭)の北側から西の山腹をまき、不動ノ水場を経て「孫佛」に至り、「塔嶽」山頂に達する登拝道が記入されている。
西面の巻道から尊仏岩に詣で、それから塔ノ岳山頂に向う参詣者も多かったようである。
「黒尊佛山方之事」(文化2年)は、この巻き道を「イタツテ足場モハル(悪)シ、ガケ也、」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より)と述べている。

尊仏岩下方の大金沢には金鉱があって、永録年間(1558-1570)に数百人の鉱夫が働いていたという伝説があり、塔ノ岳は金華山と呼ばれ、山頂西側(おそらく不動ノ水場であろう)に金華山と号する寺があったという話も伝わるが、信用しがたい。

金冷しから北
(左)金冷シから西面の山腹を不動の水場に向かう古道のかすかな跡。
(右)笹の中に続く古道跡。道跡はこの先で崩れた泥斜面を横切り、その先のガレ場で途絶える。

「峯中記略扣 常蓮坊」(近世後期-末期、日向修験):
「塔ノ峰也此所ニ弥陀薬師ノ塔有大ル平地也富士山ハスグニ西ノ方也是ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有」

「黒尊佛山方之事」(城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より)
「尊佛從三丁程登レハトウノ峯ト申ス峯有、此所ニ高壹尺五寸程之石トウ有也、此所ニテ掘村修ケン中行ヲイタシ、三月廿三日ニ祭(ママ)燈護摩修行仕、此峯ニ行場台有、常ニハヤキステ申ス也、」
尊仏岩から3町ほど(約330m)登ると「トウノ峯」(=塔ノ岳)で、「此所」(=山頂)に高さ1尺5寸ほど(約45cm)の「石トウ(塔)」がある。この石塔の所で「掘村修ケン中」(堀村修験中=本山修験 城光院・城入院・圓覚院)が「行ヲ」なし、3月23日に柴(採)燈護摩を行う。山頂には「行場台」があるが、普段は焼き捨ててしまう。

「新編相模国風土記稿 堀山下村」より 
「城光院 大蔵山育寶寺と號す。本山修験。小田原玉瀧坊霞下。本尊不動、又傍に弘法作の不動を安せり。(以下略)」  
「城入院 金曜山大泉寺と號す。本尊不動(以下略)」
「圓覺院 本尊不動(略)當寺は城入院より分院せしと云。」

「皇国地誌 村誌 相模国足柄上郡玄倉村 明治十八年五月二十二日稿」」(山北町史 史料編 近代 No.34 原文仮名はカタカナ)
「(大倉尾根から)嶺(いただき)に至り、又、是なん塔ヶ岳にて四方一丁許りの芝生なり、石塔あり、古雅にして高二尺もありなん、文字なく、唯幽(かす)かに三梵字みゆ、銕(くろがね)の太刀二尺許一振(ひとふり)あり、傍らに十一面観音の石像あり、享和二戌ノ年再興と彫れり、是過去千仏の余、現在千仏の首(かな)めに出世し玉ひし倶留孫如来の舎利を納めし宝塔の昔を思ひて造塔せしものと思はる、今の石塔も四、五百年前の物とみゆ、」

「塔ヶ岳」頂上は「四方一丁許りの芝生」で、「古雅にして高二尺もありなん」「石塔」がある。塔に(日本の)文字はなく、3字の梵字(サンスクリット)だけがかすかに読みとれる。「二尺許」の鉄剣が1本奉納されてある。
「傍らに十一面観音の石像あり、享和二戌ノ年(1802)再興と彫」ってある。
続く「是」は、文意からすると「石塔」を指す。かつては「倶留孫如来の舎利を納めし宝塔(=尊仏岩)の昔を思」って「造塔せし」石塔があった、と想定しているようである。「(それを継ぐ)今の石塔も四、五百年前の物とみ」える、という。
尊仏岩は「過去千仏の」後、「現在千仏の首め(=最初)に」出現した「倶留孫如来の舎利を納め」た「宝塔」とされたのであろう。
「千仏」は過去・現在・未来の三劫にそれぞれ出現するとされる千の仏、〈劫〉はきわめて長い時間。現在賢劫の千仏は拘留孫仏にはじまるとされ、釈迦牟尼仏は4番目にあたる。

「皇国地誌」の「文字なく、唯幽かに三梵字みゆ」「石塔」は、「峯中記略扣」にいう「弥陀薬師ノ塔」と同一物ではなかろうか。
「弥陀薬師」は漢字ではなく、石塔の四面に彫られた四方仏の種字(梵字)で、明治18年にはうち1字は完全に消滅し、他の3字も判読できなくなっていたが、「峯中記略扣」の時代にはまだ「キリーク」(阿弥陀)と「バイ」(薬師)の2字は(どうにか)読み取れていた、と解釈すれば話が合いそうに思える。
とすると、もう一つの梵字は「バク」釈迦か「ユ」弥勒だったのだろう。

「新編相模国風土記稿 堀斎藤村 塔嶽  峯に石碑一基建り 高二尺、幅八寸文字あれど讀難し」では「石碑」には「文字あれど讀難」い状態になっていた。
梵字はサンスクリット文字であるから「皇国地誌」の「文字なく、唯幽かに三梵字みゆ」は矛盾した表現だが、ここの「文字」は〈日本の文字〉を意味するのであろう。
とすると「風土記稿」と「皇国地誌」は「石碑」・「石塔」の同じような状態(「文字あれど讀難し」・「唯幽かに三梵字みゆ」)を述べていることになる。

       [ 塔ノ岳 ]

塔ノ岳の山名について、
「塔ノ岳」武田久吉(「明治の山旅」):「孫仏の巨岩(略)土地の者は、これを俗に「お塔」と呼ぶ。塔ノ岳の名はそれに由るものに相違ない。」
「丹澤・塔岳雑談」坂本光雄 山と渓谷 第48号 1936年11月:「三廻部村の觀音院というお寺を訪づれました時に「お塔があるから、お塔ヶ岳テエ云ふズラー」という古老に會ひました。(中略)お塔と云ふのは大金澤へ轉げ落ちた孫佛岩のことでした。」「古來我が國には佛者の間に立岩をお塔と云つて五輪塔を表彰(シンボル)して尊稱した慣はしがございました(略)お塔とは卽ち立岩のことでありまして往昔塔ノ岳を靈山として拓いた佛者に依つて發見された立岩、所謂孫佛岩をお塔と敬稱されたのでせう。お塔のある山、つまり塔ノ岳の稱呼は孫佛岩があつて生じた山名であることは論を俟つまでもないんです。」
など、尊仏岩を「お塔」と呼んだため、塔のある岳から塔ノ岳となった、という説が広く流布している。

しかしながら古文献では尊仏岩は「岩」「石」「大石」「(石)佛」などと表現されており、「塔」とするものは見当たらない。
「峯中記略扣」は「塔ノ峰也此所ニ弥陀薬師ノ塔有」に続いて「是(=塔ノ峰)ヨリ北ヱ行黒尊仏岩有」と記す。尊仏岩は「岩」であり、「塔」は山頂の「弥陀薬師ノ塔」を指す。その塔がある所だから「塔ノ峰」である、と解釈するのが自然であろう。
「黒尊佛山方之事」は塔ノ岳を「尊佛山」「尊佛嶽」、また「トウノ峯ト申ス峯有、此所ニ高壹尺五寸程之石トウ有也」と記し、尊仏岩を「黒尊佛」「尊佛岩」と表現する。

これらの記述から推察すると「塔ノ岳」は、山頂に「石トウ」「石碑」「弥陀薬師ノ塔」がある岳、と考えるのが自然である。
〈尊仏岩をお塔と呼んだので塔ノ岳という〉は後(明治以降?)に民衆の間で醸成された俗説であろう。

       [ 石祠 ]


塔ヶ岳頂上

「丹澤山塊」日本山岳寫眞書 塚本閤治(山と渓谷社/生活社 1944年9月発行)より「塔ヶ岳頂上」

(同書)「丹澤主脈縱走  塔ノ岳(中略)草原狀の南北に広い山頂は石祠や石碑、石像などが指導標と交つて建つて居る。其北隅には横浜山岳會の尊佛小屋が建つて居る。」

「石祠」の後方は横浜山岳会が建設、昭和14年11月に落成した初代「尊佛小屋」。

「石祠」の他に「石碑、石像などが指導標と交つて建つて居」たのだ。
「石碑」は「風土記稿」の「石碑」と同一物なのか。また「石像」は「十一面観音の石像」(「皇国地誌」)、それとも「大日如来」像(後述 ブログ「偏平足」)、あるいは両者なのだろうか。

「塔ヶ嶽」高野鷹藏(「山岳」第1年第1号 明治39年)

 (明治38年9月24日)「孫佛から一町も登ると頂上で、上はあまり広くはないが草原で眞中に石の少さな祠がある」

「四十年前の丹沢を語る」武田久吉(「山と渓谷」143号 昭和26年4月)

(明治38年9月24日)「塔の嶽の頂上に達した(中略)狭い平らかな山巓には小さな石祠があり (以下、略)」

「丹澤山の近況と眺望」武田久吉(「山岳」第18年第2号「雜録」より) 

「塔ヶ岳の頂上には無數の龜裂が出來た。それでも彼小石祠は無事で、その傍に三等三角測量櫓が出來て居る。」(
大正13年7月下旬、関東大震災後、神奈川県青年連合会震災跡実地調査の際の記録)

「雨の丹澤山塊」松井幹雄(大正14年12月「霧の旅」第15号)

(塔ノ岳頂上)「石佛二三基、三角點櫓にかざられた頂上(以下略)」

「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄 (「あしなか」 第41輯 1954年)
「塔ノ岳の頂上(略)現在石祠が二つあり、一つは『南無阿弥陀仏』と刻まれたもので、裏面に享和二戌八月吉日と記されてある。も一つは表面に『相模国三浦郡三崎村大谷久兵ヱ、武蔵国多摩郡黒沢村柳内信吉。明治十三年四月吉日と誌されてあり、横側に数名の世話人の人名が連ねてあった。厚木町の高橋先達(八十一才)の話では明治の末頃まで、孫仏の祭りにはこの山頂で採燈護摩を修されたということである。

また堀山下村の城入院でも、一三年ばかり前までは、祭の日に松田町の大同院が主になって集り、孫仏山へ登り不動の水場で、柴燈護摩をあげたという。」

「『南無阿弥陀仏』と刻まれた」「石祠」の「裏面に」「記されてある」「享和二戌」(1802)は、玄倉村・皇国地誌に見える「十一面観音の石像」に彫ってあったという「享和二戌ノ年」と同年になる。そんな石祠が、第二次大戦後の頂上にあったのかな?
「三崎村」は現在の三浦市三崎、「黒沢村」は青梅市黒沢。

「塔ノ岳孫仏記」末尾に(昭和28、11、30 稿)と記入がある。「一三年ばかり前」は昭和15年ころになろう。

大藏院
「大同院」は松田町庶子の〈大蔵院〉の誤りと思われる。江戸時代には寒田神社(延喜式内社)の別当であった。

「新編相模国風土記稿 松田庶子 大藏院 文殊山安養寺と號す、本山修験、小田原玉瀧坊配下、大永七年の起立(略)本尊不動(以下略)」

ブログ「偏平足 里山の石神・石仏探訪」の「石仏781 塔ノ岳(神奈川)不動明王」に「昭和40年代」のこととして「(塔ノ岳)山頂には磨滅して像容のはっきりしない坐像があり、智拳印を結ぶ大日如来と見た。」とあります(田中英雄「里山の石仏巡礼」2006年 山と渓谷社 の 41「塔ノ岳 不動明王」にも同じ内容が記されています)。

この「大日如来」は岩田伝次郎氏が撮影された花立の頭の大日如来像と思われる。 塔ノ岳 尊仏岩 (1)  に画像がありますので参照くだされ。

「偏平足」氏の「石仏77 塔ノ岳 不明坐像 」(2007年3月)に頂上と不動の水場の写真があります。
そこに写っている頂上の大日如来像はかなり摩耗が進んでいるが、特徴的な四角い光背の破損箇所や腹部の衲衣の襞などが、岩田氏撮影の石像と一致する。
「大日如来」像は花立の頭から塔ノ岳山頂へ、さらに不動の水場に移され、激しく風化しながらも現存している(下の画像参照)。

1982年の塔ノ岳山頂石造物の写真には、左に石祠、中央に文字塔、右端に大日如来像が写っており、貴重な資料である。3基とも後に不動の水場に移された。

この頃、探索団員は何度も山頂に行っているが、まるで関心がなかったので当時の記憶がまったくない。

不動の水場
不動の水場山頂から移転した(左)「大日如来」と(右)文字塔。1982年の山頂の写真と比べると、特に石像の風化が激しい。
文字塔には「遭難者供養塔 拘留孫如来 昭和三十六年」とある。

「偏平足」氏「石仏77 塔ノ岳 不明坐像 」の不動の水場写真には、頂上から移動した石祠が手前に写っているが、現在は見当たらない。壊れたため片付けられてしまったらしい。

 

     [東光院別院]

「塔ノ岳孫仏の和尚さん」(「丹沢夜話」 ハンス・シュトルテ 1983)に、山北町岸の東光院住職が資金を募って塔ノ岳山頂に尊仏堂「丹沢山尊仏別院」を建立した話がある。

1954年秋から資材の運搬を始め、翌年4月に落成した。ところが1957年1月に大嵐で吹き飛ばされ、オバケ沢のガレ場に残骸が引っかかっていたという。

画像が残っていてもよさそうに思えるが、見たことがない。
「富士山とその附近」山と渓谷社(1960年4月発行)の「塔の岳」に「(塔の岳)山頂の南面には尊仏堂が建てられているが仲々立派なものである。」と記されている。お堂はこのガイドブック発行より3年以上前にすでになくなっていたが、それより前の取材時には山頂に建って居たのだ。

丹沢山東光院は、1954年ころに山号を医王山東光院から丹沢山に改称したそうである。
1954年は、塔ノ岳山頂に別院の建設を始めた年である。また尊仏堂が完成した1955年の10月30日-11月3日には丹沢を舞台に、第10回国民体育大会神奈川大会の山岳競技が開催された。これがきっかけになった可能性もありそうだ。

意図は不明だが、「丹沢山」への改名は尊仏別院の建設と関わりがあるのは間違いあるまい。

最勝寺丹沢山別院最勝寺(山北町平山) 
本尊は延命地蔵菩薩
境内に「狗留尊佛如来」碑が立つ。高さは孫佛岩の10分の1だそうである。

最勝寺は、1982年に東光院が竹藪を切開いて建設したという。
塔ノ岳頂上の別院が廃されてからかなりの時が経っては居るが、それと関係があるのかもしれない。

      [ 謎の石塔 ]

距離標原点


(左)「距離標原点」 (右)「塔ノ岳」

尊仏山荘の手前に距離標がある。
道路、鉄道、河川などには距離標があるが、山頂の「距離標」、しかも「原点」とは、いったい何の原点なんだろ?


      ( 続 く )





 塔ノ岳 尊仏岩 (1)

      前 尊 仏 

塔ノ岳・尊仏岩(拘留尊仏)の前立と見立てられて前尊仏と呼ばれた岩がある。
狗留孫仏(倶留孫仏)の前立であるから、当然ながらそれらも縦長の岩(岩塔)である。

    [ 大倉尾根の前尊仏 ] 

前尊仏花立への登り道の脇、大きな岩(=前尊仏)の上に石仏像があったと伝わり画像も残っているが、石像は消失しており、確かな場所がわからない。


「大倉部落から塔ノ岳への途中(みちすがら)、恰度一本松から二ッ目のピーク(=堀山)を越えて一三七七・五米の隆起(=花立ノ頭)にかゝつた尾根に現在でも積石の中に前尊佛と刻まれた二尺許りの石塔がございます。昔はそれが女人結界の標とされ、それより上に女子の登ることを禁じました。」(「丹澤・塔岳雜談」坂本光雄 「山と溪谷」第40号 昭和11年11月)
当時(1936年)「積石の中に前尊佛と刻まれた二尺許り(約60cm)の石塔が」あって、「昔はそれが女人結界の標とされ、それより上に女子の登ることを禁じました。」

明治時代初めまで(明治5年3月、太政官布告により女人禁制廃止)「前尊佛と刻まれた」「石塔」から上は女人禁制だったのか!

「丹澤主脈縱走  程なく徑が急な登りを見せて岩磐の露出した間をよぢ登つて行く。右側の大きな石の上に前尊佛の像が上半身の姿を岩に凭(もた)せて安置されて居る。」(「丹澤山塊」塚本閤治 山と渓谷社 / 生活社 昭和19年9月発行)

「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄 (昭和28.11.30 稿) 
「前孫仏(去年まで岩上に、破損した石像が祀られてあったが、現在ではお姿がみえない)」(「あしなか」第四拾壱輯) 1954年
この文は昭和28年(1953)に書かれているので、「去年」は1952年である。

「丹澤山塊」に掲載されている写真が①(撮影・塚本閤治)。
②は漆原俊氏撮影、第二次大戦前であろう。薬師如来だそうである。
大倉尾根前尊仏
①「前尊佛を前景に函根足柄連嶺を展望」(「丹沢山塊」)。赤字加筆。撮影方向は南南西、石像は北東を向いている。正しくは石像が乗っている岩が「前尊佛」である。
② 漆原氏撮影。赤字加筆。撮影方向は東、石像は南西を向いている。像の下から出ている木の枝は、像の足元に挿してあるように見える。何らかの意味があるのだろうか?

この画像から、前尊仏の場所を検証する。 
③ ④
③ ④の反対側(南側)から東方を見る。背景の大山・三ノ塔、さらには表尾根の山襞まで②写真と完全に一致。「前尊佛」像がこの岩の上に置かれて撮影されたのは間違いなかろう。ということは④の岩が前尊仏だった。
④ 手前が登山道。(1)写真①撮影位置。 (2) 石像位置 (3) 写真②撮影位置。(3)には松の木が生えたため、その場に立つことができない。
岩の前が小さな平地になっており、岩の反対側を通る古道(廃道)が合流している。
「皇国地誌 玄倉村」(後述)の記述を考え合わせると、ここに「積石の中に前尊佛と刻まれた二尺許りの石塔が」(「丹澤・塔岳雜談」)あったと思われる。

画像①、② とも石像の位置は (2) と考えられるが、この位置では台風のような強風では吹き飛ばされそうだ。①と②で石造の向きが異なっているのは、撮影のために岩の天辺に乗せて、背景に合うような向きにしたんじゃないか、と思う。
「前尊佛の像が上半身の姿を岩に凭(もた)せて安置されて居る。」(「丹沢山塊」)と書いているのは、石像が岩面の窪みに凭せかけて置かれていた状態を述べているんじゃないだろうか。

⑤ ⑥⑤ 石像は、この岩の上に置かれて撮影された。①の写真では、奥の岩の上端が尖っているが、突起が崩れてなくなったらしい。
⑥前尊仏岩南面。廃道となった古道から見上げる前尊仏岩は、西側を通る現在の登山道から見る姿とまったく別の貌を見せる。威圧感をもって頭上に聳える姿から、この岩が前尊仏とされたのも納得がいく。

⑦ ⑧
⑦前尊仏岩南面の基部に、まっすぐな線が刻まれた石片があった。表面を平に削った際についたと思われる傷跡のような浅い線が何本か見える。破片なのか、これで完成形なのか分らんが、ちょっと呪術的な感じもあるな。
⑧下方に、前尊仏岩に向ってクランク状に曲りながら登って来る古道が残っている。
古道は登山道東側の尾根筋を前尊仏岩に突き当たるように登ってきて岩の下から東側を回り込み、上の小広場で登山道に合流する。前尊仏岩を拝むためにつけられた道だったのだろう。

「皇国地誌 村誌 相模国足柄上郡玄倉村」(「明治十八年五月二十二日稿」)から「黒尊仏」の項、大倉尾根を登り、前尊仏を経て山頂までの記述(「山北町史 史料編 近代 No.34」より、原文仮名はカタカナ)
「三記同巻(みふみひとまき)の篠わけの日記の略に曰(いわく)、登り登りて左の方に石像の不動尊立玉ふ、貞治四巳年(註)三月と鐫(ほ)れり、其長二尺も有なん、台座などは天明六午年(=1786)に再建せしと誌(しる)せり、昇る十丁余にして石像の立像あり、銘に前孫佛と鐫れり、是より女人結界なり。路嶮(みちけわ)しくして羊腸を歩むが如し、綱つけと云ふ、又昇る十丁余にして少しき平地に憩ふ、(中略)又十丁程昇りて林樹の茂り篠生(しのだけはえ)、苔むして、道もなく暗き処を攀(よじ)る七、八丁にて嶺(いただき)に至り、」

(註)貞治四巳年は西暦1365年。貞治(1362-1368)は南北朝期、北朝方で使用された元号。南朝方では正平20年。

「三記同巻」は天保7年(1836)稿らしいが、それ以上のことは分らん。
大倉尾根を登って行くと左に「貞治四巳年三月」と彫られた不動尊像が立っており、「台座などは天明六午年に再建せしと誌」してあった。この不動尊像は吉沢平(堀山 943m あたり)にあったそうである。
そこから「十丁余にして」「銘に前孫佛と鐫」られた「石像の立像」があって「女人結界」となっていた。①と②の画像は座像なので、この「立像」とは違うようだ。昭和初期には「前尊佛と刻まれた二尺許りの石塔」(「丹澤・塔岳雜談」)になっており、この「立像」はすでに消え失せていたようである。
前孫佛像あたりから険しいジグザグ道。「綱つけ」と呼んでいたらしい。綱をつけて引っ張ってもらう、という意味だろうか。
前孫佛から「昇る十丁余にして少しき平地に憩ふ」。「少しき平地」は花立ノ頭かな。
さらに「十丁程昇」ると樹木と篠竹(スズタケの笹藪)に覆われて「苔むし」た暗いかそけき道となり「七、八丁にて嶺(=塔ノ岳山頂)に至」る。
つらい登りが続くためか、実際の距離よりもかなり長く感じているようである。

「黒尊佛山方之事」文化二年(1805) (城川隆生氏・作成「中世の丹沢山地 史料集」より一部引用)
「大クラより奥尊佛迄道ノリ壹里廿八町、又大クラより一リ、登テ観音有、是從馬返シト申也、是迄ハ馬登ル也、又是從十一二町モ登テ前尊佛有也、是迄ハカヤ野ニテ隋分宜キ道也、是從少シナン所、又ハスヾ野所モ有ヘシ、是より大木有、木タチ也、」
大倉から1里登ると観音があって「馬返シ」だったようである。現在の駒止茶屋あたりになろうか。その先の堀山三角点から吉沢平にかけては平坦な広い尾根が続くのに、その手前が「馬返シ」というのも変な話ではある。

そこから11-12町ほど(1200-1300mくらい)登ると「前尊佛」があり、そこまでは茅野で「随分宜(よ)キ道」だが、そこからは「少シナン(難)所」で「スヾ野所」篠竹(スズタケ)の笹藪もあり、その先に「大木」がある、「木タチ」である。「木タチ」は「大木」を指すのか、あるいはその場所の地名なのか、分らん。
皇国地誌の記述と、おおよそ一致している。

大倉尾根の堀山(905米)附近「丹澤山塊」塚本閤治 山と渓谷社 / 生活社 昭和19年9月発行)より
「大倉尾根の堀山(905米)附近」
堀山(943m)の南側から、南方に堀山三角点(905m)の眺望。茅場が続いていた。
(同書)「丹澤主脈縱走 九〇五米の堀山の三角點の右を過ぎれば徑は稍(やや)平坦となり、草原狀の吉澤ノ平の瘤に到り續いて小草ノ平になつて氣持ちの良い徑が続く。」
「表尾根縦走 (塔ノ岳山頂から大倉尾根の下り)それ(=花立ノ頭)より明快な茅戸の尾根を只管(ひたすら)に下るのである。」

大倉尾根「堀山の三角點」は駒止茶屋の上にあり、「吉澤ノ平の瘤」は現在は堀山(943m)と呼ばれている。「小草ノ平」は堀山の家の下の平らな尾根。

花立の登り
1963年5月「大倉尾根花立付近の登り」(部分) (奥野幸道「丹沢今昔」より転載)

花立山荘への登り。
後方の丸い山は茅場の平(天神尾根合流地点の上方)。

第二次大戦後に植林事業が始まるまで大倉尾根のかなり上部までほとんど林がなく、草原が続いていた様子がみてとれる。

花立篤子「わが父、山岸猛男」に、筆者(花立篤子)が小学校3年の夏休み(1962年か?)に塔ノ岳に登った思い出が語られており、当時の大倉尾根には、たくさんの花が咲いて、お花畑のようであった、と述べている(山岸猛男「丹沢 尊仏山荘物語」1999 山と渓谷社)。
この頃は、まだ現在のような杉林が育っておらず、日光がたっぷりあたる尾根筋には草花が咲き乱れていたのだ。

「塔ヶ嶽」高野鷹蔵(「山岳」第1年1号 明治39年)
(塔ノ岳山頂から大倉尾根の下り)「途の半分も來たと思ふ所で馬止めと云って居る所がある。(略)玆迄は馬が草苅りに來るそうで草が苅ってあった。」

「丹沢 山のものがたり」(1998 秦野市)の「座談会 丹沢登山の開拓者たち」に
「岩田(傳三郎) (前略)「駒止」の名前をつけたのは、わたしなんです。あすこは「馬返し」だったんですが、「馬返し小屋」だと、どうも感じが悪い。(略)「駒止」にしようじゃないかと。
奥野(幸道) 茅刈りに行って、あそこで馬を止めていたんだから。」
といった話がある。
内容から推測すると、堀山三角点あたりから前尊仏あたりまで茅場で、刈った茅を「馬返し」に止めておいた馬まで担いで運んだ、ってことなのかな。
なんでだろ?そういう決りがあったのか、あるいは馬だまりがそこしかなかったのか。

「是(=前尊佛)迄ハカヤ野ニテ隋分宜キ道也」(黒尊佛山方之事)からは、前尊仏まで「随分宜キ道」(=駄馬の通行が可能な道)だったことが分る。
ひょっとして、前尊仏は女人だけでなく馬に対しても結界だったのかも。

「丹沢山御林裾野御運上山三か所」(天保6年寺山村明細帳)のうち5ヶ村入会であった「堀山」では、延宝7年(1679)に「相州丹沢堀山御運上場」をめぐって堀山下村・堀川村・堀斎藤村・渋沢村(堀沼城村は堀斎藤村に含めたらしい)の「山諍論」が勃発、「堀山」は運上野であり4ヶ村の入会野であると幕府評定所(勘定奉行・町奉行・寺社奉行と老中)が裁断して「裁判之趣絵図」を作成、「裏書」して境界線を確認した(「秦野市史 通史2 近世」 p.107f. 及び「秦野市史第2巻」No.100 訴状 / No.101 裁許状)。
文面だけでは境界線が不明、絵図ではどうなってんだろう。
おそらく前尊仏あたりまでが4ヶ村入会地になってたんだと思う。

      [ 花 立 ]

花立(場)は神に花や木の枝を供えた場所。「ハナ」は端で、山の端の意ともいう。

花立の頭(左)花立の頭 西側には樹木が生えておらず、眺めがよい。
(右)花立の頭の石像(部分) 岩田傳三郎氏撮影 年代不明 智拳印を結ぶ金剛界大日如来、背景は塔ノ岳。この像は塔ノ岳山頂に移転、さらに不動の水場に移転して現存。

「丹澤山塊」塚本閤治 (山と渓谷社 / 生活社 昭和19年9月発行)より:
「丹澤主脈縱走  花立ノ頭は此処(=「前尊佛の像」)から暫く上つた所の草山で、徑の左(=西側)に石像が立つて居る。(略)此花立ノ頭の氣分は、尾根隨一ではないかと思ふ。」
「表尾根縦走  花立である。一三七七米の獨標記號が有り、石像が安置されてゐる。」

花立山荘 勢至菩薩花立山荘脇の石仏。風化が激しい。
ブログ「偏平足 里山の石神・石仏探訪」の「石仏 781 塔ノ岳 不動明王」に「昭和40年代」「花立山荘前にある勢至菩薩は台座がなくいつも向きを変えていた。」とあり、同「石仏 14 塔ノ岳 勢至菩薩」に画像もある。
頭上に大きな塊がのっかっているので、てっきり馬頭観音像だと思ってたが、勢至菩薩なんだ。
勢至菩薩は午(うま)年の守護本尊。〈午〉の連想から、馬を守ってくれると考えたのかもしれないな。
  
    [ その他の前尊仏 ]

「拘留孫佛を勧請した塔ノ岳の孫佛岩に對して山麓各村に於ては前孫佛と崇めてそれぞれ神體を祀って里宮とされてをります。南麓秦野地方では三廻部村(釋迦牟尼にも作る。)の観音院、戸川村の尊佛松、横野村の唐子明神社の三ケ所とされ、裏面玄倉方面では部落の背後に聳ゆる立間(タツマ)山の山腹に自然石の立岩が、恰も塔ノ岳に在った孫佛岩の様に現在でも玄倉川に面して障立して居ります。」(「丹澤・塔岳雜談」坂本光雄「山と溪谷」第40号 昭和11年11月)

1. 横野 加羅古神社 
加羅古神社
横野の鎮守、寿永2年(1183)創建と伝わる。江戸時代は唐子明神社、「前尊仏様」と呼ばれた。本殿は安永3年(1774)建立。

正徳2年(1712)明見山権化趣意書 (秦野市史第1巻 神社史料「加羅古神社」)
「相州大住郡横野村明見山権化意趣  明見山拘留尊大明神者昔時日本武尊御示現本地十一面観世音菩薩、奥院ニハ過去七仏内妙辨大自在獨一无作拘留尊仏立給、寔妙成霊地タリ。依之 上様(=将軍)御代々御朱印地 (以下略) 正徳二壬辰歳」
「拘留尊大明神」は昔「日本武尊」(ヤマトタケルノミコト)の姿で現れた、「本地」仏は「十一面観世音菩薩」である、という意味なんだろな。
「霊地」である「奥院ニハ」「妙辨大自在獨一无」が作った「拘留尊仏」像が立っている、という。
「明見山」は唐子明神社の別当であった本山派修験・仙能院の山号。

「天保6年(1835)横野村明細帳  唐子大明神 村内惣鎮守 別当 仙能院 (略)往古ハ村持ニて、(略)其後年代相知不申候仙能院相頼(略)以後ハ同院別当ニ相成候由伝候。 (以下略)」
寛文10年(1670)の棟札に「別当仙能院」と書かれており、江戸時代初期には仙能院が別当になっていたことがわかる。

「天保六乙未ノ二月 神社 堂地 御調書上帳」(秦野市史第1巻「加羅子神社」)には「地蔵堂 (中略) 聖護院宮末 小田原玉瀧坊霞 拘留尊寺修験明見山 別当 仙能院」とあります。仙能院は「拘留尊寺」と号していたようだ。
天保10年(1839)に成立した「相中留恩記略」では「山中拘留尊仏垂迹」が唐子明神社の祭神とする。正徳2年の趣意書を参考にしたのだろう。現在は事代主命を祭神としている。

明応年中(1492-1501)、北条早雲が社殿建立の願主となっている。天正19年11月、徳川家康より朱印地一石を寄進される。

「新編相模國風土記稿 横野村 唐子明神社 村の鎮守なり。(略)縁起に昔唐土より飛来せし神なるを以て唐子明神と號す。此境内の山中に安する拘留尊佛は即明神の垂蹟なる由見ゆ。(略)例祭六月廿二日。天正十九年十一月社領一石の御朱印を賜ふ。(略)(村民・今井)郷右衛門の時、天正十九年、中原御殿(平塚市)へ召され明神の由来を尋させられ、則社領の御朱印を賜はりしと云。(略)別当仙能院 明見山と號す。本山修験 小田原玉瀧坊配下(以下略)」
「(唐子明神社)境内の山中に安する拘留尊佛」はどこにある(あった?)んだろ。

縁起によれば、夜ごとに山に光が現れたので村人が登ってみると空に御神燈が灯り、次に奥の山、さらに奥の山の上でも輝いた。龍馬に乗った神童が現れて神像を渡し、祀るようにと云った、という。
村人は最初に灯った山麓に唐子明神社を建立、二・三番目に灯った所を二ノ灯・三ノ灯と呼んだ。後に灯が塔に転化して(表尾根)二ノ塔・三ノ塔になった、とされる。

明治時代、拘留尊仏の祭と同じ5月15日に大祭が行われ、大いににぎわった。
「その日(=5月15日)は拘留尊仏の祭の日と重なり、尊仏さんの縁日に集まるバクチ打ちが加羅古神社境内にも集まり、風紀上よくないので日を変えたと伝えられている。(略)相模の在地修験を考える上でも興味深い存在である。」(「丹沢山麓の村」第5章 秦野市 1985)

坂本光雄氏は「孫佛様(=尊仏岩)の賽路は(略)横野部落より菩提山を經て入るのが東口で往昔は相當繁昌したそうですが現在は全く癈れて了ひました。」(「丹澤・塔岳雜談」山と渓谷 第40号 昭和11年)と書いている。「菩提山」は二ノ塔・三ノ塔の総体を指す。

かつては唐子明神社がある横野からの「東口」「賽路」が「相當繁昌した」というのだが、本当かな。
「東口」「賽路」は横野から戸沢尾根(三ノ塔尾根)の牛首をこえてヒゴノ沢を渡り、「十三曲」と呼ばれたジグザグ道から烏尾山に達し、行者岳を越えて塔ノ岳まで縦走する長い経路である。
烏尾山南西尾根 915m 地点に〈ヒゴノ観音〉と通称される文化7年(1810)の馬頭観音碑があり、側面に「是より 拘留そん仏 みち」と刻まれている。立派な馬頭観音碑があるくらいだから、かなり高い所まで荷馬が通うしっかりした道だったのだ。

当時は表尾根(=御林との境)まで茅場になっていたと思われるので「拘留そん仏みち」の烏尾山あたりまでは地元農民の往来で「相當繁昌した」のは確かだろうが、行者は別として一般の登拝者は、尊仏岩詣での「賽路」として大倉尾根を使うのが普通だったんじゃないだろうか。

「延享元年(1744)子十二月相州大住郡横野村差出帳」には「唐子大明神 本寺同国小田原玉龍坊 別当修験仙能院 (略) 天正十九年十一月 御朱印壱通」とある。相模修験の取締役にあった小田原玉龍坊配下の本山派修験・仙能院によって権化活動が行われていた。
文化12年「相州大住郡横野村差出帳」に「修験弐人」と記されており、仙能院は里修験として広範囲に活動していたようである。

仙能院は明治2年に廃絶。
明治2年仙能院神主改名願書 (秦野市史第1巻 「加羅古神社」)「(前略) 拙院儀、当村唐子大明神別当相勤來候処、今般王政御一新ニ付 (略) 自今復飾上神主某与改名仕神勤仕度(略) 明治二己巳二月廿九日 横野邑 仙能院 (略) 社寺 御奉行所様」

2. 戸川村 前尊佛
「新編相模國風土記稿 戸川村 前尊佛 自然石 長二尺五寸 にて佛像に彷彿たり、松樹カン(穴+款=あな)中に安す。前尊佛と唱ふるは塔嶽に拘留尊仏と稱する自然石あり。其前立の意なりと云。村民持。」

前尊仏と呼ばれた「金りゅう尊仏」の祠が戸川・八坂神社境内にあった。
「りゅう」が水を司る龍であるなら、村人は祠で雨乞いを祈願したのだろう。

300mほど北に「尊佛松」があったそうである。
「風土記稿」にいう「松樹」が「尊佛松」を指すとすると、その木の洞に「自然石」である「前尊佛」を祀ってあった、のであろう。

「戸川村の氏神祭は、昔は旧暦四月十五日で、この日神の御幸があって、松の根元へ尊仏松と呼ばれる自然石が祀られてあるので、一名尊仏松といわれる祭場に御仮屋が設けられる。」(「塔ノ岳孫仏記」坂本光雄) 
前尊仏とされた自然石は松樹の洞から根本に移され、その石を「尊仏松」と呼んでいた、ということか。「松樹」が代替わりしたのかも。

八坂神社境内の隅に自然石が2つ、放置されてある。そのどちらかが、ここに移動された「前尊佛」なのだろうか。
八坂神社
(右)倒れている自然石のどちらかが「前尊佛」だったのか?

3.玄倉 前尊仏

玄倉 中川村

(右)明治21年測量 1/20000「中川村」

明治21年測図「中川村」に玄倉から立間山へ登る山道の途中から、山腹を北にトラバースして玄倉川の上流に達する道が記入されている。正確に記されているかどうかは判断できないが、図で見る限りは前尊仏よりも少し高い所を通っているように思える。

とすると前尊仏を参拝する時は、このトラバース道から降りて行ったのかもしれん。 

八幡神社から山道を登り、途中から左にかすかな仕事道をたどる。その道もやがて消え、山腹を横に進んで放水管に達する。

前尊仏の上方には放水管をまたぐ橋がかかっており、その橋を渡るのが明治21年測図に記された道であるらしいが、探索団員はそれよりかなり下をやみくもにトラバースして放水管に達したので、よく分らん(20184月探索)。
玄倉前尊仏

放水管工事の際に一部が爆破され、落石防止のため金網で覆われている。元は頂上部がもっと高かったのか?

「玄倉村にては、玄倉の野の西端に有る、前尊佛(大石アリ)(略)玄倉で毎年7月17日に祭禮が催れる(秦野方面では5月15日に行なわれる)此の祭禮は、玄倉村の八幡様にて、湯花祭といふ行事が行なわれる」(「丹澤玄倉川と周圍の山々」坂本光雄「山と渓谷」第28号 昭和9年11月)

「玄倉方面では部落の背後に聳ゆる立間(タツマ)山の山腹に自然石の立岩が、恰も塔ノ岳に在った孫佛岩の様に現在でも玄倉川に面して障立して居ります。」

「玄倉の雨乞ひ話です。」
「玄倉部落でも孫佛(ソンブツ)山へ登拜して雨を乞ふといふことは滅多にありません。で普通一寸した旱天(ヒデリ)には村端れのタツマの堰堤(部落から白井平に向って最初のもの)で行われます。此處に水神様を祀ってあるので一名水神淵とも云われて居ります。」
「略式の雨乞ひを行う場處としては、(略)もう一ヶ處前孫佛がございました。」
「其處でどうしても驗がないとなると(略)愈々全村あげて孫佛山へ雨乞ひの大遠征隊を繰り出す(略)先づ村内の八幡社の境内に必ず戸主が出る(略)雨乞ひの目的達成と無事登山の祈願をこめられて愈々先達を眞先に塔ノ岳目指して出發するのです」
(以上、「丹澤・塔岳雜談」坂本光雄「山と溪谷」第40号 昭和11年11月)

立間山の前尊仏は「略式の雨乞ひを行う場處」だったという。

神縄近辺の集落からは玄倉の前尊仏に雨乞いに行ったそうである。「水神淵」は玄倉村専用の雨乞い所だったのか?


玄倉 前尊仏

(左)「丹沢今昔」奥野幸道 p.73「玄倉川の河原が広がる奥に玄倉の集落がある 1957年3月」(部分) 立間山(玄倉の野)の中腹に前尊仏(赤丸印)。 

(右)「書かれない郷土史」川口謙二(錦正社 1960年) p.59「尊仏岩(中腹)」(部分)。玄倉集落から見る前尊仏(赤丸印)。

「(玄倉から)黒尊仏までは山道四里もあるので、ちょっとお詣りにも行けないから、玄倉では川上の発電用放水管のある山の中腹の大岩を前尊仏と呼んで信仰している。この前尊仏は発電工事の際、ハッパをかけられたが、あまり堅くてノミがきかず、一部を粉砕したのみで健在である。前尊仏も黒尊仏も、その上に登ると神罰テキメンと、むかしから恐れられているが、ハッパもはねとばされたわけだ。」(「書かれない郷土史」)

玄倉の前尊仏については、〇福氏のブログ「丹沢を探る」の「玄倉の前尊仏様を探る」が詳しい。当ブログでも参考にさせていただいた。

4.中川村東沢

「中川の東澤にもこれと同じ態の岩があって尊佛と稱されていると、昨年の正月箒澤部落を訪づれた時に聞きましたが之等は塔ノ岳の孫佛様と何にか關係があったのではないかと思ひますが再考に俟ちます。」(「丹澤・塔岳雜談」坂本光雄「山と溪谷」第40号 昭和11年11月)

「中川の東澤」の「尊佛と稱されている」「岩」は未調査。

「尊佛と稱されている」とはいうものの、実際に登拝していたかどうか、疑問に思う。「尊佛と稱」していただけなのか、遥拝くらいはしていたのかも。

この岩について、前記した〇福氏のブログに「丹沢を探る/西丹沢・東沢(中川川)の尊仏岩 丹沢だよりNo.450 2008/3 」と題して詳しく説明されています(画像あり)。

大笄と小笄の間の東沢に面した斜面にあり、ツツジ新道からよく見える、とのこと。


      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (10)


  
 [ 陣賀付近に残る旧道跡 ]

62a6bd2f県道秦野清川線の陣賀橋あたりから下方に、丹沢林道開通前の旧道跡が見える。

丹沢林道が札掛まで開通したのは昭和9年1月だから、明治6年・アーネスト・サトウ、大正2年・武田久吉の親子が通ったのは、この道である。

大正3年2月の新聞記事(後述)では「(駄馬の)行列が後から遣って来ると片側へヘタ張り付いて」と書いているから、諸戸事務所から北はまだ馬力道になっていなかったのかもしれん。

陣賀に残る旧道跡の位置:
左(黄色枠内) 明治16年測量「大山町」 /  右(赤枠内) 明治39年測図「大山」
 
xyCD9m






① (黄色枠内) 昭和20年部分修正「秦野」 丹沢林道開通から10年以上たっている。
② 上流側。旧道跡南側の先は、下方が湿地になっている。
①







③ 上方に陣賀橋が架かる小沢(陣賀沢?)を渡る。右上の凹みが④の道路跡。
④ 小沢の北側。
③






⑤ 前方の⑤現・県道のヘアピンカーブで旧道跡は途絶える。


次の[ 地獄沢出合(俚称新宅) ]でふれるが、諸戸事務所より北のこのあたりから札掛まで、大正3年2月時点ではまだ駄馬が通れるだけの道だったのかも。


   [ 地獄沢出合(俚称新宅) ]

旧版地形図によると、明治時代には地獄沢右岸側に集落(3軒?)があった。
幕府炭会所跡地に家屋を建てたのであろう。
地獄沢






(左)明治15年測量「神奈川懸相模國大住郡寺山村」(迅速測図) 地獄沢に家屋記号が記入されている。
(右)明治16年測量「大山町」「字上地獄沢」に神社記号あり。

大正3年2月4日  横浜貿易新報 4612号
「丹沢山の住民 (2) 現代式の太古桃源村 鶏犬に和す伊吾の声
諸戸殖林事務所を辞して又歩き出すと、此のあたり人家点々たるものあるが道は段々と細くなる。そうして益々滑る。板や炭を付けた駄馬が十、二十、三十、数十と□□して、馬方の掛声に励まされつつ、今にも前へノメリそうに為って登って来る。皆んな之は秦野に出る荷である。(以下略)(市川生)。」
「諸戸殖林事務所」を出発してから札掛までの行程に地名は現れず、「(駄馬の)行列が後から遣って来ると片側へヘタ張り付いて大に敬意を表する。斯んな事が十五六回もあって道が一向に捗取らない。ようやくに札懸という処へ着いた」と、駄馬の隊列とのすれ違いに冷や汗をかく様が描かれる。

山渓地図
山と渓谷社作成地図「丹沢山塊」 1946年8月発行
地獄沢出合に神社記号が記されているが、古い地図の記号をそのまま記入したのではないか?

「此(=「諸戸氏の事務所」)の先きには追々人家が現はれ、菓子屋などさへある、しかし何(ど)れも穢(むさ)くろしい茅屋にすぎない。五萬分一の地圖に「俚稱新宅」と記してあるのは、恐らく此の邊の小部落を意味するものと思はれる。」(「丹沢山」武田久吉 大正2年12月発行『山岳』第8年第3号 より)

大正2年には「俚称新宅」=地獄沢出合付近に「菓子屋などさへあ」ったが「何れも穢くろしい茅屋にすぎな」かった。

前回の 矢櫃峠周辺の道 (9) で「横浜貿易新報」2月9日(4617号)「丹沢山の住民 (4)」から引用したように「今(=大正3年)から凡そ七十年前に何処からとも知れぬ者が此熊谷に一戸を構え」たとして、「熊谷」が地獄沢を指すとすると、大正3年(1914)から「凡そ七十年前」の天保期末から弘化年間(1844-48)に「新宅」の跡地に「何処からとも知れぬ者が」「一戸を構えた」ことになる。あり得ないことでもないかな~。

   [ 推定・幕府炭会所跡 ]

幕府炭会所の跡地と推定される造成地が、地獄沢の両岸に残っている。左岸側の方が規模が大きい。
文化3年から文政2年まで(=1806-1819)は両岸に合計151坪の建物があった。
推定図
(左) 明治29年修正 1/50000「松田惣領」 地獄沢出合付近に「俚称新宅」と記入がある。
(右)地獄沢付近の(赤点線)推定・古道と(青枠)推定・幕府炭会所跡地。
地獄沢右岸

(上左)地獄沢橋。 (上右) ① 地獄沢を渡って右岸側の集落跡に入っていく古道。サトウ・武田久吉親子、「市川」君はこの道を通って札掛に向った。

② 右岸側跡地 
右岸 1
ひな壇状の開削地。明治時代の地形図には、ここに集落が記入されている。

右岸 2
(左) 礎石 明治16年測量図「大山町」の鳥居記号の位置から推定すると、神社の敷地だったのかもしれん。
(右) 札掛への古道跡か?

新宅県道脇にも跡地が残っている。
県道建設で法面が削られる前は、もっと広かったはずである。

H.シュトルテ「丹沢夜話」1983 に「樵夫たちの話によれば、明治初期にここ(=地獄沢)に寺があり、札掛から材木を秦野へ運んだ馬がこの沢をなかなか渡ろうとしなかったとか。だから地獄沢といわれたということだそうです」という話がある(p.46)。

「樵夫たち」からいつ聞いた話なのかは分からないが、戦後まもないころだろう。
馬が渡らないから地獄沢-というのも変な話だが、それはともかく、札掛のあたりでは明治初期には地獄沢に寺があった、と伝わっていたようである。
また、語られるのは馬だけであって、その頃のこの地域では、地獄沢と北条・武田合戦を関連付ける話はなかったようである。
この地に寺があったとは思えないが、明治時代初期にはあった「神社」がいつの間にか「寺」にすり変ってしまったか、あるいはごく小さなお堂でもあったのかもしれない。

③ 左岸側

左岸




(左) 県道から跡地へ上る古道 (右) 古道上の敷地跡。

炭会所跡地(左)林道下側、3段の跡地の最上段。かなり広い。
(右)林道の上側にも跡地がある。下方に見える地獄沢上流に向う林道は、会所跡地を横切って建設された。
地獄沢橋南側にも敷地跡と思われる小規模な平削地がある。

御用炭は幕府からの前借による村方請負仕出で生産され、煤ケ谷から厚木まで駄馬で搬送、高瀬船で相模川を須賀湊(河口右岸の河岸場)まで運び、廻船に積み替えて江戸新橋炭会所に納められていたが、炭需要の増大にともない、文化2年(1805)から供給の拡大がはかられ、寺山・横野両村にも生産・供給が命じられた。

(「新編相模国風土記稿 巻之四十三)「八幡庄 須賀村  須賀湊 巽の方、相模川落口に在。湊口二十間餘。大舩は入らず。四百石積の舩を限とす。爰より江戸鐵炮州へ海路三十六里。」

以下「丹沢御林の変遷」漆原俊(「図説秦野の歴史 1995」秦野市)から一部引用と要約:
「江戸時代後期になると江戸の消費が拡大し、炭不足で価格騰貴を来たした。対策として文化期(1804-18)の幕府は、炭会所の指揮で寺山・横野両村で年間5万5千俵、10年間で60万俵という大量の生産供給を命じた。」 
江川代官所から前借した資金で炭竈・貯蔵小屋増築、山道の維持管理、大磯の湊までの運搬等が行われ、炭の増産を図ったが採算が合わず、やがて越訴や反対運動が起きる。
「今の諸戸植林事務所は中継会所の新宅があった場所で、会所帳付、付添手代、下働き等の詰所37坪、炭納屋3棟50坪 牛小屋 4か所46坪、牛飼い小屋18坪、合計151坪の建物と牛25頭もいた。この新宅の炭納屋から旧ヤビツ峠を越え、牛馬には炭10俵を、馬方は3、4俵を背負い里に降りた。」 

漆原氏は「今の諸戸植林事務所は中継会所の新宅があった場所」としているが、明治29年修正測図「松田惣領」の地獄沢付近に「俚称新宅」と記入があること、地獄沢両岸にかなりの規模の敷地跡が残っていることから、「中継会所の新宅があった場所」は地獄沢と判断される。
また矢櫃峠道が開設されたのはずっと後の明治30年になってからで、駄馬は岳ノ台を越えて田原に降り、御用炭はさらに高瀬船で金目川-花水川を大磯の湊へ、廻船に積み替えて江戸へ運送したと思われる。

寺山村は文化3年(1806)から文政2年(1819)までに幕府前借金と、他にも借金をして炭321808俵余を生産したものの、村方の500両余の赤字となった。
横野村も同様に赤字となったため、両村は幕府に対し御用炭の生産中止を求める直訴を行っている。

横野村民が炭焼を請負った文書 (秦野市史第2巻 No.292) から一部引用:
「文化三年(1806)七月 丹沢御林炭焼出しにつき横野村引受人一札 入置申一札之事
一 去丑年(=文化2年)より丹沢御林雑木之義、炭焼出ニ村方え被仰渡候所、炭焼出直段(=値段)幷俵数積立、金子壱両ニ付江戸着廿五俵ニて壱ケ年ニ壱万五千俵、当寅年(=文化3年)より七ヶ年之間上納可仕積り、私共両人ニて引受、上納之儀諸事万事世話致申候処実正也。(以下略) 文化三寅年七月  横野村 炭引受人 組頭 織右衛門 右同断 百姓 何兵衛」

文化2年に横野村が幕府から丹沢山御林での炭焼の命令をうけ、それを村民「織右衛門」と「何兵衛」の両人が請負った旨を村役人に一札入れたもの。値段は1両につき炭25俵を江戸まで届ける事とし、文化3年から毎年15000俵を7年間、上納する、という内容。
しかし前述したように事業は赤字となったから、文面通りにはいかなかったのだろう。

寺山村の炭の生産量は文化3年から14年間で321808俵だったというから、単純に14で割ると年に22986俵となる。
炭焼というと冬季と思われがちだが、雑木の炭焼きは一年を通して行われた。
横野村が上記文書の通りに年間15000俵を生産したと仮定し、それに寺山村分を足すと年間37986俵、やや少なく見積もって35000俵として計算してみる。
「丹沢御林の変遷」で漆原氏が述べているように、田原まで馬一頭に10俵、馬方が3俵を背負って行ったとすると、1年で馬+馬方がおよそ2692組、1日では平均して7組強となる。つまり、毎日5組から10組くらいの駄馬+馬方が地獄沢から岳ノ台を越えて田原に降りていったことになる。
駄馬は100kgくらいを積んで運んだといわれているから、炭1俵は10kgくらいだったのだろう。馬方が3俵で30kgくらい担いだというのも、そんなもんだろうなと思う。

明治末から昭和初期ころの西丹沢では馬に炭6俵を積み、人が1俵かついだという(「足柄地区民俗資料調査報告書」神奈川県教育委員会 1972 による)。
江戸時代の炭俵が後の西丹沢で使われた炭俵よりも小さかったのか、御用炭用の俵のサイズがそのくらいに決っていたのか、どうなんでしょう。

横野村は(文書上)文化3年から9年まで炭事業を行ったと思われるが、寺山村は文政2年まで炭生産を続けたようである。ということは地獄沢の炭会所も文政2年(1819)までは存続していた、ということだろう。

天保12年(1841)に成立した「新編相模国風土記稿」の「巻之三 山川」に「炭 (前略)近き頃丹澤山にて、焼せられしが今は廃せり」とあるのが炭会所による炭生産を指している。

門戸口に大正時代初期までは残存していたかと思われる石垣土手は  矢櫃峠周辺の道  (6) の「3. 門戸口の石垣土手」でも述べたように、地獄沢の幕府炭会所から搬出される炭を管理するための番所(の類)の施設であった、と考えられる。

      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (9)

    [ 丹沢山の住民 ]

矢櫃峠周辺の道 (6) 「2. 春日神社」で「諸戸殖林事務所」までたどった「市川生」による「横浜貿易新報」連載記事「丹沢山の住民 現代式の太古桃源村 鶏犬に和す伊吾の声」全4回 の続き。「伊吾の声」は書物を読む(=文化の)声、という意味である。

大正3年2月3日(4611号)「丹沢山の住民 (1)   (終りの方に) 諸戸事務所へ立寄った。」
2月4日(4612号)「丹沢山の住民 (2)  官林一千八百町歩外に一千町歩の山林は、山持長者として名高い伊勢の諸戸精太氏が今より廿年まえに殖林事業を開始して、今は其九分通りの完成に近づいている。」(註:「諸戸精太」は諸戸「清六」の誤り)
2月9日(4617号)「丹沢山の住民 (4)  丹沢山中の殖民史を繹(たず)ねて見ると、熊谷即ち今の諸戸辺から開け始めたものと思わる。今から凡そ七十年前に何処からとも知れぬ者が此熊谷に一戸を構えた。之に次いで明治六年頃前川京太という者が又一戸を構えた。此両人は丹沢殖民の開山である。 (続いて札掛の様子を記したのち) 平原から斯んな山奥へ人間を惹き付けた所以は、言う迄もない今より廿年前に着手された諸戸家の殖林事業に在る。」

今から凡そ七十年前(略)熊谷に一戸を構えた」という話を(おそらく札掛で)聞いたようだが、「丹沢山中の殖民」が「熊谷即ち今の諸戸辺から開け始めた」というのは大いに疑わしい。

大正3年(1914)から「凡そ七十年前」というと天保期末から弘化年間(1844-48)にあたる。
694
① 明治16年測量図「大山町」

江戸時代後期の藤熊川流域では文化年間(1804-1818)に地獄沢に幕府の大規模な炭会所が置かれたと推定され、農民集落としては「文政元寅年 (1818) より開発相始メ」(天保六年 寺山村明細帳) て、当初10軒が入植した門戸口(大野平)があった。
門戸口の開発については 
アーネスト・サトウが歩いた道 蓑毛から八町山 (八町ノ台) へ (1) を参照してくだされ。

「市川」君は「熊谷即ち今の諸戸辺」と聞いたようだが、「諸戸辺」は間違いで、地獄沢ではないか。                    
熊谷
① 明治16年測量図では「字上地獄沢」の対岸に「字熊谷」と記されている。
② 上流側が熊谷(くまたに)ノ沢、下流側が下熊谷ノ沢と呼ばれており、そのあたりが「字熊谷」なのだと思う。
カンスコロバシ沢の字名は「カスコロハシ」だろう。

「藤熊川」の名称は、字名「藤瘤」と「熊谷」の頭文字を組み合わせたものであろう。
明治30年以降に「斯んな山奥へ人間を惹き付けた所以は」「諸戸家の殖林事業に在る」のは、まさにその通りであろうと思う。

「市川」君が札掛を訪れた大正3年時点で、すでに藤熊川流域の古い歴史のあれこれの断片が入り交ざり、誤って語り継がれていたらしい様子がわかる。

田中芳男「冨士紀行」の明治4年7月11日(1871年8月26日)の記(蓑毛から大山に登り、大山町に下山した)に「大山ノ後ロニ當リタル深山ヲ、總テ丹澤ト云フ。(中略)近年、品川ノ豪商何某ナル人、追々木材切出シノ世話シ、騒乱ノ節ハ、拳家右ノ深林ニ隠レタレトモ、今ハ又、元ノ家ヘ行カレタレトモ、今尚其地ニ別荘ノ如キ家残リ、同家ノ人出張セリ、ト云フ。」との記述がある。

品川ノ豪商何某ナル人」が「追々木材切出シノ世話シ」伐採事業を営んできた。「近年」の「騒乱ノ節」は、幕末から明治維新にかけての社会混乱期のことであろう、その節には「拳家右ノ深林ニ隠レタ」一家をあげて「丹澤」の深い森に隠れ住んだ。
「今ハ又、元ノ家ヘ行カレタレトモ」すでに品川の家に戻ったが「今尚其地ニ別荘ノ如キ家」が残っていて「同家ノ人出張セリ、ト云フ。」「同家ノ人」(使用人であろう)が住んでいる、という。

田中芳男氏の文章から推理すると、「品川ノ豪商何某」は「丹澤」山中に土地を所有して家屋を建て、「木材切出シノ世話」をしていた、ということのようである。
煤ケ谷村の「丹澤」は江戸時代には天領だったから、その土地を所有することはできなかったはずだ。
とすると、「其地」は寺山村「丹澤」の入会地であったとしか考えられない。

慶応2年(1866) 、「武州荏原郡大井村(現・東京都品川区)百姓平林九兵衛」が門戸口周辺の開発を企て、16ヵ村入会地の内、計画に反対した羽根・菩提・東田原・ 西田原4か村分以外の約1500町歩を入手した。
「品川ノ豪商何某ナル人」は「大井村百姓平林九兵衛」で、「平林九兵衛」が「木材切出シノ世話」をしたのではないだろうか。
「百姓」でありながら「平林」の姓を名乗っているから、苗字を許された有力者であったと思われる。
門戸口-諸戸山林事務所
明治15年測量 1/20000「神奈川懸相模國大住郡寺山村」
藤熊川沿いに記入された家屋記号
上:カンスコロバシ沢出合 / 下:門戸口 
それぞれに2軒の家屋記号。

入会地は藤熊川沿いに門戸口周辺から字藤瘤あたりまで分布していたから、「別荘ノ如キ家」があった「其地」が門戸口とは限らない。札掛への道沿いには所々に家が点在していたようである。

諸戸清六は明治29年に「東京の某氏」から丹沢の山林を買い取ったという。

「東京の某氏」は「品川ノ豪商何某ナル人」で、それは「平林九兵衛」だったのだろうか。

視図 門戸口迅速測図「神奈川縣相模國大住郡寺山村」
明治15年12月 測量
視図名称「寺山村字門戸口」

「東京の某氏」が「品川ノ豪商」=「平林九兵衛」であり「其地」が門戸口であったとすると、この視図に描かれている家屋が「別荘ノ如キ家」だったのかもしれない。

  [ 諸戸山林事務所・諸戸林業 ]

諸戸山林事務所諸戸山林事務所
植林を始めた頃の屋号は「諸戸店」だった。昭和15年から諸戸林業株式会社。

諸戸山林事務所(秦野市丹沢寺山)は三重県桑名市と東京に本社を置く諸戸林業株式会社の神奈川支店。諸戸林業株式会社は諸戸ホールディングスのグループ会社である。

大正2年(1913)8月に「諸戸の切通し」(矢櫃峠)を越えて札掛に入った武田久吉氏は「此の邊(=門戸口)より諸戸氏の所有林で、スギとヒノキが栽殖してある、又所々にこれ等の樹木の苗圃も見える。古いトノキ(トチノキか?)がそこにあるのは多分野生のであらう。 門戸口をすぎて五分許りも行くと、諸戸氏の事務所がある、其他家が二三軒もあつて、しきりに犬が吠へ立てる」(「丹沢山」山岳 第8年第3号)とあっさり記しており、諸戸事務所を素通りしたようだ。
当時、カンスコロバシ沢に建物が3・4軒あったことがわかる。

弘化3年(1846)、諸戸清六、伊勢国桑名郡木曾岬村(現・桑名郡木曽岬町)加路戸新田に生まれる。
やがて諸戸家が「加路戸(かじと)屋」」を設立し、米穀業・舟問屋を営む。
安政7年(1860)、父・清九郎が歿っする。
文久3年(1863)、桑名に「内海屋」を設立、米穀業を営む。
明治10年(1877)の西南戦争で軍用御用(兵糧調達)に関わったことを機に政府・財界との関係を深めて事業を拡大、翌年、大蔵省御用の米買付方となる。
明治16年ころから「「田地買入所」の幟を立てて田畑を買い始める。
明治22年、屋号を「諸戸店」に改名。
明治23年から山林購入・植林事業開始。この年、御料局長が桑名の諸戸家に宿泊。
明治29年、丹沢の山林を購入。
晩年に東京の住宅地を30万坪も買いあさり、渋谷から世田谷まで他人の土地を踏まずに行けたといわれるほどになって、日本一の大地主・山林王といわれた。
明治37年、桑名町に自費で上水道建設、町民に水を無償で提供。後に水道施設は町に寄贈され、昭和4年まで使用された。
明治39年11月、諸戸清六、歿。四男・清吾が襲名し、二代目清六となる。

「人事興信録 19版」(昭和6年)、および「大衆人事録 近畿・中国・四国・九州篇」(昭和18年) には諸戸清吾(二代目清六)の肩書が「諸戸殖産(株)社長」とあるが、諸戸林業(株)のホームページでは「1940(昭和15年)諸戸林業株式会社を設立」となっており、諸戸林業と諸戸殖産の関係がイマイチわからん。諸戸林業は諸戸殖産の子会社だったのだろうか?

明治23年12月、三重県桑名の諸戸家に宿泊した御料局長から丹沢山の話を聞いたことがきっかけとなって「東秦野村民から東京の某氏に移籍していた萱場や粗悪な林野を買受け、遠路三重から来て草鞋履で踏査、(略)初期の杉、檜の苗木は三重県下で生産、舟で大磯へ、それから駄馬で運んだ。」(「丹沢御林の変遷」漆原俊)そうである。
明治39年 大山
明治39年測量図 「大山」

明治29(1896)年、諸戸清六は草鞋履で丹沢の現地を踏査したうえで山林938ha(約946町歩)を買いとり、12月に丹沢諸戸山林買収登記完了。
翌30年から雑木林を製炭しながら地ごしらえ。
この時期に矢櫃峠道を開削したと考えられる。

明治31年から42年にかけ、沢筋に杉、中腹から尾根筋に桧を基本に、桧と杉を8:2の割合で、取得地の3分2
に400万本植林。他に少数ながら松・欅・榛(はしばみ)も植栽した。

苗木は三重県産の1-2年生を三重県で購入、船で大磯港に荷揚げし、東田原に造成した七反五畝十一歩(約75アール)の苗畑まで馬車で運搬した。
山道運送による苗木の消耗を避けるため、東田原の苗畑で3年生まで養苗してから馬で矢櫃峠を越えて現地に届け、帰りには木炭を運搬した。

HCoh赤点線は推定道
明治16年測量図「大山町」の道 (八町山道)
明治16年測量図「大山町」の道
諸戸清六が開鑿した(諸戸)道

以下の写真は ① 明治39年測量図 「大山」諸戸道の「」部分。
② 現・ヤビツ峠から沢沿いに門戸口へ降りる登山道から左に分れる諸戸道(跡)。

明治6年(1873)11月25日、アーネスト・サトウ一行は八町山から、大正2年(1913)8月31日、武田久吉氏らの一行は「諸戸の切通し」(矢櫃峠)を越えて③④の諸戸道から②八町山道との合流点に降り立ち、ここから札掛までサトウ・武田親子は40年の時を隔てて同じ道を歩いた。3EUT
①明治39年測図「大山」 ②ヤビツ峠の下で、左岸から諸戸道が合流する。

③ ④③ 少し先まで峠道跡が残っている。  ④ この先で斜面崩落、道跡は消える。

「(八町山から現・ヤビツ峠に降りて)川の右岸に沿って山道をくだる。」(「丹沢でアトキンソンが遭難」アーネスト・サトウ 日本旅行日記 2)
「左側の細い谷に水晶の様にすき通る水が流れて居る。フシグロセンヲウや、オトコヘシ等が美しく咲ける路を、此の流れについて下つて行く事二十分許りで、門戸口と云ふ所に出る」(「丹沢山」武田久吉 山岳第8年3号)

一通り植林が終ってから数年の間、矢櫃峠道の通行は激減したようである。

大正2年(1913)8月31日、武田久吉氏らの一行が「諸戸の切通し」(矢櫃峠)を越えた時の記録(「丹沢山」)に「昔諸戸氏が所有の山林の事務所へ通ずる路をつけた時には、尚よく馬力(=馬車)を通じたそうであるが、毎年雨の度に山がくづれるので、修繕はするものヽ 、今は只駄馬を通ずるに過ぎない、しかし道巾は三尺内外は充分にある。」と描写されており、明治42年に植林が終ってから矢櫃峠道の通行がまれになって道路管理も十分になされず、馬車が通れるような状態ではなかったことがわかる。

しかし、翌大正3年に間伐材の切り出しが始まると、煙草専売局(秦野市入船町、現・イオン)裏の貯木場まで伐材搬出や木炭を搬出する馬が日に200頭も通るほどまでに峠道は復興したという。

大正12年9月、関東大震災と半月後の豪雨により、植栽地の三分の一にあたる211haが崩壊。翌年1月には相模(丹沢)地震。
昭和6年には二度の地震で荒廃した御料林(帝室林野局が管理)が神奈川県に下賜されて恩賜県有林となっっている。
昭和7年11月、県営丹沢林道着工。昭和9年1月、丹沢林道(現・県道秦野清川線)が札掛まで開通、木材運搬が駄馬から自動車運送に代る。

丹沢林道開通後、間伐量が増加したため秦野の貯木場を閉鎖して新たに小蓑毛に設置、丸太の仕分けを行って販売した。
昭和12年の日中戦争開始以後は徴兵や徴用などで作業員が激減、太平洋戦争が始まると自動車用燃料も不足して木材が運搬できなくなり、間伐中止・貯木場閉鎖。昭和17年には作業員不足で枝打ち作業も中止となった。

戦後、丹沢林道は度重なる災害により不通のまま、しばらくは復旧の見込みもたたなかった。
1948年、福島県から作業員5名が入山して本格的に間伐作業開始。
翌49年3月、丹沢林道が開通し諸戸山林の間伐材が販売されるようになると、戦災復興資材として末口径の細い間伐材でも売れた。

1995年、BOSCOオートキャンプ場、開設。

六華苑明治17年に初代清六が購入し転居した地に、大正2年(1913)に竣工した二代目清六の私邸「六華苑」(桑名市)。
国の重要文化財に指定されている。庭園は国指定の名勝。
観光施設として開放されている。

     ( 続 く )

 大山 閼伽之水

     閼 伽 之 水
 
閼伽之水緑破線は江戸時代-明治初期の推定道。

40年くらい前の話である。


春岳沢の遡行を終えて稜線が近くなった時だった。
笹藪を登っていると、右の方に小さな屋根が見えた。

近づいてみると、なんと屋根付きの井戸があった。なんでこんな所に井戸があるんだろう、なんとも不思議だった。
井戸から右に道がついていたが、藪の中を直上して尾根道(本坂)に出た(んだと思う)。

その後も春岳沢を3 - 4 回は遡行したはずだが井戸に再会することはなく、最後の詰めは、いつも違う場所に登り着いた。
不思議な体験だったので、屋根付き井戸は記憶の奥深くにこびりついたまま40年ほど経った。

2年ほど前から大山を探索調査するようになって、いろいろな資料に目を通すようになった。
その中で出会ったのが「相模國雨降山細見之扣(ひかえ)」(19世紀中頃)の「二十四丁目、大日如来、左り方壱丁余り入、閼伽之水湧出ル」だった。
読んだとたんに「閼伽之水湧出ル」と、40年ほども前に見た屋根付き井戸とが重なり合った。
不思議な井戸は「閼伽(あか)之水」だったのだ!

閼伽(あか)は仏前に供養される功徳水(くどくすい)のことで、サンスクリット語のアルガ / アルギャの音写
修験道では釈迦の心の水として特に重視されるそうである。

戦前(さらに、戦後しばらく)は下社-山頂間に茶店が十軒くらいあっって、上の方の茶店は「ゴクウの水」を使っていたこと、「ゴクウの水」は仏に供える御供水(ごくうすい)のことで「閼伽之水」であろうことは 伊能忠敬が測った道 大山・蓑毛道 (3) 丁目石 - 2  で述べたので参照してくだされ。
24丁目は山駕籠の終点だったから、駕籠かきにとっても貴重な水場だったはずだ。

「閼伽之水」は他に、大山の開山上人とされる良弁の霊験譚「大山縁起」真名本(鎌倉時代末-室町時代初期に成立か)、日向修験・常蓮坊による「峯中記略扣」(江戸時代後期-末期)、天保七年(1836) 蓑毛村明細帳 に現れる。

「大山縁起」真名本「上人行本宮山。無水不便。咒以三鈷杵穿石。石竇引溜。湧出不絶。若人洒掃。水失却。亦洒掃止時亦如故。今本宮閼伽井是也。」 
「上人」は大山開山・良弁、「本宮山」は大山頂上を指す。
「上人は頂上に登ったが水が無くて難儀した。真言をとなえながら三鈷杵で石をつつくと穴が明いて水が湧き、溜った。水は絶えることなく湧き出たが、水場を掃除する時には止り、掃除が終るとまた湧き出す。それが今の本宮閼伽井である。」

三鈷杵「三鈷杵(さんこしょ)」

金剛杵と総称される密教法具の一。元はインドの武器。把(つか)の両端に鈷(こ。突起)が三つある。

     [ 探索調査報告 ]

道跡 1


24丁目から山腹を春岳沢に降りて行くと、下方に杉の巨木が現れる。

大杉の左側を降りると古道が少しだけ残っている。40年ほど前、井戸から右に続いているのを眺めた道だ。
その先に、朽ち果てた井戸の跡があった。

ここは「滝ヶ沢」(春岳沢本流)の最上部であり、春岳沢の源である。

鹿 1




見下ろすと、鹿が土を舐めている。
そこが「閼伽之水」だった。

「峯中記略扣  石尊大天狗小天狗(=山頂の3社)江札納夫ヨリ閼伽ノ水有」

大杉
(左)大杉の左側を降りて行く。
(右)約40年ぶりに再会した井戸の跡(下端)。上方に大杉。

この大杉は、記憶にない。
当時は一面の笹藪だったから、見えなかったのだろう。
屋根付き井戸だった当時の面影はすでに消え去り、わずかに井戸枠の一部が残るのみ。


閼伽井屋

image 画像

記憶はおぼろげだが、こんな井戸(閼伽井屋)だった。
井戸の中には水が溜っていた。
つるべ(桶)があったかどうかは、覚えていない。

閼伽の井戸は閼伽井屋と呼ばれるそうだ。

道跡 2



左下が「閼伽之水」、右側の道を降りて来た。

井戸は深い笹原の中に侘しくぽつんとたたずんでいたような記憶があるのだが、増えすぎた鹿が笹を食い尽くしてしまったらしい。

閼伽水「閼伽之水」

天保七年(1836) 蓑毛村明細帳「閼伽水 右は春嶽山ニ有之、六尺四方之清水ニ御座候、大山石尊之御供水ニ相用申候。」


コンクリート壁と、右側の木製井戸枠の残骸が僅かに残り、四角い井戸だったことがわかるが、「六尺四方」はかなりの誇張。
他の二方の枠は跡形もなく消えている。
40年ほど前には井戸に水が溜まっていたのを覚えている。

わずかな水を溜めるためだろうか、一升瓶が置いてある。
だが地面を掘らなければ、水は出てきそうにない。

「大山縁起」でも、三鈷杵で突くと水が出たとしているから、当時(鎌倉時代末-室町時代)から自然に湧き出ていたのではないようだ。
行者とはいえ、たまたま通りかかるような場所とは思えない。以前から山仕事に入る地元の住民が山中の貴重な水場として使っていて、道もついていたのであろう。
井戸枠鹿は赤円内の土を舐めていた。

40年ほど前に見た屋根は、とうの昔に消え失せてしまったようで、閼伽井屋の面影はすでに無い。

手前に用途不明の金属板と、井戸の部材だったと思われる泥まみれの角材の破片が転がっている。
金属板は円形だったように見え、滑車の保護板だったかも。

鹿 2
西側のイタツミ尾根に向かう古道が数メートルだけ残っている。

すぐ下で、先ほどの鹿が逃げずに、こちらの様子をうかがっている。
閼伽之水の土が、どうしても欲しいらしく、じっと待ち続けていた。
鹿にとって必要不可欠なミネラルが含まれているものとみえる。
閼伽之水は、今では鹿にご利益をもたらしている。

西へ向う古道は、すぐ先で草やぶに消える。 

大杉
西から見た巨杉。

東丹沢で見た中では最大級の杉。
何百年もの間「閼伽之水」を見守り続けてきた御神木なのだろう。
かつては注連縄が張り巡らされていたのだろうか。

杉の根元から10メートルほど下が「閼伽之水」。
杉の左に見える泥流の下端にあたる。
泥流の源は山麓からも見える小さな扇状の崩落地で、井戸は流下した泥によって倒壊・埋没した。

草やぶと灌木をかき分けてイタツミ尾根道に出た。

    [ イタツミ尾根の道 ]

山論裁許絵図





「東田原・西田原両村と蓑毛・小蓑毛・寺山三か村山論裁許絵図」元禄2年(1689)

この絵図と下図のイタツミ尾根道は、現在のように最後まで尾根通しに登るのではなく、「閼伽之水」を経由して24丁目で本坂に合流する。


絵図3









「蓑毛村絵図面田畑色取」 天保7年(1836)

本図・上図ともイタツミ尾根道の最上部は尾根通しに登らず、山腹をトラバースして本坂に合流している。


滝ヶ沢明治16年測量 同28年発行 1/20000 「大山町」

この地形図でも、イタツミ尾根道は山腹をトラバースして本坂24丁目に合流する(赤枠内)。  
      
40年くらい前、「閼伽之水」に出くわした時は、滝ヶ沢から矢印のように登ってきたのだと思う。
                                      
1942年 春岳谷
1942年「春嶽谷略圖」(出典不明)

明治16年測図の左下から来る道記号は元宿から春岳沢を遡り、モミジ谷・滝ヶ沢中間尾根を登って「閼伽之水」に達っしているが、昭和17年の略図では上部で道記号が消え「密藪」と記されている。

有隣堂情報誌「有隣」第413号(2002年4月10日)所載「座談会 わが愛する丹沢 (1)」に「昭和二十五年(1950)四月(中略)大秦野(=現・秦野駅)から歩いて蓑毛に出て、そこから真っ直ぐ大山に登ったんです。当時は、尾根筋にかすかな踏み跡があったので、それを探しながら行って、大山からはイタツミ尾根を通ってヤビツ峠におりた。」という植木知司氏の発言がある。
蓑毛から「真っ直ぐ大山に登った」のは、この尾根に相違ない。まだ「尾根筋にかすかな踏み跡があった」のだ。

「峯中記略扣」には「石尊大天狗小天狗(=山頂の3社)江札納夫ヨリ閼伽ノ水有」と記され、「丹沢問答口江出、山王権現札納」と続く。
書きぶりからは、「閼伽ノ水」から山頂に戻ることなく門戸口に向っているように推測される。

とすると「閼伽ノ水」からイタツミ尾根をヤビツ峠まで下降して藤熊川沿いの道を降りたか、あるいは 960m 地点から門戸口方向に派生する尾根を降りたかのどちらかであろう。
Hup5x

明治15年12月測量 迅速測図
「神奈川縣相模國大住郡寺山村」

960m地点から門戸口へ向うとすると、どこを降りたのだろう。

注目したのが、桧沢から左岸の尾根を越えて藤熊川沿いの道に降りる矢印の道。

明治16年測量
明治16年測量「大山町」

この図では赤枠の道が、上図の矢印の道にあたる。
桧沢沿いに藤熊川まで道があるにも拘らず、途中から左岸の尾根を越えるのは、明らかに門戸口方面に向うためである。

イタツミ尾根960m地点から西に降りると、949m峰で尾根は2方向に分れる。
明治初期の地形図には桧沢への道しか記入がないが、門戸口に達する尾根にも道があった可能性がある。

どちらにしても門戸口まで、ヤビツ峠経由よりも距離がはるかに短かい。
というわけで、両尾根を調査した。

     [ 門戸口への尾根 ]
北側の尾根を登り、949mから南側の門戸口への尾根を降りてみた。
地図 門戸口







① ②




① 桧沢左岸から藤熊川に降りる道。
予想通り、けっこう深い掘割になっており、頻繁に通行があったことが見てとれる。
車道側は法面が高いコンクリート壁になって、道は消え失せている。

①から道は桧沢を横切り、右岸を登る。右岸には古い車道跡が続いている。
二股から尾根を登る。かなり上部まで古い車道跡が続く。
② 標高780m、上方に12号鉄塔。尾根は狭く、古道の痕跡はまるで無い。
12号鉄塔は尾根上ではなく、左側の斜面に設置されている

③ ④③ 949m峰。枯草の広がる気分の良い頂上には、なんと「春嶽山」と書かれた標識が!春岳山はイタツミ尾根の向う側ではないか。これは一体なんなのだ。
ここまで来る人がそこそこいるらしく、イタツミ尾根960m地点まではっきりした道がついている。
桧沢から949m峰までの間、①以外に古道の痕跡はなかった。

949m峰から南西の尾根を降り、930mから西に折れる。
④ 850m。のどかな尾根が続く。時おり、踏み跡程度の道が現われるが、それもすぐに消える。
11号鉄塔から門戸口までは東電巡視路あり。このルートにも古道らしき跡は見つからなかった。
どちらの尾根にもはっきりした道はなく、なんとも判断しかねる。

結論としては、よく分らん!
御林には入らず、イタツミ尾根を降りたのかな。

      では、また!

 矢櫃峠周辺の道 (8)

    岳ノ台南尾根 再調査

   [ 矢櫃峠周辺の道 (2) の続き ]

岳ノ台越え古道を再調査した。

明治図

明治16年測量 同28年発行 1/20000「大山町」

道路位置は明治15年測量 迅速測図「神奈川県相模国大住郡寺山村」と同じ。

大日如来碑までは 矢櫃峠周辺の道 (2) を参照してくだされ。

a 岳ノ台南尾根。
d 標高 815m 水平道。
e これが江戸時代の道か?だが、ちょっと不自然な気もする。d の道ができてから、この道になったのかも。
8号鉄塔尾根は幅が広いので、わざわざトラバースする必要はなく、江戸時代には d の道に入らずに尾根を直上してたんじゃないかな。



表示板



江戸時代道・矢櫃峠道の分岐地点(赤円印)に落ちていた表示板の図。


錆がひどくて見にくいが、明治16年測量図と比べながら解読してみると、こうなった。

b は8号鉄塔尾根。e から先には古道の痕跡がない。


江戸時代の絵図 2 点から判断すると、当時の門戸口への道が岳ノ台を越えていたことは間違いない。

江戸時代絵図
(左) 元禄2年(1689)「東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」
(右) 天保7年(1836)「蓑毛村絵図面田畑色取」

岳ノ台古道




以上から作成した古道推定図

赤線・赤破線・赤点線が推定・江戸時代の道。
緑破線は迅速測図 / 明治16年測量図に記載の道。


ca.800m① 大日如来碑の上の尾根、標高約 790m (a)。下方を見る。
古道の痕跡は、まるでないな~。

ca.800m-2

① から上方。
少し先から、傾斜がやや急になる。
江戸時代の道は、この尾根を通ってなかったみたい。

とすると、大日如来碑からの右トラバース道は、江戸時代以前からの道だったらしい。

11

矢櫃峠周辺の道 (2)  の写真 ⑪

大日如来碑から山腹をトラバースして8号鉄塔尾根に達した道は左折、また右折して道跡が消えているが、明治16年測量図から推定すると、右折した道が斜上して d の道に続いていたようだ。

R3WR1
d 標高815m 水平道。

江戸時代の道は8号鉄塔尾根から右斜上せずに尾根を登って行った(赤点線)か、あるいは明治16年測量図にある道記号(e)のように、水平道から左に尾根を登って(赤破線)岳ノ台を越えていたかのどちらかであろう。


RosI前方、③終点から先は崩落している。

江戸時代の道が岳ノ台を越えていたのは、この先の棚入沢源頭部の軟弱な地盤を避けるためであろう。

明治16年測量図の道 e は、このあたりから左上に登っていく。


AxNW




③ 終点から谷(棚入沢最上部)越しに矢櫃峠と9号鉄塔が見える。

その間の谷斜面は、全面的に崩落したらしい。

MK2pJ終点のフェンスの隙間から先を見ると、古道跡と思われる平坦部分が残存している(赤円内)。
その前後は斜面が崩落して消失。

      では、また!


 矢櫃峠周辺の道 (7)

     北条・武田合戦伝承  (3)

      ( 承 前 )      

3. 合戦にまつわるとされる地名

藤熊川

藤熊川流域にはカンスコロバシ沢、地獄沢、陣賀、門戸口など、北条・武田合戦にまつわるといわれる地名が幾つかある。
これらの地名について検証する。

丹沢山は寛永元年(1624)から幕府直轄の「御林」となっていた。

延宝3年(1675)3月、御林守5ヵ村が幕府評定所に提出した「誓紙手形之事」に「丹沢御林之内 大野平・ちごく沢・ちんかさき・かすころはし・くながい・浅木山・水沢、此七ヶ所ハ先年より御運上野ニ被仰付候。山本(元)・里方之者入込、鎌かり之薪取来り申候事。」と記されており(秦野市史 2)、史料として残る最古の藤熊川流域地名と思われる。

「神奈川県史 資料編 6 近世(3)」では、同史料(No.209)を「大野平・ちごく沢・ちんかさ・きかすころはし・くなかい・浅木山・水沢」としており、「ちんかさ・きかすころはし・くなかい」の3ヶ所の表記が「秦野市史」と異なっている。

「此七ヶ所」のうち「くながい・浅木山」の位置は不明だが、他の5ヶ所は(「水沢」も含めて)藤熊川右岸に位置する。
札掛への道が右岸にあるためかとも思うが、対岸は「御林」として守りたかったのでもあるのだろう。

  [ 門戸口 ]
門戸口は上記の誓紙手形には記されていないが、寺山村領丹沢の中で「平」と呼びうるような地形が他に見当らないため、「大野平」が後の字・門戸口を指すと推定する。

秦野市史をひもといた限りでは、文化13年(1816)3月の丹沢山新開に関する書上(上申書)に表れる「字門戸口」が「門戸口」の初出だと思う。延宝3年より百数十年も後である。
視図 門戸口迅速測図) 神奈川縣相模國大住郡寺山村
測量年:明治15年12月
視図名称:寺山村字門戸口

この視図には、道路の両側に石垣土手が描かれており、明治15年には、門戸口で道路がこのように石垣で挟まれた状態にあったことが見て取れる。

門戸口に小田原北条氏の砦があったという説は、この石垣遺構から発生したのだろう。

中世の関東では土塁を石垣で蔽うことはまだ一般的ではなく、足柄城でさえ石垣が使われたのは本丸近辺のごく限られた重要箇所だけだったし、石垣構築には石工を徴発する必要があった。
小田原防衛上、それほど重要とは思えない辺鄙なこの地まで、秦野盆地から一山越えてわざわざ石工を派遣し石垣を組ませる必要性があったとは考えられない。

とすると、この石垣土手は何だったのだろうか。
文化年間(1804-18)、地獄沢出合に炭運搬のための幕府の会所があったと推定され、大量の炭が岳ノ台を越えて搬出された。
道が菩提・田原・蓑毛の三方向に分岐する門戸口に、炭の運送を管理する番所のようなものがあっったとすると、石垣土手はその名残なのではないだろうか。
「門戸口」の名称も、この番所(のようなもの)の門に由来するのではなかろうか。「門戸口」の文献上の初出が文化13年である(らしい)こととも符合するように思える。
「門戸口」については 矢櫃峠周辺の道 (4) も参照してくだされ。

江戸時代後期から末期の成立と推定される日向修験(本山派)・常蓮坊による「峯中記略扣(ひかえ)」に、「山入(=入峯修行) 」の行程として「(大山頂上) ニ札納、夫レヨリ阿伽ノ水有、是ヨリ丹沢問答口江出、山王権現札納」と書かれており、「問答口」が門戸口のことと考えられている。

これを根拠として「問答口」から門戸口になった、とする説もあるが、「峯中記略扣」の成立年代ははっきりと分っていない。逆に門戸口に「問答口」の字を当てた、とも考えうる。
「門戸口」の名称発生が文化年間であれば、「問答口」(=門戸口)と記す「峯中記略扣」の成立は文化年間以降、ということになる。

  [ ちごく沢 ]
現在の地獄沢を指すと考えて間違いないだろう。
合戦が地名の由来とも言われるが、仏教に由来する名称だと思う。

鎌倉時代末-室町時代初期の成立かと思われる「大山縁起」(真名本)に山伏の修業ルートが書かれており、大山山頂から「妙法嶽」を右手に大山北尾根を進み、藤熊川に下ってから表尾根に登ったと推定される。

原文は「本宮(=大山山頂)東北有岩窟。(略)岩窟東有高山。名妙法嶽。(略)西下有仙窟。諸仙之遊栖地也。」そして「祖母山」へと続く。
「妙法嶽」は三峰山 934.6m と推定されている。「祖母山」は不明。
この推定に従えば、大山北尾根「西下」の「諸仙之遊栖地」に「仙窟」があった、ということになる。何処にあったんでしょうね。

「妙法嶽」を東方に望むとなると、大山北尾根をある程度北に進んだあたりとなり、その「西下」は地獄沢流域になる。
「仙窟」がある「諸仙之遊栖地」が地獄沢の源頭部だとすると、地獄沢流域のどこかを経て藤熊川に降りて行ったのかもね。

「地獄」沢の名称はもっとずっと後の時代の物だと思う。「諸仙之遊栖地」が地獄であるはずがないでしょ。

寺山村には大山南山稜・高取山頂北西側の谷の源頭に「字地獄ケ入」がある(天保6年2月 寺山村明細帳「秣場」)が、戦とは関わりがない。 
箱根の大涌谷は北西の閻魔(えんま)台と南東の地獄沢からなる。江戸時代までは仏教的な意味合いで「大地獄」と呼ばれており、明治6年に「大涌谷」と改名された。
大磯町高麗山北面に地獄沢があるが、戦に由来する名称ではない。
下北半島恐山の有名な地獄も同様である。

丹沢を修業場とする山伏の活動は、小田原北条氏時代に全盛期を迎えたと推定される。
山を馳けることは六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天)を模擬体験することによる再生儀礼だった。
江戸時代の「峯中記略扣」の「山入」では、大山頂上から「閼伽ノ水」を経て「問答口(=門戸口)」に降りている。
「大山縁起」のルートと違って、「閼伽ノ水」から山頂に戻ることなく門戸口に降りていたのかも。

元禄16年(1703)の房総沖を震源とする大地震では「相州丹沢御林山内(中略)去ル未(=元禄16年)之大地震ニ而峯々谷々震崩申候」(御林守4ヵ村による「乍恐以書付ヲ奉願上候」)という惨状を呈し、それから間もない宝永4年(1707)の富士山噴火による降灰で埋り、さらに関東大震災と翌年1月の丹沢地震による大崩落によって山谷の形状がすっかり変わってしまったため、現在の地形から戦国時代あるいは江戸時代の景観を想像するのは難しいが、地獄沢にはその名の由来となった地獄を彷彿とさせる場所があったのかもしれない。

  [ ちんかさき ]
陣賀橋① 現在の「陣賀」にあたるのであろう。
語尾の「さき」は山の出張った先端・山の鼻を意味する「崎」だろうか。

陣賀は勝ち戦の時の宴とする説があり、それに当てはめると戦勝の宴を催した崎、になるのだろうが、まさか戦勝祝い用の酒持参で深い山中まで、生きるか死ぬかの合戦にやって来るとは思えない。宴会は自陣に帰ってからするもんじゃないかいな。
「ちんか」に陣賀の漢字を当てたため、後に発生した俗説であろう。

じんが崎、あるいは「ちん」ヶ崎なのか。
じんが、または「ちん」とは何ぞや。分らん。

「ちんかさ」(「神奈川県史」)は陣笠だ、という説もあるが、小田原北条氏「着到定書」などに「陣笠」の語は使われておらず、「皮笠」が使用されている。相模国に限らず「陣笠」と呼ばれることは、当時はほとんどなかったようである。

 [ かすころはし ] 
現在のカンスコロバシ沢であろう。
「丹沢山塊」



「丹沢山塊」1946年8月発行 山と渓谷社 (部分) 

山と渓谷社が敗戦1年後に発行した地形図。
カンスコロバシ沢の位置に「来光谷」と記入されている。

なんでだろ。

カスコロハシ 東迎谷イタツミ尾根960m地点に立つ表示板(一部)

黒線で囲まれているのが檜沢、その上(北)がカンスコロバシ沢。
カンスコロバシ沢の位置に「字上カスコロハシ」、右(上流側)の源頭部に「字東迎谷」と記され、その右が大山頂上になる。
カンスコロバシ沢・檜沢の境が金毘羅尾根。

カンスコロバシ沢を東に遡ると大山山頂に達し、山頂からは御来光を拝める、という意味で源頭部を「東迎谷」と呼んだのか?

「来迎」は、江戸時代初期ころまで「らいこう」と発音されていたらしい。
山と渓谷社「丹沢山塊」図は「東」を「来」、「迎(ごう/こう)」を「光」と誤り、「東迎谷」を「来光谷」としてしまったのだろう。

檜沢の最上部にあたる本坂26丁目は「来迎谷」と呼ばれていた。
寛政-文化期(1789-1818)成立と思われる華坊(はなのぼう)兵蔵著「相州大山参詣獨案内道の記」は「來向谷と申ハ此所にて夜明候得は日輪のはいし奉るゆへ御来向(ごらいかう)をおがミ奉るといふ縁にとりて來向谷と申也。谷にハあらず、山のみねを通るなり。」と記し、寛政元年(1789)刊、玉餘道人著「相州大山順路之記」は「来迎谷 毎朝の旭を拝めば来迎あり、とて名づく。」と述べ、両書とも日の出を名称の由来とする。来迎するのは大日如来であろう。
26丁目



本坂26丁目「来迎谷」から東方の展望。
尾根の下が大山川、遠くに見えるのは厚木市街。

「来迎谷」の東側は大山川であるから、「谷」は大山川を指していることになる。

中津川水源概念図1938年、秦野山岳会「丹澤」附図「中津川水源概念図」(部分)
名称が「カンスコロガシノ沢」とされている。

「カンス」は鑵子(かんす=やかん)であり「カンスコロバシ」は鑵子が転がることで、怪異が起きたことが名称の由来、とする説がある。
しかし旧名は「かすころはし」であり、現在の字名も「カスコロハシ」であってカンスではなく、この説はその前提条件が崩れてしまう。

「かすころはし」とはどういう意味なんだろ。
天保6年 寺山村明細帳に「地頭林」として「字ころばし山」が記されている。この「ころばし」と「ころはし」は、意味は分らないが、共通しているのか?
「かす」の転ばし?「かす」とは、なんじゃい?滓(かす)=屑かな。木屑が転がった?
分らん。 
「きかすころはし」(「神奈川県史」)であれば、木のかす=木屑が転がった、でよいようにも思える。

       [ 水沢 ] 
水沢
 
   


② カンスコロバシ沢の下流で左岸から水沢が合流するが、右岸側にも「水沢」がある
左岸の水沢だけでなく、藤熊川との合流点右岸側一帯も含めて「水沢」なのかもしれない。

「くながい」と「浅木山」(「浅木」は雑木のことであろう)がどこを指すのか不明だが、いずれにしろ「水沢」とともに合戦伝承とは関わりがない。
熊谷
藤熊川左岸に熊谷ノ沢と下熊谷ノ沢が合流する。

熊谷は(現在は?)クマタニと読むらしいが、元はクマガイだったとすると、「くながい」がクマガイに変化して熊谷の漢字をあて、さらに読みがクマタニに変化したのかも?
違うかな。

4. 餓鬼道伝説 

北条・武田合戦伝承に関わるものとして餓鬼道伝説がある。

とよた時・著「丹沢 山ものがたり」(山と渓谷社 1991)
には「秦野の荷上げ役の加藤老人は、力自慢の若者に食糧を背負わせて札掛に向かいました。 やがてヤビツ峠にさしかかると、どうも腹が減ってやりきれません。(中略)だんだん歩けなくなり、ついにヒザではうようなしまつです。それでも懸命にはって峠を越すと、不思議になおります。充分に食べておいてもそのありさま。」と、かなり具体的な話があり、「その昔、このあたりは甲斐の武田信玄と小田原の北条氏康との激戦の場。戦いに敗れ、傷ついてやがて餓死した武士の亡霊が、食べ物を探してさまよっているのだといいます。そのため、村人はここを餓鬼道と呼び、必ず亡霊に食べ物を供えてから、峠を越えるようになったということです。」と、餓鬼道の由来を語る。

漆原俊氏の講演と著作に基づく、ほぼ同様の話が
丹沢 山のものがたり」(秦野市 1998)にも「ヤビツ峠の餓飢病」と題して収録されており、ヤビツ峠の「前後二、三町の道を餓飢道とよんだ」としている。
とよた時氏の記述は漆原氏の
「相州丹沢山話(1)」(「丹澤」昭和13年刊。探索団員は未見)をもとにしているようである。

かつて矢櫃峠には神奈川県が設置した「餓鬼道のいわれ」と題する解説板があって「(矢櫃)峠にくると、急に腹がへり、餓死する人もあった。 その人たちの魂がさまよい、ここを通る旅人を飢え苦しませて悩ませたので餓鬼道といわれる」と書かれていたそうである。
この解説文では北条・武田合戦には言及していない。

餓鬼草紙「餓鬼草紙」平安時代末期-鎌倉時代初期
 第7段(部分) 施餓鬼(会)に集まる餓鬼

行き倒れや餓死者の怨霊であるヒダル神(餓鬼)に取り憑かれて激しい空腹感に襲われ、時には死に至る、という餓鬼道の話は西日本を中心に各地にあって珍しいと云う程のものではなく、矢櫃峠道の餓鬼道伝説もその一つである。

矢櫃峠道では餓鬼を「ヒムシ」と呼んだそうだ。

ヒダル神に取り憑かれる現象は、体力の消耗によって低血糖状態に陥り、体が動かなくなるハンガーノックと呼ばれる症状で、手足のしびれ・意識混濁などをともなうこともある。

北条・武田合戦伝承が生じると、戦死した(とされる)兵士の亡霊と関連付けられるようになり、「ヒムシ(=戦死・餓死した戦士の怨霊)」に取り憑かれた、と語られるようになったのであろう。

2023年7月19日、追記
「国定公園 丹沢大山周辺の夜話」池田多嘉蔵 1973 (私家版・秦野市立図書館蔵) p.65「丹沢の周辺に伝わる物語三編」の「ヤビツ峠で起きる飢餓病」に「(飢餓病は)むかし甲州方と小田原方との激戦がヤビツ峠で行われたときの、戦死者の亡霊が、未ださまよっているのではないか、と云うことになった。」との記述がある。

「・・・のではないか、と云うことになった」は、まさにこの時、それまで別々に語られていた北条・武田合戦伝承と飢餓伝承とが結びあわされて矢櫃峠の戦没兵士餓鬼道伝説が誕生したことを意味している。残念ながら、それがいつのことなのかは書かれていない。

著者は明治末期生まれと思われる。となると昭和に入ってしばらくしてからのことか、戦後になってからなのか、なんとも分らん。

      ( 続 く )    

 矢櫃峠周辺の道 (6)

    北条・武田合戦伝承  (2)

矢櫃峠付近で北条氏・武田氏の軍勢による合戦があった、という伝説は
① 矢櫃峠道の改修時に発見されたとされる矢櫃
② 春日神社境内から発掘された鎧・兜・太刀・人骨
③ 門戸口に大正時代にも残存していたと思われる石垣土手遺構
の三つのネタを元にして生じた、割と新しい(明治時代以降)伝承である可能性が高いように思える。

他に合戦伝承に関わる言い伝えとしては、餓鬼道と千人隠れがある。
このうち千人隠れについては 
矢櫃峠周辺の道 (3) で述べた。

1. 矢櫃

矢櫃峠道の改修時に矢櫃が発見・発掘された、という話が伝わっており、「矢櫃」峠の名称は、発掘されたというその矢櫃に由来する、とされている。

峠名の元になるくらいの発見であるから大きな話題になったはずだが、おかしなことに問題の矢櫃の発見場所・その状況、いつ行われた「峠道の改修」を指すのかなどの一切が不明。
また、発見された(とされる)当時から、その矢櫃が北条・武田合戦と関連付けられていたのかも分らない。

明治時代初期あるいは末期の峠道改修時としたものもあるが、出所への言及はなく、それも伝聞なのであろう。
明治初期の峠道改修とすれば、明治15年(1882) 12月測量 迅速測図「神奈川県相模國大住郡寺山村」に記入されている、棚入沢の上方から矢櫃峠西側上方を通過する道路が開設された時だったかもしれん。

明治の世になると江戸時代の丹沢山御林は官有林となったから、その際に岳ノ台山頂まで登る労を省くために、この道路が札掛へ至る官道として建設された可能性もある。
この道路は、江戸時代以前の山道の付け方とは違っているように見えるのだ。
しかし明治15年迅速測図、および明治16年測量・同28年発行「大山町」図に記入された道路記号以外には、何の資料もない。
諸戸林業による矢櫃峠道開設時であれば、おそらく明治30-31年であろう。

ともかく、確かなことは何一つ分らない。
ヤビツは急斜面に囲まれた窪地をいう地形語、あるいは、アイヌ語のヤベツ・ヤビツ
(谷と谷に挟まれた土地)が語源とする説などを併記するものもあって、矢櫃発見説に対する信用度の低さを白状しているようにも思える。

ヤチ(湿地)などの〈ヤ〉は水を意味し、武蔵・相模にはヤツ(小さな谷)・ヤト(低湿地)などの地形語が多く見られる。ヤビツは櫃のような形で底に水が流れている、あるいは湿地になっている地形をいうのであろう。

また、発掘されたはずの矢櫃がその後どうなったのか、今でもどこかに保存されているのかなどについての手がかりも、ナ~ンニモなかった。。
調べえた情報は、そのすべてが伝聞によるものであり、オリジナル情報にたどり着くことができなかった。あるいは、そもそもオリジナル情報などないのかも。

矢箱持「雑兵物語」作者不詳 延宝・天和ごろ(1673‐84)成立 弘化3年(1846)刊 (国立国会図書館) より
矢箱を背負う雑兵
 
中には矢櫃と矢筒を混同している記述もあったので、一応解説しておく。
矢櫃は矢を収納して運搬するための箱(櫃は蓋付きの箱を意味する)で矢箱とも言い、蓋つきのものもある。
矢筒は矢を射る際に素早く矢を取り出せるように(背中に)装着する軽量な筒状の携帯容器。

発見・発掘されたとされる矢櫃について考えてみる。
矢櫃は峠道の改修時に発見されたといい、その矢櫃は永禄12年10月(1569年11月)の北条・武田合戦の遺物、ということにされている(らしい)。

それまで土中に埋まっていた遺物が発掘されるほどの(当時としては)大規模な改修工事であったことになるから、中世以来の山道の手直し程度ではなかったのであろう。
となると可能性が一番高いのは、明治30-31年(1897-1898)と推定される諸戸林業による道路工事であり、
明治39年測図 2万分の1「大山」には、すでに「ヤビツ峠」と記入がある。

大正2年(1913)8月、西田原から峠を越えて札掛に入った武田久吉氏は、その時の記録「丹沢山」(山岳第8年3号)の本文で「諸戸の切通し」、末尾の「(附記)丹沢山及び塔ノ岳の登山者の為めに」でも「諸戸の切通しなる峠」と呼んでおり、「矢櫃峠」の名称や北条・武田合戦などについては何の言及もない。

次の「2. 春日神社」で述べることになるが、翌年の新聞に掲載された札掛訪問記に「今より四五年前(=明治42-44年ころか)」に発掘された武具と人骨について書かれている。
しかし北条・武田合戦の話は一切なく、「何処かの落武者」とされているだけである。
越えた峠も「高い芝山の絶頂」としているだけで、矢櫃はでてこない。

その前年に矢櫃峠を越えた武田久吉氏も合戦伝承に関して何も書いていない。
民俗学にも造詣の深い氏である、雇った「案内兼弁当持の人夫」からこのような話を聞いていれば書き込んだであろうから、この種の話を聞かなかったのではないか。

とすると、明治末期の測図に「ヤビツ峠」の名称が記されている(陸地測量部が地元の人から聞いたのか?)とはいえ、大正2年には矢櫃や合戦の話はまだ一般にまで広まっておらず、ごく限られた人々の間でだけ語られていたのかもしれない。
あるいは
合戦伝承自体がまだ生じていなかった可能性もあるようにも思える。

くだんの矢櫃の発見・発掘が諸戸林業による峠道開削・改修時のことと仮定すると、合戦から300年以上も経ってから発掘されたことになる。

すると、疑問が生じる。
土中に埋もれた木製の矢櫃が300年以上も経ってから掘り出されたとすれば、櫃(=箱)の形を保ったままだったとは考えられず、それが箱であったことが想像さえできないまでに腐蝕した木材の塊となり果てていたはずである。
とすると、一緒に鏃(やじり)も見つかったために、その腐り果てた木材群が矢櫃の残骸であると判断された、としか考えられない。
さらに云えば、その鏃が江戸時代以降ではなく北条・武田合戦時の物と判断しえた理由があったのだろうか。

となると、発掘された遺物が人々の口にのぼる場合、話題の中心になるのは潰れて朽ち果てた矢櫃ではなく、錆(さび)の塊とはなっても武器であった片鱗をわずかに残す鏃(やじり)の方であるはずだが、「矢峠」でも「鏃峠」でもなく「矢櫃峠」と呼ぶことになったのは実に不思議だ。

以上、話のすべてが伝聞と空想だけから成り立っている不可思議な伝承であって、不可解!としか言いようがない。

2023年5月25日 追記:
山北町の字(あざ)図に「ヤビツ」があることを知った。明治18年「皇国地誌 川村山北」 にも「沢 滝沢川 字ヤビツ」と記入されている。
ヤビツ(左)山北町字図「ヤビツ」
(右)字ヤビツは赤丸印あたりと思われる。 

滝沢川左岸に林道があり、字ヤビツはその対岸になる。山北町の字図はかなり大雑把なため位置がはっきりとはわからないが、地形図に記した赤丸印の谷あたりが字「ヤビツ」のようである。
現地にも行ってみたが、林道から見る字ヤビツとおぼしき対岸は、森におおわれた何の変哲もない山であった。

矢櫃峠から遠からぬ山北町に、急斜面に挾まれた凹地をさす地形語のヤビツ (矢櫃・谷櫃)が由来と思われる字「ヤビツ」があるとすると、矢櫃峠の「ヤビツ」も地形由来と考えるのが妥当であろう。

ヤビツ峠明治39年測図 1/20000「大山」

「ヤビツ峠」は明治39年測図「大山」に初めて現れる。
注目すべきは、表記が「矢櫃」ではなく「ヤビツ」であること。
明治39年「大山」図でカタカナが使われているのは「ヤビツ峠」だけである。
陸地測量部員が地元住民から「ヤビツ」を聞いたのであろう。
それが北条・武田合戦の遺物であれば「矢櫃峠」と表記したはずだ。「ヤビツ峠」としたのは「ヤビツ」が地形語だったからではないかと思う。

調べてみたら、「矢櫃」のつく地名は全国にかなりあり、住所として使われている「矢櫃」もいくつかある。「矢櫃」名称の多くは地形からきているようだ。
山口県岩国市・柳井市境には矢櫃峠(262m)もある。「矢櫃」地名の意外な多さに、ちょっとビックリ。

推測では、まず陸地測量部が(勝手に)「ヤビツ峠」と命名し、(次項で述べる)春日神社から鎧兜が発掘されると、(かなり後になって)ヤビツは矢櫃で、北条・武田合戦の遺物だ、という物語が醸成されていったのではないだろうか。

合戦話の成立は、そんなに古くはないんじゃないかな。戦前の文献には北条・武田合戦話が見当たらないようなのだ。

山北町字ヤビツとはなんの関係もないが、手前にある滝不動を紹介する。
元亀2年(1571)、雨乞の修験者のために建てられた庵が起源。本堂は寛政5年(1793)再建。堂の裏に不動瀧がある。

「新編相模國風土記稿 川村向原 不動瀧と唱ふ (略) 下流の水中に突出せし巨岩あり (略) 石頭に不動の石像を置、村持」
「不動の石像」(宝暦3年)は昭和12年に水害で流失埋没、翌年発見され下流に安置された。

滝不動(左)滝不動。入口に鳥居があり、神仏習合の姿を残す。
(右)「不動の石像」下流の堰堤上に安置されている。

2. 春日神社

カンスコロバシ沢出合にあったとされる春日神社の境内から武具・人骨が発掘され、それは北条・武田合戦の際の戦死者を埋葬したもの、とされている。
この話は新聞記事に由来するようである。
春日神社は現存せず、あった場所も不明。

記事は大正3年(1914)2月3日から「丹沢山の住民 現代式の太古桃源村 鶏犬に和す伊吾の声」と題して4回にわたって「横浜貿易新報」に掲載されたもので、「秦野市史叢書 新聞記事」に収録されている。「伊吾の声」は書物を読む(=文化の)声、という意味である。

19ヶ月前から秦野に滞在していた、山にはとんと縁のない「市川生」と称する筆者が、真冬の「札懸村(=札掛)」を訪問した記録で、当時の中津川源流域における山の生活が知れて貴重である。

「市川」君と友人は同年1月25日午前7時に秦野を出発、「正午頃高い芝山の絶頂(=矢櫃峠)に達した。」「見渡す限りの銀世界」を「無我夢中で駆下り」ると「四角に積上げた石の上に火の用心の立札があ」り、「此山中に於て火を焚く可からず、喫煙に注意せらるべし丹沢諸戸事務所」と書いてある。「此処が丹沢の門戸口(入口)だなと合点参る。」
「此処から札掛迄廿丁」の滑りやすい霜解け道を「十八九の娘子達が太い椎の木を背負梯子で背負って、揃って遣って来た。」
「左方は地獄沢と言われる丈に慄然(ぞっ)とするほど底の知れない深い沢である。」「地獄沢」は藤熊川の誤り。「行く程に沢の傍に春日神社があった。境内に立っている古びた石碑は青苔蒸して銘読む可からずは残念至極、今より四五年前の事、此境内の片隅から鎧や兜や太刀や人骨が発掘されたそうである。昔何処かの落武者が此丹沢山へ逃込んで切腹したのであろうとの事。」それから「諸戸事務所へ立寄った。」

以上が諸戸殖林事務所までの記事の概要である。
神社境内で見つかった遺物を北条・武田合戦と関連付ける記述はないが、「何処かの落武者」が読者にそれを連想させたのだろうか。

発掘された「
鎧や兜や太刀や人骨」のその後の消息は不明。寺山か西田原の旧家にでも保存されているのだろうか。しかし、そのような話を聞いたことがない。
門戸口-諸戸山林事務所
ところで、この新聞記事に書かれた
「春日神社」の位置と、現在も流布している合戦伝承で語られる春日神社の位置が異なっているのだ。

記事では、門戸口から藤熊川右岸の道を「行く程に沢の傍に春日神社があった。」と述べた後に「諸戸事務所へ立寄った。」と書かれている。

記述の順番からして、春日神社を通り過ぎた後で諸戸事務所に立ち寄ったと読み取れるが、現在語られる話では、春日神社が諸戸事務所の先の、北側を流れるカンスコロバシ沢の出合にあったことになっている。
これでは新聞記事とは逆に、事務所に寄った後で春日神社を通り過ぎることになるはずだ。
どうして神社の位置が変わってしまったのか、謎である。
檜沢橋




檜沢と檜沢橋

新聞記事からは、神社があった「沢」は檜沢ではないかと推定される。

いずれにしろ、神社が門戸口-諸戸事務所の間にあったことだけは間違いあるまい。
神社跡?
檜沢右岸の平坦地。
物置小屋が建つこの平坦地が春日神社の跡地か?

春日神社について、もう少し考えてみる。
遺体と武具が埋められたのは遅くても江戸時代、北条・武田合戦時とすれば永禄12年。

現在であれば、神域である神社の境内に人を埋葬することは考えられない。
元来は神社ではなく仏教か修験道、あるいは山神祠に類する何らかの信仰対象があった場所を、明治初めの神仏分離時に春日神社に衣替えしたものか、それとも神仏習合時代には神社と併存していたそれらの施設を撤去して神社だけにしたのか、今となっては確かめようもない。

蓑毛大日堂境内に、天正19年(1591)に徳川家康から一石の朱印状を付された春日社があったが、現存しない。問題の春日神社は、大日堂の春日社と関わりがあったのだろうか。

発掘されたのが「今より四五年前の事(=明治42-44年頃?)」と、その時点ではごく最近の出来事といえるから、話の内容に大きな間違いはないのだろう。
もっとも「昔何処かの落武者が此丹沢山へ逃込んで切腹したのであろうとの事」という推測には同意しかねる。

甲冑をまとって戦った「昔」となれば戦国時代以前であり、兜もあったというから、発掘された主は武士である。
「切腹」とすれば甲冑は脱いで脇に置いてあったのだろうが、戦国時代は農民による〈落武者狩り〉が普通に行われた殺伐たる時代である。この地の農民からすれば敵である武士の高価な「
鎧や兜や太刀」は、見つかり次第たちどころに奪い取られたはずで、埋葬するとしても、身ぐるみはがされた亡骸だけであろう。

とすると、埋葬されていたのは敵ではなく、この地域に縁の深い武士である ― と推察されるが、いったいどういった人物なのだろうか。
久しぶりに地上に現れたこの人物が何者なのか、さっぱり分らんが、戦い破れて帰農し、やがて没したかつての主君(大藤氏か?)を偲んで、もとの臣下たちがこの地に密かに埋葬した、ってストーリーもあり得そうにも思える。

      [ 大 藤 氏 ]

田原城がいつ築城されたのかは不明。北条氏綱に仕えた相模国中郡(なかごおり)の郡代・大藤信基(金谷斎)の居城であった。
大藤氏の出自は甲斐武田氏旧臣とも根来(ねごろ)衆ともいわれるが、詳細不明。
「大藤」の読み方が「おおふじ」なのか「だいとう」なのかも不明。
大藤信基が北条氏に鉄砲を伝えたともいわれる。出家して「栄永」と名乗る。天文21年(1552)歿。

信基の没後、嫡男・大藤景長も続けて死去したらしい。「甲陽軍鑑」では、武田信玄が大藤家の軍略を恐れて暗殺したとされるが、定かではない。

天文21年(1552)、北条氏康は後を末子・秀信(与七・式部少輔政信)に継席させた。秀信はのちに「政」の字を氏政より授けられて大藤政信と改名、足軽衆を率いた。

北波多野が大藤氏の本貫地であったらしく、永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」には小田原衆として大藤源七郎(知行地 中郡坂間内)、諸足軽衆として大藤式部丞、半役被仰付衆に大藤新兵衛(寺山 奈古木 横野)が記され、足軽衆「大藤衆六十七人分」とある。坂間郷は現在の平塚市内。

永禄4年(1561) 3月14日「大槻」、3月22日「曽我山」「ぬた(怒田)山」の上杉謙信軍との合戦で、大藤式部丞の手勢(遊撃隊)が活躍し、大いに賞される(3月24日付北条氏書状)。

天正13年(1585)11月9日の文書から、小田原城検使・大藤長門守の名が現われる。

文書の宛所が天正12年(1584)までは大藤式部丞信興、天正17年(1589)から大藤与七(式部少輔政信)になっており、この間に大藤家当主の代替りがあったことを示す。

天正17(1589)年12月、大藤政信は伊豆山へ出陣。次いで配下240人の侍・足軽衆のうち200人は韮山城の籠城衆に、20人が小田原城守備、20人は中郡の税地の守りを命じられる。翌年1月には韮山城の普請を命じられた。

天正18年の「北條家人數付」(端裏書)に「覚 大藤長門守 相州 田原の城 五十騎」と記されており、田原城主が「大藤長門守」で50騎を有していたことがわかる。
大藤長門守直昌は津久井城方面で秀吉軍と対峙したらしい。

大藤政信は駿河国泉頭(いずみがしら)城(駿東郡清水町)の守備を命じられ、秀吉軍の前進にともなって泉頭城から韮山城に退却。織田信雄(のぶかつ)を総大将とする大軍に包囲された韮山城は約3ヶ月の籠城戦の後に開城、政信は城主・北条氏規に従って小田原に戻ったようである。

北条氏の降伏直前、大藤式部少輔政信(与七)は主君の北条氏直から主従関係を解かれ、朱印状で「今度韮山之地ニ籠城走廻候(略)自今以後何方ニ成共可有之儀、不可有相違者也(略) (天正18年)七月十七日 大藤与七殿」
以後いずれの家中に奉公するも自由であると申し渡された。
一介の牢人となった
後、いきさつは分らぬが、越前国福井藩主結城秀康の家中侍となったそうで、「大藤金十郎、大藤小太郎」の記録が残る。

後のことだが、「駿府記」によると元和元年末(1615年末-16年初)、徳川家康が廃城となった泉頭城址に隠居所を建設することに決めたが、翌年早々には駿府に変更したそうである。それから間もない4月に家康は歿してしまった。

香雲寺

西田原・香雲寺。大藤氏菩提寺。
永禄7年(1564)、大藤式部少輔政信が菩提寺である羽根村の大珠山春窓院を西田原村に移し改号したとされる。
「式部少輔」は百官名(武将が箔付けのために勝手に自称する官位官職)であろう。
香雲寺








寛永6年(1629)鋳造の鐘には「先領主當寺檀那 大藤史部侍郎(ふひとべじろう)秀信公」と記されている。
「侍郎」は少輔(しょう/しょうゆう/しょうふ)の唐名。
史部侍郎」も百官名であろう。

「新編相模国風土記稿 西田原村 香雲寺 大珠山春窓院ト號ス。曹洞宗(略)天文三年(1534)大藤氏寺領ヲ寄附ス(略)永禄中(略)大藤式部少輔政信(略)當村ニ移シテ 香雲寺ト改號ス。(略)位牌ハ(略)大藤式部少輔政信大藤小太郎照房ト書セリ。又大藤小太郎某。當寺修理ノ事ヲ沙汰セシ文書アリ。」

大藤氏墓








本堂裏、大藤氏のものといわれる墓石。
右側が大藤政信の墓石とされている。
左側は不明。


3. 門戸口の石垣土手

視図 門戸口
迅速測図) 神奈川縣相模國大住郡寺山村
測量年:明治15年12月
視図名称:寺山村字門戸口 

この図に見える石垣土手は
  矢櫃峠周辺の道 (4) で述べたように、文化年間の遺構である可能性が高いと思う。

アーネス・トサトウは「
丹沢でアトキンソンが遭難」(「日本旅行日記 2」)門戸口という名称を記しておらず、分岐から「菩提という村」への道に行かないように、と注意を促しているだけである。

大正2年に門戸口を通過した武田久吉氏は「丹沢山」で「(前略)門戸口と云ふ所に出る、甞ては門があつたそうだが、今は只家一軒あるのみである。」(「山岳」第8年第3号)と述べ、案内人から「嘗ては門があった」という話を聞いたようであるが、土手の遺構にはふれていない。

大正3年2月、「横浜貿易新報」(新聞)に「丹沢山の住民」と題する連載を掲載した「市川生」は「四角に積上げた石の上に火の用心の立札がある「此山中に於て火を焚く可からず、喫煙に注意せらるべし丹沢諸戸事務所」と書いてある。ハハア此処が丹沢の門戸口(入口)だなと合点参る。」と書いている。
「四角に積上げた石」は石垣土手だったのだろう。とすれば、道路を挟む関門のような形状から「此処が丹沢の門戸口(入口)だなと合点参」ったのもうなずける。
大正時代に入っても土手はまだ残っていた、ということか。
前年に通過した武田久吉氏は石垣について述べていないが、「四角に積上げた石」はあったはずだ。とすれば、「
嘗ては門があった」と思うのも自然である。

      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (5)

     北条・武田合戦伝承  (1)

小田原北条氏時代、矢櫃峠周辺で北条・武田両軍勢による合戦が(なんども)行われた、という云い伝えがある。
門戸口には北条氏が築いた砦、あるいは番所があった、という説もある。
ただし、このような話を裏付ける資料は皆無である。

以下、門戸口-矢櫃峠周辺で行われたと伝わる北条・武田合戦について検証する。

永禄12(1569)年10月1日に小田原を包囲した武田信玄軍は、軍勢を飯泉に召集して、同月4日から5日にかけての夜間に撤退、甲州へ戻るため、平塚を経て三増峠に向った。

三増峠南麓に着陣して甲州軍を待ち受けていた後詰めの北条軍と武田軍が激突したのが三増峠の戦い(「甲陽軍鑑」では永禄12年10月8日=1569年11月26日、「北條五代記」では永禄12年10月6日=1569年11月24日)であり、伝承では矢櫃峠周辺でも同時に両軍の戦闘が行われた、とされる。

信玄軍がわずか4日で包囲を解いて小田原から撤退したのは、背後からの襲撃を恐れたためと食糧不足による、ともいわれるが、それよりは戦略的な判断だったように思われる。

「小田原北条記」によると、鎌倉・鶴岡八幡宮に参詣するという前日に流された偽情報にひっかかった北条勢は追撃せず、そのため甲州軍はたやすく退却できたそうだ。

 

背後からの襲撃とはゲリラ攻撃であり、食糧不足は、小田原周辺での食料調達(強奪)がうまくいかなかった上に、小荷駄隊(=輜重部隊)が襲われて食糧が強奪されたため発生した。どちらも北条勢の「伏兵」による攻撃であり、甲州勢にかなりの打撃を与えたことは確かだろう。

 

「小田原北条記」には永禄4(1561)3月の上杉謙信による小田原攻めの際、伏兵が謙信軍の小荷駄を奪ったり、夜襲をかけて田島・曾我山(酒匂川左岸)あたりで謙信勢の小屋を焼き払ったことが述べられており、伏兵による攻撃は相当な打撃を与えたようだ。

「於曽我山敵数多討捕候(以下略) (永禄四年か) 三月廿四日 氏康 大藤式部丞(信興)殿」という北条氏康書状も残っており、足軽衆大将だった「大藤式部丞」が、伏兵を率いて攻撃したようである。攻撃には忍び集団の関与も考えられる。

「大藤(だいとう/おおふじ)」氏については、後に述べる。

 
戦国時代の合戦は、かつての一騎打ち戦から集団白兵戦に移行していたため、北条氏に限らず、どこでも兵員は常に不足していたから、最前線で戦う兵士(足軽)として農民を召集するようになっており、在地的・民衆的な戦力にかなりの部分を頼らざるを得なかった。

永禄11年の北条氏政書状に見える「無足人」も民間人の傭兵だった。貫高によって編成される給人(家臣)の兵力だけでは、とうてい足りなかったのだ。

戦国時代の軍は給人(=武士)-奉公人-陣夫百姓で構成され、そのうち給人数は多くても全体の2割程度であったろうと推定される。
給人以外の奉公人・陣夫は雑兵(ぞうひょう)であり、兵員不足とは雑兵の不足のことでもあった。

       
      [ 甲州軍の経路 ] 

武田軍

小田原包囲を解いた武田軍は海沿いを進んで平塚から北上、厚木の北で中津川を渡り、三増峠南麓に達したと想定される。

矢櫃峠でも合戦があったとすると、武田勢の一部が本隊から分れて大磯丘陵を北に横切り、秦野盆地から北の丹沢に登って行ったことになる。

信玄の包囲軍は105日早朝までには撤退が完了していた。
経路にもよるが、飯泉あたりから矢櫃峠付近までは20kmに満たない
から同日中には到着したはずで、合戦があったとすれば105日に行われた、ということになる。 


先に述べたように、武田軍の撤退は、北条勢の伏兵による攻撃も要因の一つであったと思われ、散々な目にも合ったようだ。本隊でさえ、伏兵の襲撃はかなり恐ろしいものだったのだ。

まして本隊から分れて、一部の小軍勢だけで伏兵が跋扈する敵領内(=小田原衆支配地域)を移動するのは、それだけで相当な危険をともなう。

ゲリラ攻撃におびえながらも小部隊で移動したとなると、そうせざるを得なかった何らかの特別な理由があったはずだ。

しかも大磯丘陵・丹沢の山々を、艱難辛苦を耐え忍んで無事に越えたとしても、ようやく降り着いたその先は、まだ北条氏支配地域=敵領地内の煤ケ谷村なのである。

当時、煤ケ谷は北条氏の木材供給拠点として重要な場所であったし、すぐ南には日向山、東の山を越えると八菅山があり、どちらも北条勢の一翼をになう僧兵を有していた。敵勢出現の報が入れば、武装した山伏集団がすぐさま駆け付けたことであろう。

甲州軍本隊は偽情報で北条勢をだまして時間を稼ぎ、悠々と撤退しているから、少数の家臣を陽動作戦のために危険にさらす必要性があったようには思えない。

小部隊が、わざわざ危険極まりない敵の領内を撤退ルートに選ばざるを得ない理由があったのか、はなはだ疑問だ。

 

次に、門戸口への山道について考える。
山道といっても人が歩けるだけの道ではなく、荷を満載した駄馬が通行できる道でなければならない。

「時代考証 日本合戦図典」 笹間良彦 1997 雄山閣出版「時代考証 日本合戦図典」笹間良彦 1997 雄山閣出版 より転載

騎馬の武士(給人)。鎧姿の3名は被官(奉公人)、小旗持は陣夫(足軽)。
徒歩の4名が雑兵(ぞうひょう)。

戦国時代の武士(家臣)は必ず騎馬で参陣した。甲冑をまとって馬を駆ることが、武士としてのステータスだった。

一人の武士に数人(貫高による)の被官(奉公人)が徒歩で従う(時には騎馬のこともあったらしい)。武士のための予備の馬(複数のこともあり)を連れて行くことも普通にあったようだ。

馬取「雑兵物語」
延宝・天和期(1673‐84)頃成立 弘化3年(1846)刊 作者不詳 (国立国会図書館)より 馬取


さらに食糧・装備品の輸送にあたる小荷駄隊が従う。腹が減っては戦が出来ぬし、野営が続くから生活道具も必要なのである。
当然ながら駄馬1頭ごとに一人の馬取(陣夫)を要する。甲州まで戻るとなると、数頭(以上)の駄馬を要したであろう。

被官と、主に村々から徴発された陣夫百姓(のうち戦闘に加わる者=足軽)は雑兵(低身分の兵卒)とされた。

武士が10人であれば、総員100人前後と数十頭の馬で構成される軍勢となり、一列縦隊なら数百メートルにも及ぶ隊列になるから、遠くからでも甲州軍であることは容易に識別できたであろう。

 

先に大藤氏に率いられた伏兵について述べたが、兵農一如を方針とする北条氏領では、農民(足軽)だけでも伏兵となって攻撃をしかけたようである。

酒匂川左岸から秦野盆地に入るためには、どこかで大磯丘陵を越えなければならない。
丘陵の山道は騎馬戦には不利であり、伏兵の攻撃にとっては好都合だっただろう。道端の立木を2・3本も切り倒して道をふさぐだけで、馬は進めなくなってしまうのだ。

かような事情を考慮すると、少人数からなる武田軍の分隊が、まずは丹沢の登り口まで無事に到達するのさえ相当に厳しいように思える。

 

万難を排して(ほうほうの体で)登り口に達した、としてみよう。

当時、駄馬が通行可能な門戸口ヘの道は、田原と蓑毛を登り口とする2ルートだったと思われる。

 

田原には大藤氏が城主の田原城があった。城とはいっても、城館だったのであろう。

「小田原衆所領役帳」(永禄2=1559成立)には「諸足軽衆」大将として「大藤式部丞」が最初に記されており、知行地は「中郡北波多野(=菩提・羽根・横野・戸川あたり)」「此外()寺山・なこの木(=名古木)・横野 新兵衛ニ被下」、別に「大藤新兵衛 中郡波多野 寺山 ()奈古木(=名古木) ()横野」とされ、岳ノ台への登り口あたり一帯が大藤氏の領地であったことがかわる。


永禄4年の上杉謙信小田原攻めの際、謙信軍の分隊が秦野盆地の近くを通過した時、大藤氏勢が大槻(秦野盆地南東端)で迎撃して敵六人を討ち捕ったという。
謙信軍の分隊は伊勢原から大槻を経て葛川ぞいに相模灘へ進軍中だったのであろう。
「今日大槻合戦に於て則ち敵六人を討捕り候(以下略) 永禄四年三月十四日 (北条氏政 花押) 大藤式部丞殿」
大藤氏勢の軍事力の強さがみてとれる。

永禄11年(1568)、武田信玄に対抗する今川氏支援のため駿河にあった大藤式部少輔政信は、伏兵を出して塩荷を攻撃し、甲州への塩の道を断った。

「去る(6月)廿一日夜伏兵を出し塩荷通用の者数多討捕るの由 (略) 六月廿五日 氏真(花押) 大藤式部少輔殿 」


「所領役帳」では「大藤衆六十七人分」であったが、永禄12年7月、駿河出兵への論功行賞によって大藤式部丞には駿河に1500貫文の地が給され、勢力が拡大した。
武田軍が小田原を包囲した当時、永禄121011日付け北条家朱印状では着到員数(=参陣動員数)193人と激増しており、小田原衆の中でも軍事的に重要な地位にあったことがわかる。


永禄12年(1569)と推定される9月17日付大藤氏あて氏政書状には、小田原に迫る信玄軍が中筋(=中郡。淘綾・愛甲・大住各郡を合せた呼称)に侵入してきたら「其地」を死守せよ、小田原に逃げ込むな、といった内容が書かれている。


信玄軍は相模川沿いに南下、平塚から海沿いを西に進軍した(帰路と同じ)から、当主は田原から家臣・足軽を引き連れて小田原に駆け付けたかもしれん。

城主が不在だったとすれば、田原城(館)では少数の家臣(=武士)と戦闘的な在地農民(=足軽)が留守を守っていたに相違あるまい。


信玄軍が出現すれば田原で合戦になったか、あるいは騎馬戦がほぼ不可能な山中の方がゲリラ攻撃には適しているので、山道に入るのを待って、すぐさま攻撃したろうと思う。

自陣に近い方が攻撃に有利なのはいうまでもない。敵が山を越えて藤熊川側に入るまで待つ必要はないし、待たない方が北条勢には有利なのである。

砦、あるいは番所のようなものを造成するとしても、遠すぎる距離と守りにくい地形から考えて、門戸口に設置するとは、とても思えない。
どう考えても岳ノ台・八町山の山頂になるはずだが、そのどちらにもそれらしき遺構はない。

こうしてみると、藤熊川源流域で北条・武田両軍の合戦が行われたとは、とうてい思えないのである。

「小田原衆 南条右京亮」の知行地であった蓑毛(「所領役帳」)は、いうまでもなく大山寺の西の拠点である。北条氏が大山を軍事的に重視し支援していたことはよく知られている。

そこに敵軍がやって来るとなれば、大山衆徒(山伏)が軍事力をもって対抗するのは、火を見るよりも明らかだ。

しかも前述の田原の近くを通らないと、蓑毛には到達できない。


後の事になるが、武田軍の駿河・深沢城への来攻に際して、大山寺に戦勝の祈願を依頼するよう命ずる元亀二年(1571)「未正月十三日」付け書状が「南条四郎左衛門尉」に出されている。


日向山(日向薬師)、八菅山七社権現などの山伏も、北条氏傘下で諜報活動や戦闘にかかわっていた。

三増峠の合戦の後、武田軍本隊は後に甲州街道となる道筋を帰路にとったと思われるが、道志川沿いの道志道を帰路とした分隊があった。郡内・小山田氏の軍勢だったのだろう。
その甲州軍勢を青根(駒入原)で
日向薬師の山伏(100人くらいだったともいわれる)が襲撃して戦闘になり、
勝快法印を始め多くの山伏が討死したと伝わる。戦死した法印(山伏)の塚とされる「法印の首塚」があり、青根・諏訪神社には山伏を祀った八幡宮がある。

また日向には、討死した大泉坊「勝快法印」が青根・八幡宮にまつられたという伝承があるという。


後の天正18年(1590)、豊臣秀吉による小田原攻めの際には田原城主・大藤長門守直昌が50騎で城を守り、津久井方面で活動したと伝わる。

天正18年6月2日付け「御検使 大長」・「内藤」氏印判状が残っている。
秀吉軍による小田原包囲中のこの時期、
津久井城から来た足軽が治安の乱れに乗じて「今和泉之村」(秦野盆地南東部の今泉村)で麦を略奪したといい、かような不当行為を禁止する、という内容の書状である。「御検使 大長」は田原城主・大藤長門守直昌、「内藤」は津久井城主・内藤綱秀と推定される。

津久井城は6月25日、小田原は7月5日に開城した。


秀吉による小田原制圧後になるが、田原の番匠(大工)が一人、小田原城と総構の修築・補強に徴発されたそうである。田原城の構築に関わった人物だったのであろうか。


      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (4)


      
岳ノ台の道 (2)

岳ノ台 2 
1.  迅速測図 / 明治16年測量図の道 a

明治16年
明治16年測量 明治28年発行 1/20000「大山町」


矢櫃峠道(諸戸道)開設前の地形図。

矢櫃峠の西上を通り、藤熊川に降りて行く①から⑤の道が開設された時期・目的などは不明。

矢櫃峠道が開削されたのは明治30-31年と推定される。


矢櫃峠付近矢櫃峠付近の道路位置推定:
a) 明治16年測量図「大山町」の道
b) 矢櫃峠道(諸戸道)

a の道のうち、
は現・岳ノ台への登山道。
現在の登山道のこの部分は、古道を利用したのではないだろうか。

B は登山道沿いの柵からゲートを通って谷へ降りる道。

1
① 矢櫃峠から北に降りると平坦な広い谷で、倉庫がある。
武田氏一行は、諸戸林業が開削した右岸の道(現在は車道)を降りたのであろう。
迅速測図 / 明治16年測図に記載の道は、倉庫の下方から左岸の山腹をトラバースしていく。

2 - 3
② すぐ下から旧道が始まる。わずかな距離だが、道跡は明瞭に残っている。

5 - 6(左)小尾根をまわり込み、西側の谷へ。
(右) ③ 前方に崩落した谷。崩れた谷の縁で道跡が唐突に途絶える。明治16年測量図は迅速図記載の道記号と違い、前方の沢を対岸に渡って左岸を降りる。

8 - 9(左)手前から谷底に降りる。谷底は荒れ果てている。
(右)左岸側に植樹してあり、柵に沿って道(っぽいもの)がある。旧道跡なのか作業道跡なのか、わからん。

10 - 11(左)④ 荒れ果てた沢を降りて行くと、前方に県道の土手が立ちはだかる。
(右)県道を越え、下の沢を降りる。崩落が激しく、道跡はまったくない。上方に、県道が要塞のように聳える。

⑤(左)⑤ ヤビツ峠からの沢(八町山道)との合流点。出合の左岸側に道跡がわずかにある。
(右)藤熊川に沿って門戸口へ下る。 
(大正2年8月)「左側の細い谷に水晶の様にすき通る水が流れて居る。(略)此の流れについて下って行くこと二十分許りで、門戸口と云ふ所に出る、」(「丹沢山」山岳第8年第3号 武田久吉)

2. 「元禄二年(1689)  東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」の道

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⑥ 八町山道の対岸に残る道跡。
なんでここにも道跡があるんだろ、と不思議に思ってたが、絵図を見て合点がいった。
道が続いていたはずの上方も840m峰まで探ってみたが、何の痕跡も見いだせなかった。


 3.  迅速測図 / 明治16年測量図の道 b   ( 岳ノ台北東尾根 )

14




⑦ 一ヶ所だけ道跡が残っていたが、そこ以外は、ひたすらヤブ。


この道が札掛に至る江戸時代の主要道であった可能性はなさそうだ。

 4.  岳ノ台北尾根 

15




⑧ 登山道との分岐から尾根を北へ降りる。

県道までの間、踏み跡は続いているものの、古道らしき面影はまったくない。

16




⑨ 県道から門戸口への降り口。

門戸口までしっかりした道が続いている。
迅速測図 / 明治16年測量図には、この尾根に道記号の記入がない。

17

門戸口に降り立つ。

広がる平坦地は江戸時代の入植開拓地跡。

(大正2年8月)門戸口には「嘗(かつ)ては門があったそうだが、今は只家一軒あるのみである。」(「丹沢山」山岳第8年3号 武田久吉)


      [ 門戸口 ]

武田久吉氏は、門戸口に「嘗ては門があった」という話を聞いたようだ。
視図 門戸口迅速測図) 神奈川縣相模國大住郡寺山村
測量年:明治15年12月
視図名称:寺山村字門戸口

この図では、道路を挟んで建つ2軒の家屋の手前の道の両側に石垣土手が見える。
両土手の間の道路に門が設けられていたと思われ、元来はこれが「門戸口」だったのではないだろうか。
周辺の山々にほとんど木が生えておらず、遠くの稜線に数本の立木が見えるだけなのにも気づく。
左側の土手は沢縁まで達しており、右側の土手の右端は山裾に接し、上に標柱のような物が立っている。その後に、家屋の破風が見える。
明治15年にはまだ土手が残っていたのだ。


門戸口
同じ場所の現在の様子。

視図と同じく、下端がヤビツ峠からの沢の右岸。
向う岸を丹沢(=札掛)への道が通り、現在の橋の先に石垣土手があった。
現在の位置に当時は橋がなかった。

視図の左の家屋は、その向い側の建物が半ば山蔭になっているから、写真の建物(きまぐれ喫茶)より少し奥側(現・県道あたり)にあったように思える。

文化3年(1806)から地獄沢出合に幕府の炭会所が置かれたと推定され、その運送に関わる番所のような施設が門戸口に置かれていた可能性が高いように思う。
その施設の関門だったのではなかろうか。

文化13年 (1816) 、丹沢御運上野入会16ヵ村が、炭材を伐採して「一円萱野ニ相成」った地の「新田開発之義」に合意した場所が「大野平」と考えられる。

史料上、「字門戸口」の初出は文化13年と思われる。文化年間に炭会所に関連する関のようなものが設置されたと仮定すると、「字門戸口」の出現と時間的にも符合する。
上記した「新田開発」を契機として本来の「門戸口」だけでなく、上流側の開拓予定地=「大野平」をも含めて一帯を「字門戸口」と呼ぶようになったのではないだろうか。

実際に入植が始ったのは文政元年(1818) からで、「丹沢新開場」で農家10軒が椎茸・ワサビ・三椏 (ミツマタ) を生産した。
門戸口の開拓については アーネスト・サトウが歩いた道 蓑毛から八町山 (八町ノ台) へ (1) で述べたので参照してくだされ。

江戸時代後期-末期の作と思われる日向修験・常蓮坊「 峯中記略扣(ひかえ) 」に「丹沢問答口江出、山王権現札納」とあり、「問答口(=門戸口)」に「山王権現」があったことが読み取れる。

「 峯中記略扣」の成立年代は不明だが、文化13年、あるいはそれより少し前に「字門戸口」の名称が使われ始めたと想定し、「門戸口」に「問答口」の字を当てたとすれば、「 峯中記略扣」の成立も文化13年頃より以降、ということになる。あくまで仮定の上の仮定ですけど。

文政元年以降は門戸口に集落があったから、「山王権現」が存続していたのなら、集落の農民も拝んでいたのだろうか。

 [アーネスト・サトウが通った道 ]

明治6年に蓑毛から八町山道経由で札掛に向ったE.サトウの記録「丹沢でアトキンソンが遭難」(庄田元男訳「日本旅行日記 2」東洋文庫)に門戸口の名称はでてこないが、藤熊川源頭から門戸口までを引用する。

「(八町山から現・ヤビツ峠に降りて)川の右岸に沿って山道をくだる。最初の険しい部分をおりきったところで田原村から続いている一本の道とぶつかる。現在牛馬の通れる丹沢へ向かう道はこれしかない。つい足の向かいやすい道を選んでしまって川を更に下方へ渡らないように気を付けなければならない。その道を行くと菩提という村を経由して丹沢の尊仏に出てしまう。横野、戸川、堀は人目につかない方の道に面してある。」

この個所に限らないが、記述される場所が変っても改行されず、あたかも前文と同じ場所の記述であるかのように続くことが多いため、解読には注意を要する。
また、この引用部分だけでは文意の解釈が困難であるため、「A handbook for travellers in central & northern japan 」(Murray社 1884年 第2版)  (邦訳「明治日本旅行案内」平凡社)から同じ場所の記述を参照しながら読み解いていく。

明治日本旅行案内
「A handbook for travellers in central & northern japan 」(以下、「案内」と略す) p.86「Route 4.-The Circuit of Oyama」から  (= )内は拙注

「 (前略) この山(=八町ノ台)の背後が、宮ケ瀬を経て厚木に流れ降りる川(=藤熊川-布川-中津川)の源である。急な下りを数分で、貧相な丹沢集落(=札掛)へ続く谷底の小径となる。両側の急峻な山腹にはカヤ(藁屋根に使う丈の高い草)と広葉の笹が密生している。谷の源頭にほど近い所で、現在のところ駄馬(荷馬)の通行が可能な唯一の道である田原村からの道が、蓑毛から(=八町ノ台から)の道に合流する。

道をさらに進むと、左に沢を渡って菩提、横野、戸川、堀の村々を通り、丹沢山の上のお堂である尊仏に至る道が分れる。ここでは右の、あんまり良くない方の道(=札掛への道)をとらなくてはならない。」(以上、拙訳)

「案内」の原文は「日記」と同じく最後まで文が連続しているが、ここでは2節に分けた。
前節は八町山を降りて田原からの道と合流する地点まで、後節は沢の下流の門戸口で左に分れるトビウツリ-菩提への道を述べ、札掛への道の分岐点で間違えないよう注意をうながしている。
この記述内容から、難解な「日本旅行日記」の内容が「これしかない。」までと「つい足の向かいやすい道」以下とに分れることも判明する。
八町山道明治16年測量 1/20000「大山町」

a. 最初から「これしかない。」 / 「合流する」まで:
「日記    (現・ヤビツ峠から) 川の右岸に沿って山道をくだる。最初の険しい部分をおりきったところで田原村から続いている一本の道とぶつかる。現在牛馬の通れる丹沢へ向かう道はこれしかない。」
「案内    谷の源頭にほど近い所で、現在のところ駄馬の通行が可能な唯一の道である田原村からの道が、蓑毛からの道に合流する。」
Zilxq




田原からの道と八町山から(蓑毛から)の道が合流する地点(上図の赤丸印)。

明治16年測量図の道(=「田原村からの道」)が、左岸側にわずかに残っている。


b. 「日記 丹沢の尊仏に出てしまう」 / 「案内 尊仏に至る道が分れる」まで:     
      
明治16年 大山町明治16年測量 1/20000「大山町」 

八町山-札掛の道が実線、トビウツリ-菩提への道が破線で表示され、 迅速測図視図に描かれている、道を挟んだ2軒の家屋記号が記されている。
家屋の上流側で、沢を対岸に渡るトビウツリ-菩提への道が分れる。
明治6年には八町山道(=蓑毛への道)と菩提への道が、ともに「牛馬の通れ」ない道であり、「田原村からの道」が「駄馬の通行が可能な唯一の道」であった。

大野平
門戸口(大野平):西を見る。2段の平坦地になっている。

「日記  川を更に下方へ渡らないよう」は解りにくい表現だが、札掛への道と分れて左へ川を渡り、「更に下方へ」は下段の平地(写真右下)に降りて行かないように、という意味か?「その道」はトビウツリ(菩提峠)を越えて菩提村に降りる道。

「案内  左に沢を渡って・・・ 尊仏に至る道が分れる。/ 右の、あんまり良くない方の道をとらなくてはならない。」
門戸口 菩提左:明治21年測量「塔嶽」     右:明治16年測量「大山町

c.「日記  その道を行くと菩提という村を経由して丹沢の尊仏に出てしまう。」
 「案内  菩提、横野、戸川、堀の村々を通り、丹沢山の上のお堂である尊仏に至る道」

日記「丹沢の尊仏」 / 案内「丹沢山の上のお堂である尊仏」は塔ノ岳の尊仏岩(拘留孫仏)のことである。
「案内」では temple (お堂)としているが拘留孫仏と呼ばれた岩塔で、関東大震災(か、翌年の丹沢地震)時に上部が崩落した。

4bXf6明治29年修正 1/50000 「松田惣領」

「日記」の「人目につかない方の道」の意味がよく分らないが、脇道ということだろうか。

現在のバス停「横野入口」から県道705号線を戸川-堀山下-堀川に達する道(の旧道)を指しているようである。

「案内」の「尊仏に至る道」は堀山下で北に曲り、堀山下字大倉から塔ノ岳に登るルートである。
   
      ( 続 く )
 

 矢櫃峠周辺の道 (3)

     [ 矢櫃峠道 ]  

諸戸山林道⑤ までは 矢櫃峠周辺の道 (2) を参照してくだされ。

様々な伝説に彩られた矢櫃峠道ではあるが、⑤地点から先の峠道が諸戸清六によって開かれたのは早くても明治29年、おそらくは明治30-31年であろうと推定される。

米穀業で財を成し、田畑・山林を購入・経営して日本一の大地主と呼ばれるようになった三重県桑名の豪商・諸戸清六が丹沢寺山の山林を買収したのは、明治23年12月に諸戸家に宿泊した御料局長の話がきっかけだったそうである。
明治29年に萱場や林野938haを買受け、明治31-42年にかけて623haの植林を行った。
初期には杉・檜の苗木を三重県で生産し、船で大磯まで運送、駄馬で矢櫃峠を越えて現地に搬入した。

現在、丹沢寺山の諸戸山林事務所は、桑名市に本社を置く諸戸林業(株)の神奈川支店となっている。

6







⑥ 尾根から右の峠道へ。


7-1





⑦ 間もなく大正時代の馬頭観音碑がある。

 
馬頭観音












左面「西田原 和田伴二郎」
正面「馬頭観世音」
右面「大正四年九月十二日」 
8






⑧ 8号鉄塔の下。
右下に崩れかけた石積擁壁が見える。
少し先から棚入沢までの区間は地盤が固く、道路跡が良好に残っている。

9


⑨ 矢櫃峠道。けっこう道幅が広かったんだ。
麓から峠まで、この幅で道が続いていたのではないだろうが。
路面に崩れた法面擁壁の石が散乱。

10






⑩ 小尾根をまわり込むと、峠の送電鉄塔が見えるようになる。

11


⑪ 棚入沢横断地点 (2020年1月撮影)
かつてはどうにか通れたが、右岸側が垂直の泥壁になってしまい、渡れなくなった。
戻って手前の支尾根を降り、ガレ場を渡って対岸を這い登るも、左岸側は土壌が軟弱で、峠道の痕跡は失せている。
しかし、矢櫃峠はすぐである。

矢櫃峠道は明治29年以降に開通したが、それ以前の迅速測図 / 明治16年測量図に記入された山越えの道は、地盤が弱い棚入沢横断を避けるために棚入沢上部を通過していた。
あえて下方の崩れやすい山腹に峠道を通したのは、余分な上り下りの労力よりも、少しの距離であれば、崩れるたびに道路を修繕する方が益が大きいと諸戸林業が判断したからに相違あるまい。

      [ 千人隠れ ]

峠道が棚入沢を横ぎるあたりは「千人隠れ」と呼ばれたらしい。
この名称は「矢櫃」峠と同様に、永禄12年(1569)10月、武田信玄率いる甲州軍が小田原包囲を解いて撤退し、三増峠に向う途中、このあたりで北条軍と合戦になった、という伝説にちなむという。

県道 棚入沢
県道から見る棚入沢(⑪の下流、県道横断地点)。このへんも「千人隠れ」とされるらしい。

ハンス・シュトルテ著「続々丹沢夜話」に、戦後間もなくの頃、丹沢林道(現・県道)の「(ヤビツ)峠の蓑毛側の千人隠れで山崩れがあり(以下略)」(p.11) と書かれている。

また、「(矢櫃峠道を)高さ700メートルまで登り、ひどい藪に悩まされて千人隠れ(=棚入沢横断地点)に出て、急峻な崖崩れを慎重に渡って峠に出た。四百年も前に武田信玄の一軍勢が小田原攻めの帰途に北条の追跡を受けてここに隠れて、不用となった空の矢櫃を残したという伝説が地名の由来である。峠の餓鬼病も武田軍の亡霊のいたずらだっただろう。(略)握り飯を千人隠れに投げると空腹が直るという謂れ(略)峠の反対側に(略)今は峠の鉄塔から沢伝いに工事用の車道があり、楽に丹沢林道に下りられるが、当時はひどい藪道だった」(p.13)と、旧峠道をたどった際の記述もある。
この引用個所では「千人隠れ」と「矢櫃」、さらには餓鬼伝承までもが渾然一体となって語られる。

棚入沢という場所と武田・北条両軍の合戦伝承が結びついた「千人隠れ」伝説は、矢櫃峠道開通後に成立したわりと新しい説話で、現代でいえば都市伝説のようなものなのであろう。

石塚利雄著「神奈川県秦野地方の地名探訪」p.14 に「仙人隠れといってるが、伊勢原の善波にも同じ地名がある。山腹などの大きくへこんでいる所に多く、起名因は千人も隠れることのできるような所の意の表現であろう。変った意見としては、ここで修行している髭ぼうぼうの山伏をみると、あたかも仙人が隠れている如く見えたからとの話もあった。」という、みも蓋もない文章がある。このあたりが真相なのではないか。

明治3年4月の蓑毛村明細帳に「丹沢山道千人ケ岩と申候字場所」という記述がある。
「丹沢山道」は八町山道のことである。「千人ケ岩」の場所ははっきりしないが、八町山頂に近いあたりにあったようだ。「千人」は本来は「仙人」であったかもしれない。崩落したのか、現在ではそれらしい岩はみあたらない。
仙人と名がつく岩の多くは、修験道との関連が深いといわれている。
手前の尾根の陰になって、矢櫃峠道から八町山道は見えないが、「千人隠れ」伝説は「千人ケ岩」」と何らかの関係があるのかも。

① ②① 棚入沢左岸の諸戸道。ガレ場の向うに道跡が見える。その先から棚入沢側の道跡はほとんど崩落したようだ。
② 矢櫃峠方向。道跡がどうにか残っている。

大正2年(1913)8月31日、武田久吉-・山中太三郎両氏と案内兼弁当持の人夫の一行が秦野から「諸戸の切り通し」(矢櫃峠)を越え、丹沢村(札掛)-金林-塔ノ岳-丹沢山往復-大倉と歩いた時の記録(「丹沢山」武田久吉 山岳第8年第3号)から:
「(標高700m付近から)一時間許り息をもつかずに登つて、六時三十分に(矢櫃)峠の頂上に出た、高距は八〇〇米突餘である、此處は諸戸の切通しと穪する所で、丹澤村(=札掛)への關門である、南北に通じて一と息に吹はらす處なので、大風の時逃げ込む為めの洞がしつらへてあるのも妙だ、(中略)昔諸戸氏が所有の山林の事務所へ通ずる路をつけた時には、尚よく馬力(=馬車)を通じたそうであるが、毎年雨の度に山がくづれるので、修繕はするものヽ 、今は只駄馬を通ずるに過ぎない、しかし道巾は三尺内外は充分にある。」

③ ④
③ 矢櫃峠の導標が見える
④「諸戸の切り通し」 この切通しか、あるいはこの近くに避難用の「洞」穴が掘ってあった、てことかな?         

「昔諸戸氏が所有の山林の事務所へ通ずる路をつけた時」と述べていることから、武田氏は「諸戸氏」が矢櫃峠道を開設したことを知っていたように思える。
矢櫃峠道開設工事はこの山行の十数年前だから、雇っていた「案内兼辨當持の人夫」から話を聞いたのであろうか。
13峠から南の谷越しに、棚入沢右岸の道路跡が見える。

明治42年まで植林を行った諸戸林業は、大正3年から間伐材の伐出しを始めたというから、武田氏一行が矢櫃峠を越えたのは間伐を始める前の年で、ちょうど峠道の手入れが十分になされていなかった頃だったのだろう。
「路をつけた時には、尚よく馬力を通じたそうであるが、毎年雨の度に山がくづれるので、修繕はするものヽ 、今は只駄馬を通ずるに過ぎない、」の部分からは、棚入沢から峠にかけて土壌が軟弱なため、大雨のたびに上方から崩れ落ちた土砂で道路がふさがれる様子が想像できる。

間伐が始まると峠道も復興し、秦野の貯木場まで伐材や木炭の搬出で、駄馬が日に200頭も通行するほどになったそうである。

大正9年3月、東秦野村・北秦野村「共有地分割協定書」(「
入会林野と財産区」1990年 秦野市 )に「諸戸新鑿道路ヲ以テ両分シ道路」を境として東・北秦野村がそれぞれの土地を「所有トナス」と記されている。
諸戸新鑿道路」は⑤の新開道だけでなく、麓からの改修工事部分も含めた道路をいっているが、「諸戸新鑿」としているのは諸戸店(後の諸戸林業)が矢櫃峠道を新たに開削したからであると考えられる。

「丹沢山塊」(日本山岳写真書 塚本閤治 山と渓谷社 昭和19年9月発行)に「ヤビツ峠 (略)明治の中年諸戸植林によって開鑿された此の峠は、秦野と札掛を駄馬で繋ぎ、それ以前の御林管理に巡視する里正の通つた岳ノ台よりの仙太コロガシの坂道は、草叢に隠れてしまつた。」とあります。

「明治の中年諸戸植林によって開鑿された此の峠(=矢櫃峠)」とあり、矢櫃峠道が開鑿されてから半世紀も経たない本書発行時点でも、矢櫃峠道が「諸戸植林」によって開削されたことが広く知られていたように思われる。道路開削工事に従事した地元の人がまだ生存していたのであろう。

「それ以前の御林管理に巡視する里正の通つた岳ノ台よりの仙太コロガシの坂道」は、岳ノ台を越える江戸時代の道か、あるいは棚入沢の上部を横ぎる矢櫃峠周辺の道 (8)で調査した道のどちらかだろう。
「岳ノ台より」が、岳ノ台「を通って」という意味なら前者であり、岳ノ台「寄り」の意であるなら後者の道、ということになり、その道が「仙太コロガシの坂道」と呼ばれていたようである。

江戸時代の「里正」は村長・庄屋、あるいは富裕な知識人を指すが、ここでは御林を巡視する山守の意味で使われている。

「新編相模国風土記稿」の「愛甲郡 丹澤山」に「寛永元年、山中ノ掟書ト云ルモノ、今大住郡横野村ノ里正蔵ス。曰(いわく)丹澤御留山書之事。(ツガ、ケヤキなど六種)右之御用木御法度之事(以下略)」とあり、「横野村」には「當村ハ丹澤山御林見廻リ役ヲ勤ムル(略)寛永元年十月御林中ノ掟ヲ下知セシ事、村民所蔵ノ文書ニ見エタリ」 (文書の内容を記した後) 「寛永元子十月廿五日、源平殿(略) 源平ハ玄蕃ノ誤ニテ當時里正ノ名ナリ、其子孫 (=前文の「村民」) 今モ里正ヲ勤ム」と書かれている。

「里正」は村の長(おさ)であり、文意は、横野村の長・源平の子孫が「山中ノ掟書ト云ルモノ」を保管している、となるが、「丹沢山塊」では「里正」を「御林管理に巡視する」山守と誤解したのではなかろうか。

      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (2)

      岳ノ台の道 (1)

 1.「東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」の道(南面上部)

岳ノ台南面


















⑧-⑬ の点線は未調査。
絵図から推測すると、こちらの方が江戸時代の道の可能性あり。

⑪-⑬ 間から北上する緑点線2本のどちらかが 迅速測図 / 明治16年測図の道、じゃないかな(未調査)。

1




① 県道から表丹沢林道に入り、少し先から尾根に上る。尾根上に古い道跡が続いているが、藪や枯枝で埋まって歩けない。
古道脇の山道を北へ進む。

2




② 標高690m 切通し

傾斜が急になる手前に切通しがある。おそらく諸戸山林が造ったのだろう。
その先に道路の痕跡はなく、切通し造っただけで中止?

3






③ 西側の道を進み、山腹を左にトラバースする。路肩側に石積擁壁が残っている。

4





同上、石積擁壁。
石の表面が平に加工された谷積み。明治時代の諸戸山林による矢櫃峠道建設時のものと思われる。

5





④ ヘアピンカーブ
北進したトラバース道が折り返して南へ、尾根筋へ戻る。

表示板


⑤ 尾根筋に出た所が矢櫃峠道との分岐点。ここに古い表示板が落ちていた(2020年11月撮影)。
まだあるかな。
錆がひどくてよく分らんが、中央の斜めの線が古道を示しているらしい。

6 散乱する石





⑥ 右の山腹を斜上する矢櫃峠道と分れ、左の道に入る。
崩れた擁壁の石が散乱する古道。
尾根に沿って曲折しながら登って行く。

7







⑦ 右に斜上。

730-750m






標高 730-750m あたりを見下すと、古道がジグザグに続いているのがよく分る。

8-2

⑧ 標高 770m 地点、道が尾根から山腹トラバースに移る所に大日如来碑。地面に無造作に置かれている。

ここから道は山腹を右上しながら8号鉄塔尾根(棚入沢右岸尾根)に向う。

何の変哲もないこの場所に、どうして大日如来碑がポツンと置かれてんだろ?

現在は木が伸びてここから周囲の山は見えないが、地形図で調べてみると、ここに来るまで春岳山にかくれて見えなかった大山山頂が、このあたりが茅場だった(であろう)安政3年には、この地点から上で見える(遥拝できる)ようになった。それでここに碑を設置したんじゃないかな。
大日如来(左)正面「大日如来」
(中)右面「安政三辰年」(1856)
(右)左面「九月吉日」

ここから先の道は迅速測図に記された道で、江戸時代の道は左の尾根筋をたどっているのか?(地形図⑧-⑬)。
江戸時代の絵図では、道が尾根筋を通っている。

大山のほぼ全山が焼失した安政元年12月29日-翌年1月2日(1855年2月15日-18日)の大火から1年7-8ヶ月後に建立されたこの碑は、大山の復興を祈願するために奉納されたのかも。

このあたり、再調査が必要だが、しかし今は、山蛭・ダニ天国の夏。行く気が起こらん。涼しくなるまで待ってくれい。

9




⑨ 上記したように、この先は迅速測図の道かもしれん。山腹を8号鉄塔尾根に向って右上する。

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⑩ 前方が8号鉄塔尾根(棚入沢右岸尾根)


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⑪ 8号鉄塔尾根上。尾根筋に上った道はすぐに左折、また右折して尾根筋に戻り、道跡は消える。

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⑫ 標高810m付近。あるような、ないような踏み跡を辿るが、古道跡ではない。
迅速図の道は、この辺から右に行くのかな?


13 830m⑬ 標高830-40m 付近の広い尾根。
迅速図の道は、このあたりから右に分れていた可能性もある。 
それとは知らずに、この2ルートとも、既に歩いていたことが、GPSトラックから判明した。
その時点では迅速図の道の存在にまったく気づいていなかったから、やむを得ないが、ぼんやりした記憶しかない。

14 860-870m







⑭ 広い尾根が続く。


15 880m⑮ もうすぐ稜線。

      ( 続 く )

 矢櫃峠周辺の道 (1)

     岳ノ台周辺の古道 
 
矢櫃峠を調べるつもりで始めた探索調査だったが、思いもしなかった展開にビックリギョウテン!

ヤビツ峠から風越(風神祠のコル)間の古道図 (推定を含む)
岳ノ台周辺① 
「東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」の道(南面)
② a / b 「同上」 (北面) 推定道。b は迅速測図に記載あり。
③ 「同上」ヤビツ峠からの道(推定)
④ 明治15年測量・迅速測図に記載の道 (矢櫃峠道とは無関係だが、参考までに)
⑤ 迅速測図 / 明治16年測量「大山町」/ 明治29年修正「松田惣領」に記載の道
⑥ 明治39年測図に記載の矢櫃峠道

以下、関連資料を時間順に並べる。
元禄2年



元禄二年(1689)
「東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」(部分)

まだ矢櫃峠に道はなく、田原から門戸口への道は岳ノ台を越えて通じている。
② は、上記地形図の a または b のいずれかであろう。
a であれば、八町山道との合流点が門戸口になる。
b は迅速測図に記載がある。

八町山道については
アーネスト・サトウが歩いた道 蓑毛から八町山 (八町ノ台) へを参照してくだされ。

蓑毛村絵図面田畑色取







天保7年(1836)
「蓑毛村絵図面田畑色取」(部分)
 
岳ノ台の右の鞍部が後の矢櫃峠。
「蓑毛村絵図」であるため、稜線(「従是丹沢山境」)の北側(=寺山村領)の記載はない。

天保7年には蓑毛村明細帳が作成された。
この絵図は明細帳と関連して作成されたと考えられる。

迅速測図 明治15年




明治15年(1882) 12月測量 
迅速測図
「神奈川県相模國大住郡寺山村」(部分)
 
② b は
「東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」に記入された岳ノ台北面の道の可能性あり。

④ は門戸口から風越(風神祠の鞍部)への道。鞍部から菩提へ降りて行く。

明治15年測量






同上 矢櫃峠付近拡大
道路記号を黄線にした。

⑤ 稜線を越える道は矢櫃峠西の上方山腹を通っている。
この道も矢櫃峠道と呼んでもよいかとは思うが、後の矢櫃峠道より高い所を通り、稜線を越えてから谷間に降り、左岸を行く。
棚入沢源頭の軟弱地盤を避けるために、それより上方にこの道を開いたのであろう。

矢櫃峠道







明治16年測量 明治28年発行 1/20000
「大山町」

上の 明治15年(1882) 12月測量 迅速測図「神奈川県相模國大住郡寺山村」とまったく同じ⑤の道。

矢櫃峠西上から峠のすぐ近くまで降りているようにも見える。


明治29年

明治29年 (1896) 修正 明治31年発行「松田惣領」

これが ⑥ 矢櫃峠道であると思い込んでいたが、よくよく見ると、標高710メートル地点から山腹トラバースではなく尾根を直上しており(赤枠の部分)、8号鉄塔尾根を越える地点(赤丸)は、「今昔マップ」によると標高約790m(GPSによる計測では805m)で、8号鉄塔(775m)の位置より高い。
ということは、この道も⑤である。

明治29年には矢櫃峠道がまだ存在しなかった、と見なしてよいであろう。

明治39年測図 大山





明治39年測図 1/20000「大山」

ここに表示されているのは、まごうかたなく矢櫃峠道。
「ヤビツ峠」と名称も記され、「諸戸植林事務所」もしっかり記入されている。
峠から北に降りて行くと、合流点の手前で右(東)の上流側に曲っているのも分る。

諸戸清六が丹沢寺山の山林を買収したのは明治29年、植林を始めたのは明治31年。

以上、6点の絵図・地形図と諸戸林業の動向などを考え合せると、伝説に彩られた(厳密な意味での)矢櫃峠道が開かれたのは早くても明治29年、おそらくは明治30-31年、ということになる。驚愕!

岳ノ台-矢櫃峠周辺の道についての報告は次回から。

今回は、テーマとは直接の関係はないが、おまけとして ④ 風越(風神祠のコル)への道を紹介する。
  
  [ 風越 (風神祠のコル) への道 ]

道は県道70号線から菩提峠へ上る車道の分岐点にある公衆トイレの後から始まる。
風越(右) 明治16年測量 明治28年発行 1/20000 「大山町」

1 対岸に渡る







① すぐ対岸に渡る。

2 切通 尾根を越る




② やがて切通しで尾根を越え、南側の支流に降りて行く。
道は支流の左岸に沿って続いているが、ほどなく斜面崩落により消失。
3 右岸に古道





③ 左岸の道は堰堤の上で沢を渡り、右岸の山腹を登る。

4 こんな道が続く 

④ しばらく杉林の中を登り、標高730mを過ぎると広い谷になる。

右側の尾根の裾に続く道跡を追って行くと鹿柵がある。柵の先にも道跡は続いている。

5 風神祠 
⑤ 次の柵を越え、登山道へ。
「風越」と呼ばれる鞍部の西隅に菩提風神祠がある。
菩提に向って立つ祠は、「菩提の渡し風」と呼ばれた、鞍部を通り抜けて吹き降ろす強い北風を防ぐために菩提村が建立し、毎年4月に祭を執り行ったという。
かつては祠内に「菩提風神 鎮護」と墨書された木札が納められていた。

     ( 続 く )

 大山寺本堂(不動堂)再建 (3)

       ( 承 前 )   

明治9年(1876) 麓村から不動堂再建の発願が生じ、用材と資金の調達が行われた。
同年7月14日「今般 大山不動尊大堂本普請、弥、取掛ニ相成候筈」。「大堂本普請」に関して「七ヶ院始(略)近村ニ至迄、定約出来」山麓村々まで含めて、約定が整った。
麓村民・明王寺他子院・大工棟梁景元の三者で再建協議を開始。

明治10年7月7日、不動堂再建発起人から景元に「今般、不動尊大堂ヲ始、普請取掛ニ付、明王太郎殿ニ於テ、大棟梁働(勤)被下候、依之、至急、板絵図面丹誠願入候」と、棟梁への就任と、板絵図作成を依頼。
「板絵図面」は再建費の勧進用とみられ、同年9月に仮堂に掲げられた。
仮堂は、追分から移築された前不動堂を指すのであろう。 

かくして明王寺不動堂(以後、宝珠山本堂・大堂などとも書かれる) の再建準備に着手。

明治11年2月15日、棟梁景元・職人・五ヶ院の間で普請の「約定書」(請負証文)を締結。
同年3月2日「伽藍地坪改ル(略)場所相改候也」不動堂再建場所を八幡平に決定。
4月、大山再建地割。

新地祭・地割が明治16年3月末だから、掘削完工までに数年かかったと思われる。
この間、景元は阿夫利神社の造営に注力していたようである。

大山再建地割




明治11年4月から明治17年6月までの間の図面8点・仕様書5点が現存する。
最初の本堂図面に「此山字ハ八幡平之岩山也」との注記あり。

桁行(桁を支える左右両端の柱の中心から中心までの距離。棟はもっと長くなる。)が明治11年に12間、明治14-15年に9間4尺余、最終的には8間5尺余と次第に減少していくのは、掘削工事の進行につれて、当初予想よりも敷地が小さくなることが判明してきたからかも。

阿夫利神社本社拝殿再建図 明治11年
「阿夫利神社本社拝殿再建図」 明治11年

明治12年5月21-22日、山頂・阿夫利神社本宮遷座式。これをもって阿夫利神社造営が完了。

現在の下社社殿は旧不動堂の棟位置を踏襲して建てられ、遺構として礎石13個や石垣が現存する、とのこと。

同年7月25日、八意思兼神社(追分社)地割。
9月から不動堂の用材手配開始。10月30日、平面・規模を決定。
明治13年7月25日 男坂一丁目鳥居立始。

不動明王大堂「相模国大山 不動明王大堂再築建地割 但シ 百分之壱縮図」
明治12年10月、手書き図 (明治10年7月に作成した板絵図の写し)

二重屋根で、向拝が葺き下しから朱筆で軒唐破風に修正されている。
ただし、その前の9月に明王寺住職が「二重屋根ニハ無之候」と既に定めていた(手中家文書)。

明治15年10月30日、最終的に「大山宝珠山大堂木割、十五年十月卅日正ニ定ル」
「木割」(比例で部材のサイズを決定する寸法システム)が定まる。
その後、明治 16 年4月案にみる8間5尺3寸6分×7間4尺1寸(約 16.2m×13.5m)で一貫した。
明治15年12月案で、高さは内陣柱が22尺(約6.7m)とされた。

明治16年初頭に、向拝が計画から除外されたとみられる。向拝が落成したのは明治36年11月になってからで、同時に屋根全体の銅板葺きも完成。

八幡平開鑿




堂の背後に見えるコンクリート法面の上端は、棟よりかなり高い。
重機などなかった明治時代初期に、人手だけでこれだけ掘削し、その土砂を搬出するのは、とんでもない難工事だったはず。

大山寺石段
不動堂へ登る85段の石段。かなりの急傾斜。両側に童子像が並ぶ。
掘削前の不動堂地の傾斜も、この石段と同程度だったと推測される。
地形図によれば、境内は標高530m、石段上端から堂背後の法面下端まで30mに満たない。
大堂



赤点線は推定・江戸時代の登山道。
地形図の550m等高線は、堂の上方で人工的に掘削されたような直線になっている。
この表記が正しいとすれば、現在のコンクリート法面より上方、樹木に覆われている山腹も法面ということになり、その高さは最大で25メートルにも及ぶ。
緑線は上記の推定に基づく、法面のおおよその上端線。

不動堂
(左) 赤点線内が推定掘削範囲。
緑破線は石段下端(現・登山道、標高518m)から法面上端(ここでは標高555mと仮定した)までの横断面 (右図)。
石段上端と法面上端を直線で結ぶと、仰角は約30度になる。これは法面上端が標高555メートルと仮定した場合であり、正確なところは分らない。

法面の高さがもっと低いとしても、明治時代初期の土木技術では、とんでもない大工事だったことは疑いなく、完工までに数年を要したのは当然であったろう。
無明橋下からケーブルカー・大山寺駅へ通ずる道のあたりまで、沢筋が広くなっているのは、掘削した土砂の置場となったからだろうと推測する。
だが、掘削工事で出た膨大な量の土砂を、小さな沢沿いの狭い地だけでさばけるはずがない。かなりの量を運び下したのではないだろうか。土砂の搬出作業にも大変な労力を要したに相違ない。

不動堂は「不動尊御座所地面」内に再建せざるを得なかったから、明治9年に不動堂再建の発願が生じてから、明治11年3月に「伽藍地坪改ル(略)場所相改候也」不動堂再建場所を八幡平とするまで、時間がかかった。
というより、はなから建設適地など存在しなかった。ないものは造るしかない。すべてを人手に頼るしかなかった明治時代初期、腹をくくるまでに時間を要した、ってことかな。

明治16年3月「廿七日 字八万平ラ、大堂新地祭ス」「廿八日 右場所(=八万平ラ)ニテ手斧始祭事ス」29日、大堂地割。

雲井橋から上は傾斜が急で、寄進された欅の巨木などの用材の担ぎ上げができないため、勾配のゆるい、いわゆる「引地道」を新たに別に造り、谷には桟橋をかけて曳き上げた。

明治17年6月1日 大堂の建造本格化。
10月18日、「柱立始メ」。
11月21-23日、明王寺大堂上棟式。大堂の形が出来上がった。
祝賀の余興として山麓の村々では花火・松明、能狂言、競馬などが行われ、平塚・田村の渡しが式執行中の3日間無賃、大山道が補修整備されて灯明がともされるなど、大いに盛り上がった。
同年「十二月ニ至り多年延滞セシ大堂略成ル」

明治18 年11 月21日から7日間にわたって入仏(遷仏)式が執り行われ、仮殿( = 前不動堂)から遷仏。その間、大堂では毎日入佛御法楽がおこなわれた。
期間中、
山頂で修験者が毎日焚く柴灯(採灯)護摩の煙が、五里四方から見えたという。材木を曳き上げるために建設された「引地道」にも人の列が続いた。

明治21年大堂屋根の前面だけを銅板に葺き替え。屋根全面の銅板葺が完成したのは明治36年11月。

大正4年(1915)、宝珠山明王寺は慈雲山観音寺と合併、雨降山大山寺の旧山号・寺号を回復した。
現在の大山寺客殿(前不動堂の右側)は大正時代初期に建てられたという。大山寺の寺号を回復したことと関連がありそうだ。

      では、また!  

 大山寺本堂(不動堂)再建 (2)

       ( 承 前 )   

明治2年(1869)5月6日(「日記」の日付は5月9日)の祢宜・門前町民集会で横浜奉行所裁可として「大堂不動尊、来六月廿日迄来迎院へ御下ゲ」、仮大堂を含む全堂社を翌年2月までに取り壊して来迎院に移転し各寺院は来迎院に集住、「不動尊御座所地面之儀者(略)境相定候事」寺地の範囲を来迎院・八幡平の周辺一帯と定める、など5か条が発表された。

神家以外の大山町民は仏教徒だったから、神仏分離令(慶応4年 / 明治元年)によって大山の神道化がいっそう激化した上、明治4年には来迎院を除く寺院は廃寺となって町民が頼るべき寺がなくなり、収入面からも町民には大打撃となった。その結果、神道に変更した家が多々あったという。

また、もともと八幡平は来迎院地ではあったが、明治4年1月の上知令(寺領没収令)によって来迎院を除いて大山の寺院は廃寺となってしまったから、その結果として「不動尊御座所地面」が(おそらく公式に)来迎院地となった、ということではないだろうか。

 (右) 明治2年「大山山内図」(部分)  距離・方角はかなりデフォルメされている。
明治2年① 真玉橋 ② もみじ橋 ③ 無明橋(「山内図」では推定位地)
(左) 地形図の ‥‥ は現・不動堂建設前の推定参道。
 「大山山内図」のaとb は、地形図のa / b に対応するかと思われる推定位置。
不動堂地(赤円)は、現在の大山寺不動堂の推定位置。その左が「八幡平」と思われる。
来迎院にも小さな建物(「客殿并に勝手」)の記入がある。

真玉橋から上、右岸の道沿いに木地屋が並んでいた(① - ②)という。
「相模國雨降山細見之扣」(嘉永4年=1851)「左り方女坂(略)此當(辺)一山之産物・挽物(=ろくろで挽いて作った独楽・盆・椀など)見世(店)多シ。是上町屋(以下略)」

この図には明治2年4月に撤去が完了した前不動堂が記入されているから、おそらく前年の明治元年の様子を描いたものだろう。

以下、「」内は明王太郎日記からの引用。

安政2年
「一月十七日 (大堂のはいかきに来た)者の内、来迎院檀家者は、返り掛けに其寺(=来迎院)はいかき致、不残出来申候。」焼け落ちた来迎院の灰掻き(=後片付け)が完了。
「卯四月十二日 女坂来迎院様、客殿并(ならび)に勝手共建前出来仕候。」来迎院客殿と庫裏の建前(棟上げ)。
「安政二卯極月(12月)控」に「三両 来迎院檜代相渡」とあり。

「明治二年三月二四日  前不動尊御堂取破し始候、建ゾウ(立像)不動尊来迎院江引取」前不動堂を取壊し始め、不動尊像を来迎院へ移した。4月16日、取壊し完了。

明治2年
「五月九日  不動尊御座所地面之儀者(中略)境相定候事」「不動尊御座所地面」の範囲を決定。日記の日付は5月9日だが、集会は5月6日に開催された。
6月19日「大堂不動尊御一新ニ付、昼九ツ時迄ニ女坂来迎院へ御座所替」5月6日の集会で発表された(「大堂不動尊、来六月廿日迄来迎院へ御下ゲ」)とおり、不動堂本尊を来迎院へ移転・安置。
4月16日に前不動堂の取壊しが完了してから2ヶ月ほどだが、期限に間に合うように大急ぎで移築したのだろう。
「御一新」は明治維新だけでなく、急激に進行した神道化をも含意するのだろうか。

「明治三年午四月  昨巳(=明治2年)十一月、元不動堂買取」ったものの材木の置場がなく、運搬の人馬も足りず、「御神地江佛堂諸木差置候義、不本意ニ候間、右材之分者一時、炭ニ焼立」たい、と「藤沢宿買主」と「当山引受人 手中明王太郎」が願い出た。
前年11月に買取った不動堂ほか諸院・坊の材木が、夏の例祭が近づいた4月になっても参道脇に山積みのまま野ざらしになっており、心苦しいから炭にして処分する、と弁明している。

   [ 前不動堂 ]

前不動堂「新編相模国風土記稿」より
「大山寺境内 前不動堂邊圖」
  
「新編相模国風土記稿 大山 前不動堂 本尊木像 長四尺三寸五分」

華坊兵蔵「相州大山参詣獨案内道の記(寛政-文化年間か) まえふどうと申まします。堂へむかつて左りに行場これあり。」

「大山地誌調書上」(天保6年=1835) (東京大学史料編纂所蔵、相模国霊場研究会 城川隆生発表資料 より)
「同所(=前不動)ニ瀧有之前不動滝与唱申候 瀧高サ九尺 瀧壺▢間九尺 瀧口者樋▢落し申候」

玉餘道人「相州大山順路之記
(寛政元年=1789) 前不動 左りに瀧あり。」

堂の左に樋で水をひいた「前不動滝」と呼ばれる人工の滝があって行場になっていた。滝水は大山川(男坂の右下)から引いていた、ともいうが不自然すぎる。左の水谷川から引水したのでは。

明治4年7月11日(1871年8月26日)、蓑毛から大山に登り、表参道を大山町に下山した田中芳男の旅の記録「冨士紀行」に「前不動ノ地、今ハ不動下山シテ堂社ナク、石尊ノ拝殿ノミアリ。是、新規ノ所建ニシテ暇屋ナリ。(略)之ョリ降ルニ、石路尚急鹸ナリ。(略)不動ノ仮堂アリ。其下ニ石地蔵アリ。之ョリ河橋ヲ渡レハ、大山村ノ町ナリ。」と書かれている。「河橋」は雲井橋であろう。

明治4年の夏には、かつて「前不動」の「堂社」があった場所に「石尊ノ拝殿」の「暇屋」だけがあったという。
下方にあった「不動ノ仮堂」は、明治2年6月に不動堂本尊を来迎院に安置したため、不動尊像2体を同居させるわけにはいかず、前不動尊を来迎院からこちらに移転した、ということかな。それとも、別の不動尊像?
現在は前不動尊も本堂(不動堂)内に安置されているとのこと。


来迎院 俱利伽羅堂現在の前不動堂=来迎院本堂。
追分から移築した、大山で二番目に古い建物。
移築の際に建物の一部が省かれ、屋根が低くなったという。
木造不動明王と二童子立像は本堂に移され、現在は前不動堂内に仏像は祀られていないそうだ。
来迎院本尊の阿弥陀如来像は、別所町観音寺跡地に建てられた来迎院(別院)に移された。

前不動堂の左は、現存する大山最古の建築物・俱利伽羅堂(龍神堂・八大堂)
。明治時代初頭、二重滝の脇から移築された。
御師・猪股豊政著「相模國雨降山細見之扣」には「青瀧大権現之社」とある。

詞書(ことばがき)に「建暦元年 七月」と記された源実朝の歌
「時により 過ぐれば民の嘆きなり 八大竜王 雨やめたまへ」(「金槐和歌集」)
は、この堂に祀られる龍神(八代龍王)に捧げられたともいう。
吾妻鏡「建暦元年七月」の条には、北条政子一行が8日に「相模の国日向薬師堂に御参り」という記述はあるものの、実朝が大山寺を訪れた記録はないから、鎌倉で詠んだのだろう。
実朝本人が大山寺に参詣したことはないようだ。

   [ 来迎院と八幡平(坦) ]

不動堂は来迎院跡地に建設された、と誤って語られることが多いが、不動堂は来迎院上の八幡平を開鑿して建立された。
来迎院跡地と誤認されやすいのは、どちらもが来迎院地であるためらしい。

宮崎武雄著「相州大山今昔史跡めぐり」p.137 に、来迎院住職の「今でも大山寺地は来迎院の名義になっている。したがって別所町にあるのは来迎院別院か。」という話がのっている。八幡平は古くから来迎院地であり、不動堂が建立されても、それは変らなかった、ということである。
現在の大山寺不動堂がある場所(=立地)は来迎院の寺地ではあるが、来迎院跡地ではない、という点が明確ではなかったのが、二つの場所が混同されることになった原因であろう。

「山岳信仰における神仏と参詣地の研究-相模大山を事例に」でも「不動堂が再興されるまでの(建築)過程に関する先行研究は皆無に等しい」と述べられているように、明治期再建築に関する研究がなされてこなかったため、まともな資料がほとんど存在しなかった、ことも背景にあると思う。

江戸時代の絵図と文書から、来迎院と八幡平の位置を確認する。

安政5 (1858) 年「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 五雲亭(歌川)貞秀 (部分)
相模国大隅郡大山寺雨降神社真景


安政の大火より前の大山が描かれている。

中央の「西の河原石佛」は、現在の大山寺客殿がある場所であろうと推測する。
左の「同(=西の河原)石佛銅佛多し」が八幡平。大佛(おおほとけ)らしき石塔が見える。
両者の間にシルエットで形が描き込まれているのが来迎院か。

華坊兵蔵「相州大山参詣獨案内道の記」(寛政-文化年間)
(不動堂からの下り道)「女坂へかゝり、まへ不動へかゝる道(略)此道の右りの方に敉千の石塔あり(=八幡平)。左りの方ニちやとう地蔵の草坊(さうぼう)あり(=来迎院)。」
(前不動から登り)「女坂ハ右の山(=「まへ不動のうしろの山」)を右りに見て、谷川をひだりへこして(現在の真玉橋)、(略)たにやい(谷間)をのぼるゆへ平地(=緩傾斜)なり。」

「敉(び)」は、なでる・いつくしむ、の意だが、ここでは「数」の字として使っていると考えられる。「敉千」は多数、という意味だろう。
女坂を降りていくと、右側に多数の石塔があり(八幡平)、左に茶湯地蔵の僧坊(あるいは草房=来迎院)がある。
女坂は、前不動から左へ、(現・真玉橋で)谷川を渡り、谷間を緩やかに登って行く。

来迎院

「相中留恩記略」より
 大山図 (部分) 長谷川雪堤 図

下の赤円内が来迎院。
上の赤円は八幡平・明治期不動堂の推定地。
その右上方、無明橋の手前と思われる場所に建物が見える。現在の登山道と大山ケーブルカー「大山寺駅」への道との分岐点あたりになるか。

相州大山絵図
「相州大山絵図」江戸時代 佐藤坊 開板
赤円内が来迎院。

「新編相模国風土記稿 大山 来迎院 女坂ノ右ニアリ。密空山大山寺ト號ス。」「本尊弥陀」「当寺ハ別当八大坊及山上寺院ノ菩提寺ナリ。此寺ヲ土人茶湯寺ト唱フ。」

「相模國雨降山細見之扣」(嘉永4年以降、安政の大火前)
「来迎院 本尊三尊之弥陀佛、幷ニ寝釈迦如来安置 但シ、茶湯寺共云。堂之脇念佛之地蔵幷ニ地佛之地蔵 此當り 山上坊中之墓所有之。此處之橋ヲ無名之橋ト云。 俳諧師はせを之脾(碑)〈山寒し心の庭や水之月〉」

茶湯寺とも呼ばれる来迎院には本尊の阿弥陀仏と、ほかに釈迦涅槃像も安置され、堂の周囲には地蔵像が並んでいる。「此當(辺)り」(=八幡平)は山上寺院の墓所となっている。近くの橋を「無名之橋」(=無明橋)という。松尾芭蕉の句碑は無明橋の北側のたもとに現存。〈心の庭〉は〈心の底〉が正しい。
まさに「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」に描かれた通りの情景だったようである。

来迎院は山内寺院の僧侶を弔う菩提寺であり、その寺地(八幡平)は、古くから大山寺僧侶の墓地となっていた。また、百一日の茶湯で故人を供養する「百一日参り」の寺でもあったので「茶湯寺」とも呼ばれた。

大佛八幡平には第四世別当・隆慶が母の菩提を弔うために建立したといわれる「大佛(おおほとけ)」と呼ばれた巨大な石塔の周囲に、卵塔・五輪塔・瑞垣などが並んでいた。

「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 に描かれた形状から判断すると、大佛(と思われる石塔)は高い基礎に載った3重の層塔のように見えるが、実際には五輪塔であったようである。

以下、城川隆生氏からご提供いただいた資料から一部を引用:
天保6年(1835)「大山地誌調書上」(東京大学史料編纂所蔵、相模国霊場研究会 城川隆生発表資料)「下向道女坂来迎院上之方ニ有之候大石碑者八大坊一(ママ、四?)世隆慶母為菩提寛文年中建立之」「寛文五年十月二日(1665年11月8日)」、添えられた「石塔圖」に「惣高サ壱丈八尺六寸」とあります。

来迎院上方にある「大石碑」は「八大坊一(四の誤りか?)世隆慶」が「寛文年中(1661-73)」に母の菩提のために「建立之」した、ということですね。
「惣高サ」が 563.6cm 。相当にでかい。「石塔圖」に描かれた五輪塔は、最上部が風輪と空輪(宝珠)が合体したような形になっており、一見すると4層に見える。

「大石碑」(大佛)は不動堂再建後も残されたが、後年の災害(関東大震災?)により倒壊した。

開鑿以前の地形を想像すると、不動堂の左側、鐘楼・宝篋印塔があるあたりが八幡平だったと思われる。江戸時代には平坦ではなく、自然のままの緩傾斜地だったか、少し手を加えて傾斜を緩くした程度だったのだろう。
とすると江戸時代の参道は、現在かわらけが投げ落とされる崖を横ぎり、少し先でくの字に曲って八幡平に上っていた、ということになる。

   [ 不動尊御座所地面 ]

明治2年5月6日(日記の日付は5月9日)の祢宜・門前町民集会で取り決められた「不動尊御座所地面」の範囲を検証する。

「不動尊御座所地面之儀者、上ミハ字八幡たいらより六十間限り丑寅之方ムギョウ之橋境、是より下り水谷川二股之場所境、是より水谷川登り来迎院吸水元谷相より八幡平上ヱ六十間之境ヱ引廻し境相定候事」

この文を地形図に記入してみたのが下図。
「八幡たいら(平)」から丑寅(北東。実際には北)の「ムギョウ之橋(無明橋)」a までの 60間(=1町=約109m)が「上ミ(=上端)」の境界 (d の緑線あたり)、a から「水谷川二股之場所」bまでの沢筋が境界、b から「水谷川登り来迎院吸(給)水元谷相(間) より八幡平上」の「六十間之境」(=「上ミ」の境界) につながる。
「吸水元谷相」は、下図でc の間のどこかになると思うが、特定しがたい。
不動尊御座所地面
赤点線は推定・古道。
「ムギョウ之橋」(無明橋)
「水谷川二股之場所」
c  この辺りからにかけてが「来迎院吸水元谷相」か?
d 開鑿後の法面の、おおよその上端線。

     ( 続 く )

 大山寺本堂(不動堂)再建 (1)

  安政の大火後の大山寺不動堂 

「弐ケ寺」と二重滝脇の俱利伽羅堂 (二重堂) を除いて、ほぼ全山が焼失した安政の大火 (安政元年12月29日 - 翌2年1月2日 = 1855年2月15-18日)後の大山寺本堂(不動堂、大堂)再建築について報告する。

参照した資料の一つ「山岳信仰における神仏と参詣地の研究-相模大山を事例に」飯田隆夫 2017年 に「明治元年以降、明王寺で不動堂が再興されるまでの(建築)過程に関する先行研究は皆無に等しい。」(p.183)と述べられているごとく、大火で焼失した大山寺不動堂の明治期再建築に関する研究は、有名な寺であるにもかかわらず、ほとんどなされてこなかったようで、意外だった。

また、同論文に「慶応元年以降、大山寺廃絶と再興に関する資料は本日記(=「宮大工手中明王太郎日記」)を除いて他にはない。」(p.184)と記されているように、奈良時代に遡る家系と伝わる「明王太郎」家(江戸時代初期には「田中」姓だったが、中期から「手中」姓を名乗るようになった)の 89世・手中明王太郎景元(文政2年生-明治36年没) が残した膨大な日記と、同家に伝わる手中明王太郎家文書が、この分野における根本資料となる。

明王太郎日記





宮大工手中明王太郎日記
「御用留」や「萬出火控」などの各種「控」など、多数の文書から成る。

 
       [ 安政の大火  ]

以下、「」内は大山寺大工棟梁手中明王太郎景元の日記からの引用。

安政元年12月29日(1855年2月15日)に「野火」があり、翌30日(大晦日)は強風で、上は稲荷町まで、下は子安村まで飛び火した。

安政2年1月2日(1855年2月18日)も「大風」で、「八方へ火立チ前不動ヨリ末社不残、来迎院次二仁王門ニウツリ」坊々に類焼、「十九ケ院の内弐ケ寺、喜楽坊・大勧進相残」して焼失。「正七つ半時に大堂焼落ち申候。御本尊の儀は宝キョウ塔東のキハ持出し、別当初メ、一先は西茶屋の西方へ御座し、クレ六ツ時に右方へ御座し玉え。」
大山寺諸堂諸坊配置図










「大山寺諸堂諸坊配置図」(部分)
「近世相模国大山寺における十二坊と御師の建築について」 山岸吉弘 2018年 より転載


左上:西の茶屋(西茶屋)
右下:喜楽坊・大勧進

大山寺


「新編相模国風土記稿 大山」より「不動堂邊圖」

「新編相模国風土記稿 鎌倉胡桃谷大樂寺住持願行 (略) 本尊ヲ鋳造シ (略) 願行ヲ中興開山トス。」

「相模國雨降山細見之扣 内佛之本尊不動大明王、東照神君(=徳川家康の神号)、大日如来安置也」


正七つ半時に大堂(=不動堂)焼落ち申候。御本尊の儀は宝キョウ(篋)塔東のキハ持出し」 グレゴリオ暦 2月18日の「正七つ半時」は午後4時半ころ。

相州大山絵図「相州大山絵図」 (部分)
 佐藤坊開板 江戸時代

「御本尊の儀は」
初メ、一先は西茶屋の西方へ御座し」

「相模國雨降山細見之扣」(安政の大火より前の著作) に「額堂幷ニ西之茶屋、是ゟ(より)蓑毛掛越道」とあります。

「石尊入口」(木戸門)左の赤円は「額殿(額堂)」、その左、「みのげ通」が始まる所に「西茶屋」があった。

不動明王像

大山寺本尊 鉄造不動明王坐像
台座こみの総高8尺7寸(287cm) 、かなり大きい。
文永11年(1264)、大山寺を再興した鎌倉大楽寺の願行房憲静が鋳造したと伝わる。
鎌倉・覚園寺から100メートルほど南にあった大楽寺は1438年、永享の乱で焼失。

「新編相模国風土記稿 不動堂 本尊銅像 長三尺七寸、中興開山願行作 ナリ。」


願行上人はこの像を作成する前に、まず試作の不動像を造り(「試みの不動」と呼ばれ、覚園寺愛染堂に現存)、それから本像にとりかかったといわれる。


「別当初メ、一先は西茶屋の西方へ御座し、クレ六ツ時に右方(みぎのかた)へ御座し玉え」は、別当は最初、本尊をひとまず西茶屋の西側に避難させ、クレ六ツ時に「右」の行に書いた「方」(かた=場所)、つまり「宝キョウ塔東のキハ(際)」へ安置した、という意味であろう。

安政2年1月2日(1855年2月18日)の「クレ六ツ時」は、おおよそ午後6時半から午後8時過ぎころになる。暗くなってから、本尊を宝篋印塔の脇へ移動させたのだ。

宝篋印塔宝篋印塔 (青銅製) 本体の高さ8.48メートル
「新編相模国風土記稿  大山 寶筐塔 唐銅ナリ。高三丈一尺三寸。寛政七年十一月建。」
「相模國雨降山細見之扣  カラカ子(ね)ノ寶経塔三丈三尺」
どちらも台座こみの高さだろうが、50㎝ほど違う。

「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉  唐銅宝経塔 高サ凡三間余ニも見へ、彫其外も手を込メ珎敷(めずらしき)経塔ニ有之候。」見た目の高さ、5m46cm余り。こちらはかなり小振りに見積もっている。

唐銅・カラカ子・唐金(からかね)は青銅のこと。

廃仏毀釈の際に破壊されて谷に投げ捨てられたが、後に回収し、保管されていた。大正3年、現在の大山寺境内に修復・再建。

関東大震災では、上半分が欠落倒壊。
大正15年、欠落部分を修理し再建された。

安政2年1月2日夜から翌朝にかけ、焼失した本地堂跡地に、本尊のために夜を徹して仮堂建設。
3日朝には「一月三日 御本尊様御備(仮)殿 前本地堂ニ出来」という早業だった。「出来」は形ができた、ということだろう。

相中恩記略「相中留恩記略」より  不動堂の左に本地堂。

「新編相模国風土記稿 大山 本地堂 大日(銅像ナリ。元禄六年、官ヨリ修造ノ内札ヲ蔵ス。)ヲ置。」大日如来は天照大神の本地。
「相模國雨降山細見之扣 本地堂十一面観世音」十一面観音も祀ってあった。

「御本尊様御備殿図面」

「御本尊様御備(仮)殿」図面

「右図割相定候、二日夜八つ半時、儀定出来。」
「二日夜八つ半時」は3日午前3時半頃。
真冬の草木も眠る丑三つ時!に、まがりなりにも仮殿が出来上がったのだ。
「 三日早朝にて、人足兼吉初十弐人にて御本尊相納」
まだ仮置きではあるが、さっそく本尊を建物内部に収めた。


1月4日も仮堂の普請を続行、5日「御備殿建前に相成」、6日に竣工。

7日、「御本尊御仮備殿御入尊」「御身を白綿にてマキ、縄にてれん(蓮)台に備え、弥、仮備殿へ御入殿に相成」った。

「一月十七日 大堂はいかき(灰掻き)弐度目、又、三四寸位づつかき取申候。」


   [ 大山寺仮大堂造営 ]

「安政二年卯四月二日(1855年5月17日) 御本尊仮大堂手斧初、四月二日大吉日依て出来。」「四月二日大吉日」、焼失した不動堂 (本堂) 跡地にて仮大堂造営着工。
「四月五日 御本尊仮大堂地割寸法定」

「御本尊御ケン(剣)、正月二日より一向に相しれ不申候処、四月十五日に、ヤケ銅板の中よりたずね出し申候。」3ヶ月以上も行方不明になっていた本尊の剣(三鈷剣・倶利伽羅剣)を、焼跡から発見。
堂から運び出す際に、剣の脱落には気づいたはずだが、それに構っている余裕がなかった、ということか。
火炎が迫っていた緊迫感が伝わってくるとともに、3ヶ月以上経っても、焼け落ちた銅板(屋根板か?)が散乱したままになっていた様子が目に浮かぶ。

「五月廿八日(1855年 7月 11日 ) 、上棟祭事目出度出来仕候。」仮大堂上棟式が執り行われた。
「日数五十五日の間に其御場所此迄に相成候」着工から 2ヶ月足らずで棟上げまでこぎつけ、感無量といったところか。
「安政二乙夘年五月廿八日 奉再建阿遮羅明王假殿一宇」と書かれた仮大堂棟札が手中家に保存されている。

     [ その後 ]

安政4年(1857)から本普請準備にかかり、同年10月、焼失した堂社の規模・仕様の書上げや地割図(配置図)を作成。
翌安政5年、上記書類を寺社奉行に提出して再建を願い、幕府から普請金として白銀 50 枚が下賜された。

万延元年(1860) には用材準備も始めたが、幕末の動乱と山内の神道化進行にともなう内部対立などのため、本堂造営工事に着手できないうちに、慶応4年3月17日(1868年4月9日)から神仏分離令(判然令とも)と総称される一連の法令が政府から公布された。
同年
閏4月24日には江戸城に呼び出されて、総督府より、阿夫利神社を造営するためとして、大山寺の即時退去を命じられる。
 
慶応4年(1868)9月8日、明治に改元。
明治元年9月22日、「東京府社寺御役所ニ大山寺八大坊事、明王寺と改名相願建(立)御聞済ニ相成、大堂不動尊之儀者下寺江引取候テ明王寺於不動尊内佛ニ被申付」。
大山寺から明王寺への改名の「相願建(立)」が認可され、本尊を明王寺(八大坊旧寺)に引取り安置することとなった。
10月18日、「師職一同ハ禰宜と相改候。」御師から、神職である祢宜へ改称。

「明治二年五月九日」祢宜と門前町民の集会で「大堂不動尊、来六月廿日迄来迎院へ御下ゲに相成候、幷ニ諸仏之類二重堂、前不動ニ至迄、引払被仰付候」「明王寺、幷に(略)〆八院の者共、来迎院近所へ立退可申候、尤も家作向之儀者、来ル午年(=明治3年)二月晦日限り、取払可致候。」「不動尊御座所地面之儀者(略)境相定候事」などが発表され、「大堂不動尊」を「来六月廿日迄」に来迎院へ移転、その他の堂舎などの「家作」を翌年2月末日までに取壊すこととなった。
日記の日付は5月9日だが、集会は5月6日に開かれた。

伊勢原の古仏店には、社僧らが運び出して売り払った図像や仏具が山のごとく積まれたという。

明治4年1月には上知令(寺領没収令)発布。寺領の多くが没収され、来迎院を除き、大山の寺院は廃寺となった。
明治6年、宝珠山明王寺は来迎院に完全に引き移った。「明王寺」と呼ぶことはほとんどなく、「明王寺来迎院」とか「八ヵ院」と称するのが普通だったという。
同年4月、権田直助が阿夫利神社祠官に就任。その後、祢宜から先導師へ呼称変更。

     ( 続 く )           

 足柄新道 駿河側 (2)

      ( 承 前 )

2. 大沢

大沢
1
① 昭和36年、小山町共有者 / 植林組合が建立した大沢林道植林記念碑
「大沢入」は「もと一望の茅野」で、「大正十二年」から「凡そ四十年孜々として」植林経営を続けてきたことが綿々と綴られ、このあたり(大沢入)が大正期には「一望の茅野」だったことが分る。

「裸山なので夏の峠越えは暑い。」(アーネスト・サトウ「明治日本旅行案内 東京近郊編」 東洋文庫 p.237)

枠内拡大図
大沢 2
2② 県道(通り尾)から大沢林道(下の舗装道路)を釜ツ沢まで進む。この場所は県道分岐点より15メートルほど低い。左岸の荒れた林道に入る。

「その低い地点から道は左手に向かって二番目のより簡単な登りへと曲折していく。」(同上書)は ②⇒①⇒通り尾 の足柄新道の描写。

3






③ 釜ツ沢を渡る

4




④ 水が涸れた大沢の左岸が足柄新道。林道になっている。
左(右岸)の標識は「富士箱根トレイル」

5






⑤ 林道の左下に旧道の跡が合流する。

暗渠旧道跡を辿ると石造暗渠の遺構がある。

石橋の上







暗渠遺構の先にも旧道跡が続く。

6






旧道跡は80メートルくらい先で上の林道に合流。

7






⑥ 大沢を右岸に渡る。

8





沢沿いに足柄新道

9






右岸に続く道

⑦






⑦ ガレ沢を渡る

11






⑧ 次のガレ沢を渡る

12





右岸を行く

割石






大岩を割って道を通したらしい。

鑿跡







鑿跡がある石塊。

13





⑨ やがてジグザグの登り坂

14






笹藪の中の踏み跡になる

15







⑩ ガレ沢を左岸に渡る

16





左岸から県境尾根に向う足柄新道
右下の沢の対岸、通り尾砦跡から ⑥ に落ちる尾根も「通り尾」と呼ぶそうである。

17






足柄新道跡が続く。

⑪






⑪ もうすぐ県境尾根。
ジグザグに続く道

19







県境尾根直下

竹ノ下 降り口



県境尾根のハイキングコース
大沢からの足柄新道は、階段の下で右から合流する。
階段上の高みに通り尾砦があったという。
 
  
通り尾
もう一つの「通り尾」
通り尾砦北端から⑥の手前までなだらかな尾根が続き、かすかな踏み跡がある。
名称からすると中世には道があったと考えられるが、古道らしき面影はない。

      では、また!

 足柄新道 駿河側 (1)

駿河側の足柄新道は、竹ノ下から湯沸沢を遡って通り尾を越え、山腹をトラバースしてから大沢沿いに登る。
足柄峠道と足柄新道の分岐点には、両道を示す道標が立つ。
湯沸沢




静岡県GIS(地理情報システム)より転載 1/50000
静岡県 GPS
1. 湯沸沢駿河側


① 足柄新道と足柄峠道の分岐(合流)点に道標(右下)がある。建立年不明。左上は双体道祖神。
明治期か大正期の足柄新道建設の際に設置されたのであろう。
「足柄古 道」は足柄峠道のことである。
 足柄新道 道標 

     

道標




「(矢倉沢関場から)一二町ほど(約1.3km)矢倉沢(往還)を登ったところで「旧道」と「新道」に分かれるが峠の西麓にある竹ノ下村で再び合流する。」
(E.サトウ「明治日本旅行案内 東京近郊編」東洋文庫 p.237)


2
② 道標から東へ進み、地蔵堂川を渡って間もなく、戦ヶ入林道への道を右に分け、湯沸沢沿いの林道に入る。

少し行くと左右に水田があり、やがて谷が狭まる。
この辺りの護岸には、はかなり大きな石が使われている。

3







③ やがて馬頭観音碑が現れる。
4








④ 明治30年代の馬頭観音碑 2基。
道は右に曲る。

5






⑤ 途中に小さな滝がある。

6





⑥ この辺りまで、かなり大きな石で護岸がされている。戦後の林道改修時のものであろう。

7






⑦ 橋
左の護岸壁は明治期、あるいは大正期のものか?

8





⑧ 整備された車道の終点。
この先、草や藪に覆われてはいるが、道路跡は残っている。
9







⑨ 稜線(通り尾)はもうすぐ。

10⑩ 古い鉄のゲートが谷側を向いて残っている。
左側が道路跡。

ほどなく尾根上の県道足柄峠線に到着。

      ( 続 く )


 足柄新道 相模側 (4)

      足柄新道 上部

上部地形図大正期の足柄新道上部は、明治時代の足柄新道を拡幅改修したように思える。
足柄新道は550メートル地点から右にトラバースし、コナラオ沢支流(左股)を渡ってから登りにかかった。
標高500メートルの鞍部から沢を渡るまでの間の万葉ファミリーコースは足柄新道を利用した、と考えるのが妥当だ。

大正大正5年測量  1/50000「関本」
番号は上図に対応。




昭和20年1/50000「小田原」 
昭和20年部分修正 昭和23年発行
足柄新道の表示には、昭和8年の修正測図から変化がない。
敗戦の年の部分修正は、山中の道まで調査する余裕はなかったはずで、従前の図をそのまま使ったのだろう。

上部への道





標高500メートル鞍部から上部への登山道=足柄新道


あしがりの郷分岐


① 案内板から右が山畑跡(あしがりの郷)への道。
案内板には「あしがりの郷」と書かれている。
1980年ころに万葉ファミリーコースを整備した際、かつての山畑に散策路を造成したようである。

秣場?

1960年代の空中写真。区画整理された山畑であったらしい。何を作っていたのだろう。
明治8年の調査に見える入会共有地「字コナラヲ 秣場 壱ヶ所 此反別不詳」は、この場所を指しているのではないだろうか。

こなら尾





天保2年(1831) 猿山村里程記入絵図 (部分)

こなら尾道(入会道)の終点(「秣場?」)が、この山畑跡じゃないかな、と思う。

下端




② 建物の礎石だったらしい石積がコの字形に残る。右上に荒れ果てたトタン葺きの物置小屋。


山畑跡?



かつての山畑は見る影もなく、荒地に化している。畑があったとは、とうてい思えない。
少し上に東屋がある。

小橋



足柄新道に戻る。

③ コナラオ沢源流を小さな橋で渡る。
橋のむこうの左上に廃屋がある。
入口





廃屋は足柄新道の道路敷に建っており、その裏から道跡が続く。
580m




④ 標高580メートル
廃屋の上から、左の沢に沿って足柄新道跡が続く。
石段跡




⑤ 沢沿いから右に曲る周辺に岩が散乱している。
このカーブの前後は石の階段になっていたようだ。
石段






石の階段の残骸。
新道は中央の杉の左を上方に向かい、ほどなく登山道に合流する。鑿跡








転がっている大きな石に鑿跡。
600m







⑥ 登山道を少し登り、標高600メートルで登山道と分れて山腹を左にトラバース。620m






⑦ 標高 620メートル
635m 2019年6月







⑧ 沢を渡る手前の平坦地
 (2019年6月)。
635m 2019年11月





2019年11月、上の写真と同じ場所。
崩落と倒木は 2019年10月の台風19号による被害。

635m







⑨ コナラオ沢源頭を渡る。

石積残骸











⑩ 標高640メートル。
路肩側擁壁の残骸。

650m






⑪ 標高650メートル 歩いてきた道跡を振返る。

655m
⑫ 標高653メートル。南側の支沢の源頭を対岸に渡る。
右岸側は崩れやすい崖で、道路の痕跡はない。

崖を這い登って尾根に上ると、かすかな道跡らしきものが続く。

685m
⑬ 標高685メートル。
道路跡(?)らしき痕跡は、ここで途絶える。
左方の県道を目がけて藪の中をやみくもにトラバース。
斜面は崩れやすく、崩落・浸食が激しい。

「距離にすると(矢倉沢から)二里で登りはさして険しいわけではないが、裸山なので夏の峠越えは暑い。」(アーネスト・サトウ「明治日本旅行案内 東京近郊編」 東洋文庫 p.237)

⑭ やがて県道ヘアピンカーブにある広場に出る。ここからは登山道を登る。
尾根に登る
⑮ 稜線に達する直前、左下から相模側最上部の足柄新道跡が合流。

「峠の頂上付近ではどこからも富士の眺めはよく」(A.サトウ「明治日本旅行案内 東京近郊編」)

稜線下






下方でくの字にカーブしているのが見える。

くの字から上





くの字カーブへ降りる途中、上を見る。

くの字から下



⑯ くの字カーブから下方は車道工事で消滅したのだろう。足柄新道の痕跡はないが、カーブの角度から推定すると、下方の⑭の広場に向かっているようだ。

⑰





⑰ ハイキングコースを南側の県道脇に降りる。
 この鞍部は堀切だったという。

竹ノ下 降り口前方の階段を登った所が通り尾砦跡とされる。
階段の手前が、竹ノ下への足柄新道の降り口。

      ( 続 く )

 足柄新道 相模側 (3)

    大正期 足柄新道 下部

相模足柄新道(上) 大正5年測量図 1/50000「関本」
(下) 昭和8年修正測図 1/50000「小田原」 足柄新道が表示されている。

足柄新道は軍用道路として建設された、という誤解が広まったのは、明治時代初めの新道建設を、地蔵堂の古老の思い出話に結び付けてしまったためであろう。

「広報みなみあしがら」No.425(2007年8月1日)に「明治8年には工一橋から現在の万葉ハイキングコース沿いに富士演習場へ大砲を引く新道を当時の工兵第一大隊が造りました。工一橋北へ吉田屋の弟和田大吉が茶店を新築し(以下略)」とあります。

明治7-8年に足柄新道を建設したのは矢倉沢・竹ノ下両村であることは前回
 足柄新道 相模側 (2) で述べた。
次に、「富士演習場へ大砲を引く」には 2 つの誤りがある。

現「東富士演習場」の歴史をみると、
明治29年(1896) 大日本帝国陸軍の最初の演習が行われ、以降時々演習が行われた。
明治41年(1908) 滝ヶ原廠舎(現・滝ヶ原駐屯地)設置
明治42年(1909) 板妻廠舎(現・板妻駐屯地)設置
明治45年(1912) 富士裾野演習場として正式に開設
となり、東富士で初めて軍事演習が行われたのは、足柄新道開設から21年も後のことだった。

戦闘中の短距離移動ならいざ知らず、長距離の移動、特に荒地行軍や山越のような場合は「大砲を引く」ことはなく、分解して馬に載せて運んだ。第二次大戦時でさえ(日本軍に限らず)馬に載せて運ぶことは珍しくはなかった。

日露戦争(明治37-38年)における主力山砲であった三十一式速射砲の重量は 908 キログラムもあった。重量と振動に対する耐久性からしても、1トン近い大砲を馬に曳かせて足柄山を越えるのは無理だろう。
次いで陸軍の主力山砲となった四一式山砲は540キログラム、馬2頭で牽引運搬(輓馬)でき、分解すれば馬6頭で運搬可能で、第二次大戦時まで使われた。
三十一式は明治31年式、四一式は同41年式の意である。
山を越える山砲は馬に乗せて運搬することになっていたから、足柄新道が馬車道である必要はなかった。

史談足柄39 「金太郎橋と地蔵堂トンネル」に、著者の幼少時(昭和初期)の記憶として、矢倉沢から地蔵堂へ「この道(今の工一橋付近の県道)」は「昔からの古道で狭い道を歩いて行った」と語られている。
また「歩いて行く道の所々が工事中で、道なき道を回りながら歩いて行った事もある」とも述べられているので、昭和初期に車道への改修工事が行われたようである。

工一橋北へ吉田屋の弟和田大吉が茶店を新築し」たのは大正2年頃だった。
「新道(橋)」「工一橋」と通称されたこの家には水車があり、精米・製粉業も営んだそうだ。

では、古老の話が間違っているのかというと、そうではない。
「10歳の時に体験した、明治7-8年(1874-75) の足柄新道建設の思い出」を語った話、と仮定すると、その話を聞いたのが1970年であれば、1864-65年生れの語り手はその時点で105-106歳、1980年なら115-116歳ということになる。ほんまかいな。
「大正2年(1913) 、10歳の時の道路工事の話」とすれば、1980年でも77歳となる。

古老の話は明治時代の新道建設工事ではなく、大正時代初めの赤羽工兵隊による改修工事の記憶、とみるのが合理的だ。それを聞き手の側が( 勝手に) 明治時代初期と誤解した、と考えられる。

明治時代に関本村を通った陸軍の記録としては、
明治16年(1883) 復路行軍中の近衛歩兵第二連隊第二大隊の約550名と軍馬4頭が関本村に宿泊。
明治17年5月、教導団歩兵大隊891名(休憩のみ)、同年7月、近衛歩兵第一連隊654名(宿泊)。
以後、明治19年、20年、24年、29年、43年に関本村行軍記録がある。その他にも記録に残っていない行軍もあったであろう。
その頃の関本村の人口は600人くらいだったから、大部隊を受け入れるのは大変だったようだ。

明治22年(1889)に東海道本線 (昭和9年に丹那トンネルが開通するまで、現在の御殿場線を通った) が開通した後も、陸軍は行軍演習として足柄山を越えたのである。

明治27-28年(1894-95)に日清戦争があり、大規模な演習場が必要とされるようになって明治29年に富士山麓で初の軍事演習が行われ、以後も同地で演習が繰り返されるようになった。

「明治三十二年(1899)十月軍用道路として必要たるに依り東京工兵大隊に於て、古往還の中途より新道を開鑿して幅二間とせしより、一般旅客登降大に容易となれり。(足柄上郡誌)」という記録も目にした。
ところが、「足柄上郡誌」(大正13年刊) をひもといても、このような記述は見つからなかった。内容が具体的なだけに、信憑性があるように思えるのだが、出所が分らない。
明治29年に富士山麓で最初の演習が行われてから3年後のことになるので、あり得る話ではあるが確認ができないので、ここでは、このような記録も目にした、というだけに留めておく。

明治37-38年(1904-5) には日露戦争があり、広大な富士山麓での軍事演習は重要性を増していった。東京との往復には東海道線が使われたが、格好の行軍演習道として足柄新道が使われ続けた。それが足柄新道の改修へとつながった、のであろう。

かくして大正2年頃に足柄新道の改修工事が行われた。
「頃」とするのは、確かな史料が残っておらず、そのような話が伝わっているだけだからだ。しかしその多くで「大正2年」が語られているので、この点はほぼ間違いがないように思える。工事は翌年まで、2年がかりで行われたようである。

ところで「赤羽工兵隊」は通称であり、正式な名称ではない。
明治20年(1887)、赤羽駅新設を機に、近衛師団工兵大隊と第一師団工兵第一大隊が丸ノ内から赤羽台 (現在の東京都北区赤羽駅から東十条駅付近) に移転した。この二つの工兵大隊を合せて「赤羽工兵隊」と呼んだ。

足柄新道相模側の開始地点にあたる「工一」橋の名称は、大正期足柄新道の建設工事にあたった第一師団工兵第一大隊の略称からきている。

「青山街道」とも呼ばれた矢倉沢往還が、しばしば行軍にも使われたためか、陸軍と地元との交流が続いたようだ。
治水碑(左)(足柄上郡開成町) 酒匂川右岸、中土手に立つ酒匂川治水碑。
足柄新道改修工事から25年後の昭和13年、九十間土手決壊時に赤羽工兵隊百十余名と横浜消防隊が出動し、中土手の応急処理によって水害が食い止められたことを記念して建立された。
(右)碑文に「赤羽工兵隊」「百十余名」と横浜消防隊の助力によって窮地を脱っした顛末がつづられている。

    [ 現地探索調査報告 ]

新道下部











 (下) 大正5年測量  5万分の1「関本」 大正期新道が建設されて間もない頃の測図。

⑨⑨ 表示板 赤丸印の上の太い横線が大正道。

足柄橋台跡?工一橋の左岸上流側に、人工的な石積にみえる所がある。かなり大きな石が、こんなふうに自然に積み上がるとは思えないし、背後は平坦。足柄橋(子楢尾橋)、後には工一橋の橋台だったのでは。
下流に堰堤ができる前は、ここも深い谷だったはず。

史談足柄39「金太郎橋と地蔵堂トンネル」より引用:
「(工一橋は)昭和23年のアイオン台風の時に流失同然になった。その時(架けかえられた)工一橋は、以前よりも五メートルも高くなってしまった。昔は現在よりも、もっと低い所まで下らなければならなかった。」
1948年に架けかえられる前は、現在の工一橋より5メートル近く低い所に橋があったという。とすると、上の写真が旧橋があった場所なのであろう。

大正道分岐





① 明治新道・大正期道路分岐点。
明瞭な道跡はない。

②-1




② やがて大正時代の石積が現れる。
明治時代の石積より大きな石が使われている。

②-2






さらに石積が続く。
上は法面擁壁、右下は路肩側擁壁。その間を道路が通っていた。

②-3



法面擁壁と、左下に路肩側擁壁
その間が道路だったはずだが、道の跡はまったくない。

残存する最後の石積から地蔵堂トンネルの上まで何の痕跡もなく、道路がどこを通っていたのか分らない。③






③ 地蔵堂トンネル東口の上に石の列。

④






④ やがて道跡が現れる。

⑤





⑤ 尾根を北面に回り込む。

⑥






⑥ 所々に道跡が残っている。

⑦-2



作業道路として利用されている所もある。
1年前、この作業道路はなかった。1年後には消えているかもしれない。

⑦






⑦ 2019年10月の台風19号で崩落した道跡

これより先に明瞭な道跡はなく、このあたりかな~と思える所を追って行く。
標高455メートルあたりで山伏平・矢倉岳への登山道を横ぎる。
その先も明瞭な道跡はなく、それっぽい箇所をたどって行くと、やがてそれも消え失せる。
⑨ の表示板から推測すると、おおむね大正道をたどって来たようだ。

ほどなく、1980年ころに建設された万葉ファミリーコース(登山道)に合流して尾根をたどり、標高550メートルで右(北)に山腹をトラバース、コナラオ沢源流の支沢を小さな橋で渡る。
この間の足柄新道は、万葉ファミリーコースと同一のように思える。

小さな橋を渡った地点から上は、次回報告する。

      ( 続 く )

 足柄新道 相模側 (2)

   明治 7-8 年 足柄新道建設

足柄新道

(上)足柄新道相模側 推定図
(下)明治29年修正 明治31年発行 5万分の1「小田原」

「明治十八年 矢倉沢村皇国地誌  足柄新道 是明治八年古道ノ嶮ナルヨリ更ニ開キシ道ナル故ニ新道ト称フ、元標ニテ足柄道ヲ分レ中部ヲ西北ヘ登ル千四百四十間幅弐間戌五度字古楢尾ヨリ駿州駿東郡竹ノ下村ヘ通ズ」

明治 7 - 8 年に矢倉沢・竹ノ下両村が建設した足柄新道に関しては、誤った説が流布している。
最たるものが「足柄新道は軍用道路として赤羽工兵隊が新設した」という誤解である。
地蔵堂の古老の話を、最初の新道建設と結び付けてしまったところに、その原因があろう。

南足柄市史によると、
明治7年(1874) 5月、矢倉沢村から竹之下村間に両村の村費で新道を開き、通行人馬から向こう7年間、途中の子楢尾橋で橋銭を取り立て、工事費の償却に充てるという計画が内務省に上申された。
矢倉沢・竹之下間新道工事は明治8年(1875) 2 月竣工、同年3月、内務卿の指令により官有地第3種への道路敷の編入と橋銭の掲示を条件に、7年間の橋銭取立て(一人3厘、牛馬一匹5厘)が許可された。(以上、南足柄市史 7 p.82 以下)
足柄新道は明治9年6月、仮定県道に編入された (同書 p.271)。

史料どうりであれば、橋は当初「子楢尾橋」という名称だったことになる。
だが明治18年の矢倉沢村皇国地誌には「足柄橋 字楢尾ニアリ内川ニ架シテ足柄道ニ通ズ、長十弐間幅弐間木製ナリ」と書かれているから、明治18年には「足柄橋」と呼ばれていたのは確かである。
当初の案を変更して、新道開設時から「足柄橋」に名称を変えたのだろうか。あるいは 7 年後 (明治15年) の通行料無料化、ないしは明治9年の仮定県道編入を機に名称変更した可能性もあるかな。

アーネスト・サトウは「明治日本旅行案内 東京近郊編」(庄田元男訳 2008年刊 東洋文庫) の中で、箱根宮ノ下-明神岳-最乗寺-矢倉沢-足柄新道-竹ノ下-御殿場-乙女峠-宮ノ下という一周コースを紹介している。
案内記であるため日付はない。明治10年 - 同14年の間であろう。

同書 p.237以下から足柄山越え部分を引用する:
「距離にすると(矢倉沢から)二里で登りはさして険しいわけではないが、裸山なので夏の峠越えは暑い。一二町ほど(約1.3km)矢倉沢(往還)を登ったところで「旧道」と「新道」に分かれるが峠の西麓にある竹ノ下村で再び合流する。右の新道を選ぶ。分岐点より間もなくのところに内川に架かる橋があり少額の通行料が要求される。峠の頂上付近ではどこからも富士の眺めはよく、その低い地点から道は左手に向かって二番目のより簡単な登りへと曲折していく。」

当時の足柄峠付近は「裸山なので」「どこからも富士の眺めはよ」かった。
「旧道」は定山城址-地蔵堂経由の足柄峠道、「新道」は足柄新道を指している。
両道は「一二町ほど矢倉沢を登ったところ」=馬場平 (陣場) で「分かれる」。「少額の通行料が要求される」「内川に架かる橋」は子楢尾橋 (あるいは足柄橋) である。
「峠の頂上」は足柄新道が尾根を越える地点 (東側から県道78を登って稜線に達した地点) のことで、足柄峠ではない。

続く「その低い地点から道は左手に向かって二番目のより簡単な登りへと曲折していく」 は足柄新道駿河側 (竹ノ下村が建設したのであろう) の描写で、「低い地点」は釜ツ沢(大沢支流)の標高550m地点であり、大沢に沿って降りて来た「新道」はこの地点から「左手に向かって二番目のより簡単な登りへと曲折していく」= 左岸の山腹をうねうねとトラバースし、通り尾と通称される尾根へと緩やかに登っていく。
簡素な描写であはるが、足柄新道に触れていて貴重だ。

足柄新道の道路状態がどんなものであったかを具体的に示す史料はないが、明治13年に関本村で行われた矢倉沢往還改修工事は、土と小砂利を路面に盛って塡圧する簡便なもので、荷車や馬車の通行に耐えうるものではなかったが、歩行や牛馬の通行には役立ったと思われる (南足柄市史 7 p.275) 、という。
足柄新道開設から5年後に改修工事が行われた関本村のメインストリートでさえこの程度であったとすれば、まして山中の足柄新道が立派であるはずはなく、足柄峠越えの矢倉沢往還と同程度だったのだろう。

足柄新道の最大のメリットは、傾斜が緩いことにある。
重荷を積んだ駄馬(荷馬)は下り坂で後足が滑りやすく、それが転倒、ひいては転落の原因となる危険性があるから、馬にとって緩傾斜は大きな利点となる。
足柄新道は馬による輸送の促進を主な目的として開発されたとみてよいだろう。

 1. 下部

    [ 明治期足柄新道 ]

下部









新道入口



足柄新道入口。
狭く思えるが、車道を開鑿して法面が形成された時には、すでに足柄新道が山仕事の道としてしか使われなくなっていたため、この幅で充分とされたのだろう。

①




① 入口からほどなく放棄された小さな畑地となり、その東端に、草に埋もれた低い石積が所々に残る。

大正道分岐







② やがて大正期の道が右に分れる。

明治 1



③ 大正道分岐から藪の中を左斜上すると、足柄新道の石積が残っていた。

明治 2




わずかに石積が残存するものの、道路の痕跡はほとんどない。

④ 藪をかき分けて道路跡かな~、みたいなのを追って行くと、西側の尾根道からトラバースしてくる山道の終点に出る。
以前は終点あたりの山肌に石積がわずかに残っていたが、2019年10月の台風で崩れ、消え失せた。もっとも、その石積が足柄新道の擁壁であったかは、わからない。
④
⑤ そこから右上に上った尾根上は開削され、トタン板の小屋が建っている(写真の右上)。
あたりは荒れ果てており、何のために開削したのか不明。畑だった (にしようとした) のか?
さらに上の藪に突入してみたものの、道路跡は見つからなかった。

28号送電鉄塔東






送電鉄塔東側の平坦な尾根にも、道路跡はない。
⑥




⑥28号送電鉄塔から西の広い尾根にも、道路の痕跡はない。
⑦-1



⑦ やがて県道からの道が合流。
直進するとハイキングコース (万葉ファミリーコース) に合流する。
左の林中に下の写真の表示板がある。表示板 1

赤丸印が表示板の位置(赤字加筆)。
明治期と大正期の足柄新道が記入されてる。
「大正十四年事務報告 付財産表 足柄上郡北足柄村役場」(南足柄市史 4)の「財産明細書 土地ノ部」に「同(=矢倉沢)字古なら尾 山林 3206反 161円 旧道路敷」とある。村が旧道地を買い取って山林としたようだ。

⑦-2

⑦ の北側、7- 8 メートル下に大正期の道路跡。
現在、山仕事の作業道として利用されている (2022年3月撮影)。1 年前、この作業道はなかった。

⑥
⑧ 以下、撮影方向が逆向き(東向き)になる。ご容赦!
尾根が狭くなる。この道は後に整備されたのであろうが、右側の太い杉並木は足柄新道に沿って植えられたものか?樹齢140年以上なのか、あるいは後に植えられたのか。

このあたりから北面を見下ろすと、すぐ下に大正期の道路跡が識別できる。

⑨



⑨ 道路脇の表示板 ⑨と赤丸印の間が現在の山道。赤丸印の上が大正期足柄新道。

⑨-2




⑨ の表示板南側の尾根の上。
明治足柄新道跡のようにも見える。

⑦



⑩ ハイキングコースに合流する手前。
道が少し下りになる。
足柄新道は、写真右側の杉並木のさらに右、尾根上を通っていたと思われる。


⑪-2




⑪ 茶畑東側。
両側に太い杉並木。その間が足柄新道だったのだろう。

⑧正面の茶畑との間を地蔵堂からの万葉ファミリーコースが横切り、右下に降りると最前の道に合流する。
茶畑の右 (北) 端に沿って太い杉並木が続いている。足柄新道は茶畑の右端を通っていたのだろう。

万葉ファミリーコースを進むと、道に沿って少し上に道路跡かな~とも思える帯状地形が少し続く。
⑨


⑫ 広い尾根上は、かつて畑だったようで、プラスチック容器を利用した井戸の跡(左下)が残っている。

尾根がこれだけ広ければ、ここに道を通すと思うけど、どうだったんだろうか。

貉畑⑫ の先(西)の鞍部を、山道が南北に横切る。
南の道(廃道)は相ノ川左岸の水田につながり、北に山腹をトラバースする山道はコナラオ沢を渡り(左岸に小さな水田跡あり)、江戸時代の絵図に「貉畑」と記された割と広い段々畑跡を過ぎてナラオ沢合流点に至る。

貉畑
貉畑跡に残る井戸枠

     ( 続 く )

 足柄新道 相模側 (1)


     こなら尾入会道

足柄新道の検証に入る前に「南足柄市史 」(3) と (6) を参考に、前段階である江戸時代の入会道であった 一ノ瀬道 - こなら尾道 についてふれておく。

丹沢・足柄山地で見られる「× × 尾」の「尾」は尾根のこと。
平安時代中期、10世紀末-11世紀初めの作とされる「うつほ(宇津保)物語 巻1 俊蔭」に、山中に響く琴の音色に、山の獣(けだもの)が耳を傾ける、という場面があり、「尾一つ越えて、厳めしき牝猿子ども多く引き連れて来て・・・」と続く。
この「尾」が尾根のことで、千年前から使われていた言葉である。

猿山村里程記入絵図 天保2年(1831)「猿山村里程記入絵図」(部分)
 天保2年 (1831)

「新編相模国風土記稿」(1841年完成) の「足柄山」では、足柄山の範囲を次のように述べており、江戸時代 (天保期) の「足柄山」は、矢倉沢村から西の相ノ川・内川・狩川流域一帯を指している:
「(足柄上) 郡の西にあり。古 (いにしえ) は郡中連山の総名なり。今は駿州の界なる足柄峠辺の諸岳を括称して足柄山と呼り (略) 西は駿州駿東郡に跨り、南は本郡 ( 足柄上郡) 仙石原・宮城野二村の諸峰につづき、北は谷ケ・平山・内山三村の村落に接し、東の山趾は矢倉沢村なり」

「足柄山」に入会う村々は矢倉沢往還-一ノ瀬道-こなら尾道と、狩川左岸沿いに矢倉沢峠を越えて仙石原に通ずる川入道を使った。

宝永4年の富士山宝永噴火 (1707年12月16-26日) の際の降砂と、翌年の大雨による甚大な被害からようやく回復し始めた足柄の村々が再び入会山に入るようになると、様々な問題が発生した。
そこで元文3年(1738) 10月、代官所が「山切り」(山ごとに入会村を定める) を実施、(山元の矢倉沢村も含めて) 39ヵ村が足柄山への入会を認められた。

ところが同年11月、矢倉沢関所が関所要害地として「入会山道」のうち「川入道・こなら尾道入会之人馬一切不罷成」(人馬通行禁止) とした。
道作りもできず、しかも山元の矢倉沢村が勝手に木を伐って炭焼をするので薪が不足する、と困り果てた「入会三十七ヶ村」は宝暦12年(1762)、入会道の通行許可と炭焼の差止めの願書を代官に提出したが、簡単には解決しなかったようである。
明治2年1月、関所廃止が通達されて要害地指定は解除された。

川入馬頭観音矢倉沢往還と川入道の追分に立つ、明治時代の馬頭観音碑。狩川上流へ向う現在の車道分岐点から200メートルくらい西。
(左)正面:「入会郷中安全 馬頭観世音 冨士玉山」
裏面:「明治廿一年子五月再建也」(末尾に)「矢倉沢村 入会外三拾ケ村」
矢倉沢村と入会30ヵ村で建立したことが読み取れる。
冨士玉山(1838-1892)は岸(山北町)に住んだ丸岩講の大先達・書家。
富士講の一である丸岩講は武州岩槻(現・さいたま市)に興り、足柄地域にも広まった
(右)馬頭観音碑の前から左に分れるのが旧・川入道 (廃道)。

川入道




少し先に、古い川入道の一部が残る。

明治8年に調査された入会共有地のうちにも「字コナラヲ 秣場 壱ヶ所 此反別不詳」の記述がある。
    
   [ 現地探索調査報告 ]

入会道
①から⑥の赤破線が(推定)こなら尾への入会道。
⑦ は明治7-8年に建設された足柄新道。
⑧ は大正2年 (頃) に建設された(第2期)足柄新道。

馬場平 (陣場) からこなら尾へ向かう道は、一ノ瀬道と呼ばれていたようである。

① 県道78号線の金太郎橋東側から北に降りて内川に向うと、右岸に降りる道がある。
古い道ではなく、釣師などが通ってできたのだろう。

渡河点

② 金太郎橋直下 渡河点?
対岸の少し下流は岩壁がそそり立っていて渡れず、上流側に斜めに渡るしかない。
写真手前、右岸の山裾に、やや幅広の道跡らしき地形がある。入会道の痕跡かとも思うが、はっきりしない。

渡河点 一ノ瀬
左岸から撮影 このあたりで渡ったのであろう。
通常水位であれば、深くても膝あたりまでなので、橋はなかったか、あったとしても、増水ですぐに流されてしまうような丸木橋ていどで、馬は徒渉させたのだろう。
右側(左岸) に2019年10月の台風19号で堆積した厚い砂の層が見える。

「一ノ瀬」の「瀬」は浅瀬、「一」は最初、あるいは一番渡りやすい、といった意味であるらしい。「四十八瀬」は何度も徒渉する(「四十八」は多数の意)という意味のようである。
矢倉沢から登って来ると最初に渡る「瀬」、あるいは一番渡りやすい「瀬」であるとすると、この徒渉地点は、どちらにも当てはまる。

堰堤
③ 一ノ瀬の峡谷 
上流に高さ5メートルくらいの堰堤がある。
金太郎橋下から上流側、左岸は杉林だが、右岸には岩壁が連なって峡谷になっている。
左岸側の字(アザ) 名も「一ノ瀬」。
古くは万治2年(1659) 矢倉沢村検地帳に小字名として「一ノ瀬」がみえる。

工一橋


④ 堰堤より上流側から工一橋。
堰堤ができたため川底が上って河原になっているが、かつては深い谷だったはず。

左岸の道?


⑤ 堆積した砂山あたりから左岸に這い上がると、杉林の中に踏み跡がある。
これは古道ではないが、入会道はこのあたりを登っていたのでは。

石積擁壁


⑥ 石積擁壁
雑木林を這いずり回っていたら、かなり大きな野面積の壁が現れてビックリした。

石積ここを入会道が通っていたことは間違いない。

位置は、堰堤より少し上流側、河原から15メートルくらい上かな。

      ( 続 く )

 「足柄古道」地蔵堂-元標


 「明治18年 矢倉沢村皇国地誌」
  に記された「足柄古道」


地蔵堂の古老の話などによると、大正2年頃に地蔵堂の和田氏が「工一橋」のたもとに居住するようになるまで地蔵堂-工一橋間には道がなく、矢倉沢に行くには (蛤坂を?) 定山に登り、ひじ松の上方を通って尾根上を馬場平に向った、ということである。

史談足柄 39 石村豊著
「金太郎橋と地蔵堂トンネル」に、著者の母の小学生時代には、ひじ松の上方を通る山道 (定山の道) が通学路だった、という話が語られている。
著者は昭和初期に幼児だったそうだから、大雑把に言って、母親が小学生だったのは明治末期になろう。

内川を渡ってから、どこを登ったのか、はっきりとはわからない。
蛤沢左岸尾根に道 (蛤坂?) があったのではないかと思うが、不明。

明治時代後期、地蔵堂の児童は矢倉沢の小学校に通った。

明治23年、尋常矢倉沢小学校開校。明治41年4月、尋常北足柄小学校矢倉沢分教場となる。学校の所在地は不明。
明治43年3月、矢倉沢長坂444番地に尋常矢倉沢小学校として復校。
その後、紆余曲折があって、最後は
北足柄小学校矢倉沢分校となり、1964年3月、閉校した。
小学校(左)大正10年測量「山北」 赤円は明治43年から1964年までの矢倉沢小学校所在地。
(右)長坂444番地は県道78号線の北西側、関場と本村の間の尾根上で、跡地は陶芸工房になっている。

地蔵堂からは、まず谷に降りて内川を渡り、定山の尾根まで80メートルほど登って尾根道を北東に降りていく。距離は4キロメートル近くあるだろう。帰りは定山へ200メートルの登り。
通学は大変だったろうな。

「大正十四年事務報告 付財産表 足柄上郡北足柄村役場」(南足柄市史 4) の「財産明細書 土地ノ部」に「矢倉沢字長坂 小学校教員菜園地 0,723反、同 教員住宅々地 92坪、同 小学校敷地 29坪 矢倉沢小学校使用」、「財産明細書 建物ノ部」に「矢倉沢字長坂 同(=平屋亜鉛葺)、同(=建坪)九九坪四二 尋常矢倉沢小学校々舎」とあります。

「教員菜園地」が約217坪、家庭菜園付き教員住宅だったんですね。「敷地」より建坪の方がはるかに大きい。「29」は 129か 229の間違いなのでは。

      [ ひじ松 ]

ひじ松


伝説では、源頼朝が富士の巻狩に行く途中、ここで露営した。
宴をしていると、松の枝が邪魔で月が良く見えない。家来が松の枝を捻じ曲げると、月がよく見えるようになった。
その枝が、曲った肘のような形になったため「ひじ曲り松」と用ぶようになった、という。


ひじ松神社(左)2019年のひじ松神社。かつては定山林道の南側直下にあり (現在も礎石が残る)、鳥居もあった。
撮影時には、林道反対側の道傍に置かれていた。お札には墨で「昭和拾四年五月大吉日 月夜見ひじ松神社」「北足柄村矢倉沢」と書かれている。
(右)現在のひじ松神社。県道開通にともない、100メートルくらい西の道端に移設され、脇に新しいひじ松も植えられた。

     [ 足柄古道 ]

ところが「明治18年 矢倉沢村皇国地誌」には「地勢 足柄道ハ (中略) 字地蔵堂ナル元標ノ地ニテ両派トナリ其一ヲ足柄新道ト称ヘテ西北へ赴キ其一ハ足柄古道ト云ヒテ西へ躋(のぼ) リ足柄峠ノ頂上ニ達ス」との記述がある。
「足柄道」が「元標ノ地ニテ」二つに分れ、明治8年(1875)に開設されたこなら尾経由の「足柄新道」は「西北へ」向い、「足柄古道」は西 (地蔵堂から足柄峠) へ登っていく、というのである。上記した古老などの話と矛盾するではないか。

ここにいう「足柄古道」は、新設された「足柄新道」に対して、江戸時代からの旧街道につながる道、といった意味で使われているのだろう。

矢倉沢へ行くのに定山の道を通ったのは、有料の「足柄橋」(「子楢尾橋」)を避けたのだろうか。
しかし、「足柄橋」が有料だったのは明治14年までの7年間で、以後は無料になったはずなのだが。あるいは、有料期間が延長されたのか。
どういうことなのか、分らん。謎である。

    【 現場調査報告 】

地蔵堂-足柄橋




「明治18年 矢倉沢村皇国地誌」に記された「足柄古道」の跡を、
地蔵堂から工一橋 (足柄橋) へとたどる。

足柄古道(左)明治29年修正 明治31年発行  5万分の1「小田原」 「元標ノ地」から地蔵堂への「足柄古道」が記入されている。
(右)大正5年測量  5万分の1「関本」 足柄新道が改修されて間もない頃の測図。
明治時代の新道と形状が変わっている。

「うるし亭」の向い側を降り、内川を上流に向う旧矢倉沢往還を右に分け、下流に進む。
相ノ川右岸の道① (左)相ノ川右岸へ尾根を回り込んで、渡河地点へ降りて行く。

(右)
わずかに残る路肩側の石積擁壁跡

橋跡
② (左) 相ノ川に架かっていた橋の橋台が残っている。
(右)なぜか橋台から鉄棒が対岸に渡してある。

対岸






対岸に、旧版地形図にも記載がある民家。鉄棒の下に堰堤。

足柄古道

③ 相ノ川合流点から内川左岸を下流に向う舗装道路。
すぐ上に県道。前方のカーブの先が終点。右側は水田。
この道路が、元は「元標ノ地」に続く「足柄古道」だったのではないかと思う。

元標の地④ 現在の「元標ノ地」 
右側に「足柄新道」入口 
車道開削によって斜面が削られているが、「足柄古道」は尾根末端を回り込むように、車道より外(川)側を通っていたんじゃないかな。

「明治十八年 矢倉沢村皇国地誌」に「掲示場 元標ト併立ス」と書かれている。この地に元標と掲示板が並んで立っていたのだ。江戸時代には矢倉沢関所内に「高札」があった。

工一橋⑤ 現在の「工一橋」。

明治8年に足柄新道が建設された時には「子楢尾橋」もしくは「足柄橋」という有料橋であった。アーネスト・サトウもこの橋を渡った。大正2年頃の足柄新道改修以後「工一橋」と称されるようになった。

      では、また!

 矢倉沢往還 足柄峠道 (7)

  矢倉沢往還  足柄峠 -寺庭


駿河(上)「矢倉沢通見取絵図」文化3年(1806) (部分に加筆)

「見取絵図」の矢倉澤往還 (甲州道) は、足柄峠-芭蕉碑の間が実際よりかなり北東寄りに描かれている。
 
南足柄市史6 p.268「南足柄市史 6」p.268 から転載

足柄峠西側から足柄峠
吊橋の左が一の郭、右が南廓 (山の神郭)。
古くは稜線 (=吊橋が架かっている所) が国界だった。

峠の東寄りが国界になったのは、正保年間 (1644-1648) 頃からともいわれる(「相中留恩記略 足柄城蹟 今は駿河国駿東郡竹之下村に属すれど、正保のころまで尚、当国(=相模国)の内に隷す」)が、「足柄上郡誌」(大正13年刊) には「元禄十三年(1700) 駿相の国界も改定あり、旧足柄上郡の西方足柄峠峰通り国界たりしを、此時峯より此方十町余を下りて、二洲の界とせらる。」とあります。

山神祠

(左)
南廓 (山の神郭) にある山神祠。
(右)奉納された札に「足柄山神社」と記されている。

この郭には物見台があったとの伝承あり。足柄城


「古城山」足柄城址 一の郭 (本郭)

左に、大正から昭和期にかけて活動した歌人・小説家、生田蝶介の短歌碑が立つ。戦時中、生田は小山町に疎開していた。
「全貌を 裾野まで見せてあますなし 
  不二は悠然と 天ささげ立つ」

「相中留恩記略 足柄城蹟」に「城蹟は(略)陸田を開けり」とあり、天保期(1830-44)には畑になっていた。「今も耕作の時、まゝ、焼ふすぼりたる穀物を掘得る事あり。これ粮米の遺りしなるべし。」落城時に焼けた穀物が、土中にまだ埋っていたらしい。
右手の木立の中にある玉手池は「石にて畳あげたる井戸あり。」とされ、石が張られていたのだ。

足柄城は駿東郡が今川氏の領国になった天文6年(1537)、北条氏綱が国境警備のために築城したとされる。
天文24年(1555)には氏康が足柄城普請を実施したとされ、城としての体裁を整えていったようである。

「小田原記」(「北条記」とも。桃山時代に成立か、とされる軍記物語。信憑性にやや難がある。)は「其年(永禄3年=1560)の八月、(北条氏康が)足柄の城御普請御順見の為に、御馬出さる」と氏康の足柄城普請の視察を伝え、その後も石切衆を動員して改修を重ねた。
現在見られる城跡の規模になったのは、天正18年の秀吉による小田原攻めの直前だったと考えられる。

天正18年(1590)、秀吉の小田原攻めの際には北条氏忠が城代となり、鉄砲・弓・槍隊及び足軽百人を率いて守りについた。
3月29日、山中城落城の報に接した氏忠は依田大膳亮に守備を任せて小田原城へ撤退。
4月1日、井伊兵部小輔直政隊の攻撃であっけなく落城、北条軍残留部隊の雑兵26名が討たれたという。

玉手池② 玉手池 通称「聖天さんの池」
車道工事後、水量が減って水が涸れるようになった。
聖天堂の左から玉手池に通じる山道があるが、かつては堂の右 (茶屋との間?) から池への道があったという。たしかに、池の東側から幅広い道跡が途中まで聖天堂の方に続いている。

玉手池は雨乞いの池であり、底知らずの池ともいわた。
池の底に穴があって、小田原の海まで通じているので水が涸れることがないといわれ、その穴が詰まると日照りになるとされた。
地蔵堂の雨乞いでは、夕日の滝の水を竹筒に詰め、聖天堂で降雨を祈願してから玉手池に竹筒の水を注ぎ、穴の詰りを除去するために池を棒でかき回したそうである。

「玉手」の名称が出現するのは安政7年(1860) 「聖天宮厨子再営勧進書」が最初ではなかろうか。寛保3年(1743)「足柄古城跡書上」には「聖天宮社」だけが記されており、天保10年(1839)成立の「相中留恩記略」には「石にて畳あげたる井戸あり」とあって「井戸」にはまだ名がなかったらしい。

「聖天宮厨子再営勧進書」では「玉手神宮」が「異形之(両)神」となって「池之辺(ほとり)ニ立」ったとされるが、「池」とあるだけで、特に現在の「玉手池」を指しているわけでもないようだ。

とすると、本来は足柄城の井戸であったものが、この話から「玉手神宮」(玉手姫)が「辺ニ立」った「池」ということにされたんじゃなかろうか。
中世の山城の井戸には大きいものもあり、この井戸も元から現在のように池と言えるような大きさがあったのか、あるいは「玉手池」ということにされてから拡張された、とも考えられる。

笛吹石③ 「新羅三郎義光吹笙の石」

寛治元年(1087)、後三年の役に参陣するため東国に向う途上の新羅三郎(源)義光(甲斐源氏の祖とされる)が豊原(藤原)時秋に、「柴を切り払ひて、楯二枚を敷きて」それぞれ座り、笙の秘曲「大食調入調(たいしきちょうにゅうじょう)」を伝授して時秋を京に帰した、という話が『古今著聞集』巻6(建長6年=1254 編纂) にある。
この話では、座ったのは石ではなく盾であった。

だが、実際には別れを告げたのは時秋の父・時元に対してであり(寛治元年に時秋はまだ生まれていない)、その場所も足柄山ではなく逢坂関であった、とする説が有力。
義光をめぐる幾つかの伝承から、このような物語が織りなされたのであろう。

古見豆人の句碑「古見豆人の句碑」(中央・奥の石碑) 1954年建立
「春風は いとけなき日の 匂ひかや」

古見豆人(本名・一夫)は天城出身の俳人。小山町の小学校長在任中、足柄山の金太郎伝説を研究。著作に「坂田公時の研究」がある。

金太郎が足柄峠から放り投げたという「金時礫石」は、峠から30メートルほど西の、このあたりにあった。
その石が、おそらく昭和初期に「新羅三郎義光吹笙の石」に変えられてしまったようである。
しかも、戦後の車道拡張工事の際、その石は谷に放り捨てられてしまった。

礫石④現在の「金時礫石」とされる石(左手前) は、さらに30メートルほど西の「一切經寶塔」(嘉永七年。奥の白看板)の手前にある。かつては石の前に解説板が立っていた。

「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」作者不詳 (天保9年=1838)「六月廿八日 竹の下宿 (一行中3名)駕籠ニ而出立。藤・予馬ニ乗。 是ゟ(より)相州足柄峠へ懸るル。(略)雨後 道筋殊之外悪敷。 峠道端ニ金時石有之。是ハ金時山ゟ金時投ケ候石のよし。」
一行5名中、3人は駕籠、2人は馬で足柄峠を越えた。雨の後で、道が相当ぬかるんでいたようだ。「金時石」は金時礫石である。

「金時礫石」がたどった変遷を、「史談足柄39 調査報告」から引用・要約する。
大正11年(1922)、足柄峠を訪れた鳥居龍蔵博士は地元の案内者から、義光が時秋に「管弦の奥義を伝授したといふ笛吹き場所が此峠にあるけれども、地点は判明しない」と説明された。
そして、ここが義光吹笙の地とされるようになったのは、石原和三郎(慶応1年-大正11年)の詩「足柄山」が小学校高等科の国定教科書に載ったためではないか、と推定している。その詩には「足柄山の夜半の月 空澄み渡る笙の音に(以下略)」とあるそうだ。

「笛吹き石」ではなく「笛吹き場所」と表現されていることに注意したい。まだ車道がなかった大正時代、「金時礫石」は健在だったはずである。

「足柄上郡誌」(大正13年刊)では「笛塚 峠に、長七尺横六尺許の地を笛塚の遺蹟と称し居る」と述べた後、「彼の地(=足柄峠)に祀れる聖天は或は笙伝を伝えたるものならんとも云へり。」とこじつけている。

大正11年には「笛吹場所」の「地点は判明しない」とされたが、2年後に刊行された「足柄上郡誌」では「笛塚の遺蹟と称」する特定の「地」が出現しているのだ。
この時点で「笛塚」が唐突に出現したのは、鳥居博士の足柄峠訪問が契機になったのではないだろうか。

源義光故地1937年(昭和12年) 沼舘愛三作図 「駿州足柄城址見取図」( 部分「史談足柄 39」より転載)

この図では峠から30メートルほど西に「源義光故地」と記入され、「礫石」は見当らない。

「笛吹石」の初見資料は昭和7年8月刊 高橋美策「足柄読本」だそうである。
この書によって「笛吹石」が誕生したと考えてよいようである。

足柄峠の笛吹伝承が「笛吹場所」⇒「笛塚」⇒「故地」⇒「笛吹石」(「吹笙の石」)と変化した様が見てとれる。

「金時礫石」は、第二次大戦後の車道拡張工事中に谷に投げ捨てられてしまったそうである。
後に「沢に埋没しているのを発見復元した」というが、「発見」されたのが「金時礫石」なのか、あやしい。
「発見復元」された「金時礫石」=「吹笙の石」は、さらに現在地に移された。
峠越えの車道は1973年に全線舗装され、県道に昇格した。

西の出丸
⑤ 仮称・西の出丸 (車道左の丘)
物見台があった、との伝承がある。南東側に竪堀があった。
右下に見える湾曲した舗装が旧県道跡。
旧街道は右側の四の郭と、仮称・西の出丸との間の堀を通っていた。
車道東側





⑥ 車道の東側の堀。街道はこの堀を通っていた。

車道西側




同、西側。
古道は堀の中を進む。

堀





⑦ 堀の中。 右に車道。
堀西端 古道跡






堀の端(画面左端)に古道跡

下六地蔵
(上) ⑧八体地蔵 (下の六地蔵)
実際には7体の地蔵尊像と、右端の小さな像の8体で構成され、台石銘文から、享保2年(1717)に江戸本所近辺の人々が建立したと推定される。
地蔵尊のうち1体の台石に「享保二丁酉天(1717年)」とあり、 4体に「江戸本所緑町二丁目」と記されている。
(右)奉納された卒塔婆には「七体お地蔵様寶塔一基追善」と書かれており、右端の小さな石造物は宝塔 (多宝塔) らしい。
(下)下の六地蔵の裏(北東側)に降りると堀切があり、対岸が小さな高まりになっている(堀切の右側)。これが下六地蔵平場であろう。
「見取絵図」にある「此辺 字西シ之 河原」はこの場所を指すか。

わざわざ「シ」を加えて「西シ之河原」としたのは、サイノカワラではなくニシノカワラであると、強調したのだろうか。
「西シ之河原」=賽の河原であるとすれば、堀切を冥途の三途の川と見立て、幼くして亡くなった子供をお地蔵さまに救ってもらう、という構図が成り立つように思えるが、全然ちがう?
道標(左)八体地蔵 (下の六地蔵)の左に立つ道標・馬頭観音碑
「馬頭観世音菩薩 ふじみち 竹ノ下 岩田氏」
「岩田氏」は、竹ノ下にある文化八年 (1811) の馬頭観音碑に書かれた「当村 岩田氏」と同一人物ではなかろうか。
(右)竹ノ下・馬喰坂 道標・馬頭観音碑
正面:「馬頭観世音菩薩 当村 岩田氏」
左面:「左 小田原 大山 道」
右面:「文化八辛未天七月吉日」

芭蕉碑
⑨ 松尾芭蕉碑 建立は嘉永期(1848-1854)か?

「芭蕉翁 目にかかる 時やことさら 五月富士 発願 牛翁」

「牛翁」は俳句宗匠・牛負庵牛翁、本名・蛭子屋 (えびすや) 藤吉(1785-1860)、御殿場村で穀物商を営んだ。

この碑の向い側に赤坂道の降り口がある。
旧街道は八体地蔵の前を通り、車道よりやや高い芭蕉碑あたりから手前側にカーブして赤坂道に降りていたように推測される。
寺庭
「足柄城現況遺構調査報告書」(小山町 1989年)より転載。
 
かつて「寺庭」から多量の布目瓦の破片が採集されたという。
布目瓦は、台の上に布をかぶせてから板状の粘土をのせ、叩いて形成した。古代から作られたが、室町時代に布に代わって雲母粉(きらこ)を使うようになり、次第に減っていった。

いつの時代のことか、この場所に寺があった、ともいう。

また、寺庭は聖天堂の旧地かも、という話もある。

赤坂⑩ 赤坂 (西口古道)
付近で須恵器の素材となる赤土が採れたため「赤坂」の名がある、という。
写真のほぼ正面で北口古道が分れる。
「足柄城現況遺構調査報告書」によると、写真の手前側に虎口があり、このあたりは桝形だった。この先から道は左に湾曲し、反対方向に進むようになる。
北口古道分岐点



⑪ 笹藪でおおわれた北口古道分岐点。

「山道 従是虎子石江道法五丁程」(「見取絵図」)の「山道」が北口古道にあたる。

北口古道






笹藪に埋もれた北口古道跡の掘割。

北口古道 2





⑫ 車道に出る北口古道(中央)。
 枯枝でふさがれている。
北口古道 続き





⑬ 車道反対側に続く北口古道。
古道らしき面影はない。
寺庭





⑭ 寺庭 足柄城西端の郭。
布目瓦の破片が大量に見つかったという。
大堀切






⑮ 大堀切 寺庭南側の堀。
古代官道跡の可能性も指摘されている。

直路ケ尾
⑯ 直路(すぐじ)ケ尾

名称のとおり、短時間で地蔵堂川に降り立てる。
古い道跡も少し残っているが、主要道だったようには見えない。降りて行くと、戦ヶ入林道の虎御前ルート入口に至る。

竹之下村絵図面「駿河国竹之下村絵図面 」(部分)
  延宝8年 (1681)

「古足柄」への道(北口古道・峯通り)分岐あたりから下方が「茶倉」と呼ばれていたようである。

「古瀧」は現在の不動滝、滝下に「熊野」社。

     ( 続 く )

 矢倉沢往還 足柄峠道 (6)

 矢倉沢往還 地蔵堂-足柄峠 (4)

    ( 承 前 )

 3.古道-金蓋石-聖天之社

金蓋石-聖天堂-(下)「矢倉沢通見取絵図」文化3年 (1806) 完成

見晴台から車道沿いの山道を西進し車道を横断、石畳道が始まる。
石畳道は戦後に登山客のために新たに造られた。
右カーブした車道は、この先で左にカーブし、また右に曲っていく。
大きく削られた連続カーブ部分にあった旧道は完全に失われ、石畳道は車道の脇を通るようになっている。

少し登ると「古道入口」の標識があり、右に山道が分れる。「見取絵図」の道はこちらで、「金蓋石」で石畳道と合流するまで古道の面影が残っている。

驚いたことに、この間の道は、地理院地図よりも見取絵図の方が正確に表示されている。
地理院地図では分岐からすぐに登っていくようになっているが、実際には右にゆるやかにトラバースし、地理院地図の表示よりも北寄りを、曲折しながら登っていく。
古道入口



① 古道入口の標識。石畳道と古道の分岐点。
古道入口から右へ進む

旧道 2





屈曲する古道

金太郎の金ぶた石②「金太郎の金ぶた石」標柱

石畳道に合流する手前に、「金ぶた石」標柱がある。
「金蓋石」は金太郎が遊んだ岩屋の扉だったという大石。

「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄峠 國界ヨリ此方二町許ニシテ、路傍ニ坂田公時カ金蓋石ト呼ルアリ、自然石ニテ、横四尺許、厚一尺許」

「駿東郡旧記書上帳」(幕末編集か)「金蓋石 (足柄山越今峠茶屋より三拾間東の方境ひなり、 此處に金蓋石といふあり) 」「(駿河・相模の国)境ひ」に「金蓋石」があるかのように書かれている。

史談足柄41「調査報告」によると、弘化2年
4月8日(1845年5月13日)、領内巡見中の小田原藩主一行が竹ノ下から足柄峠を越えた時の記録に「山中下り道、二畳敷程之石有之、金時之力石といふ、爪の跡あり、不断注連(しめ)張有之、今日はなし」とあるそうです。

「風土記稿」の「金蓋石」と、殿様が見た「金時之力石」は同一の石なのだろうか。
「下り道」とあるから相模側の「金蓋石」のことと思えるが、「力石といふ、爪の跡あり」の部分は、駿州側の「礫石」と混同したのではなかろうか。

石畳道の建設時に「金蓋石」は破砕されたそうだから、現在の石畳道の位置にあったことになる。おそらく古道との合流点あたりにあったのだろう。

この先で足柄明神への道が右に分れるが、「見取絵図」には記載がない。

足柄明神足柄明神 現在の祠は明治6年建立。
「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄峠 按スルニ、足柄明神マシマス、故ニ御坂ト云トアリ。山中今ニ其旧跡アリ。今ハ苅野岩村ニ鎮座ス。」
同「
苅野岩村 矢倉明神社 古ハ足柄峠ニ鎮座シ、足柄明神ト号セリ、今猶彼峠路ノ中腹ニ、字明神ト呼ベルトコロアリ、其旧趾ナリ。」

古事記の景行天皇条に、東征からの帰途、倭建命(やまとたけるのみこと。日本書紀では「日本武尊」)が足柄山の坂本で乾飯(かれいい)を食べていると「其坂神化白鹿而來立」(その坂の神が白鹿に化けてやって来た) とあります。
「白鹿」は蒜(ひる)で目を打たれて死んでしまうが、白鹿に化けた「其坂神」が足柄明神といわれる。
倭建命は「故登立其坂」(それから、その坂を登って立ち) 、三回「あづまはや」と嘆いた。「登」って「立」ったのが足柄峠でしょう。
この記述から、「白鹿」を打ち殺した「坂本」が、足柄山の東麓であることが分る。

この話、日本書紀では「信濃坂」(信濃と美濃の国界、現在の神坂峠)での出来事として語られ、古事記とは話に違いもある。
鹿が死んでから道に迷っていると白犬が現れ、ついて行くと美濃に出られた。また「あづまはや」と嘆いたのは、それ以前の碓日坂(現在の碓氷峠、あるいは鳥居峠とされる)でのこととされる。

足柄明神は、相模側の大雄山最乗寺の開山 (応永元年=1394年) にも登場する。
「新編相模国風土記稿 関本村 最乗寺」に、了庵慧明が最乗寺を創建する際、「時ニ異人二人、来リテ労ヲ助ケ (中略) 彼異人ハ、矢倉・飯澤二神ノ化身ト云、 縁起云、二人ノ樵夫來而 (中略) 一人者矢倉明神、一人者飯澤明神也 (中略) サレバ速ニ功畢リテ、一寺起立ナレリ」とあります。
「異人」「樵夫」は「矢倉明神」と「飯澤明神」であり、二神の助けのおかげで建設が「速ニ」進んだ、といいます。
「矢倉明神」は足柄明神、「飯澤明神」は江戸時代の「飯澤大明神」=現在の南足柄神社。

竹ノ下村境③ 国界

「足柄古道」標識の左側が県道。車道の南縁(車道に上った所)が相模・駿河の国界(現在の神奈川・静岡県境)になるらしく、車道に上ると静岡県。

写真の道は、正面の足柄城明神郭の堀を利用したらしい。

代官屋敷
ガードレールの右が地蔵堂への降り口。
その右側は、1965年に「ダイカンヤシキ(代官屋敷)」跡地を造成して建築した茶屋別館。

茶屋別館を建設する際、土中から建物の土台とおぼしき石が見つかったそうである

伊能忠敬の文化8年12月3日(1812年1月16日) の測量日記には「国界 相州足柄上郡と駿州駿東郡なり。即矢倉沢と竹ノ下界 峠の左に戸田大膳出張の跡あり。金時の礫石と云有。」と記入されている。

戸田大膳出張の跡」は「峠の左(=南側)」とあるから、伝・代官屋敷跡を指すのであろう。
峠の茶屋では、江戸末期か明治初期に、道路向い側に立っていた「是より西大矢木之進御代官配所・・・」と記された7寸角の檜の木標を保管したが、火災で焼失したという。

1952年10月に茶屋と聖天堂が再建されたというから、その前に火事で茶屋と聖天堂が焼けたということだろう。木標はその火事で焼失したと思えるが、現在の聖天堂の建物もそれほど古いものではない、ということだな。

文化3年(1806)完成「矢倉沢通見取絵図」、天保10年(1839)刊「相中留恩記略」ともに峠茶屋の向い側にも建物が描かれ、「見取絵図」には「茶屋」と記入がある。木標はこの建物の場所に立っていたのだろう。

「是より西」=国境より西の駿河国側は「大矢木之進」という小田原藩代官の支配地、ということだろう。
藩の代官は藩士か、土地の有力者が任命されることもあった。在地有力者の場合は、その居宅を代官所とした。
「大矢木之進」は不詳。おそらく足柄峠西側を配下に置いた最後の代官だったのだろう。

文化8年より前には「戸田大膳」が代官で、その出張所があったが、文化8年にはすでに「跡」地になっていた、ということなのだろうか。

この頃、小田原藩領御厨の村々は、年貢米を小田原城内の新御蔵に現物で納めることになっていたから、足柄峠を越えて運ばれる米を管理する番所のような建物があったのかも。
足柄峠
「相中留恩記略」(天保10年成立)より「足柄城蹟」
赤枠:右上「足柄城跡」、左上「金時礫石」、右下「峠聖天」、左下「足柄往来」

「峠聖天」の右に茶屋、「足柄往来」の左側にも家屋(茶屋?)が描かれている。

「今は駿河国駿東郡竹之下村に属すれど、正保のころまで尚、当国(=相模国)の内に隷す」「城蹟は(略)陸田を開けり。」「石にて畳あげたる井戸あり。」「今も耕作の時、まゝ、焼ふすぼりたる穀物を掘得る事あり。これ粮米の遺りしなるべし。」(「相中留恩記略」)

城跡が畑地として使われ、耕作時に焼けた穀物が出土することがあり、玉手池は石が張られた井戸だったことが分る。

峠茶屋「峠茶屋」(八郎兵衛茶屋) 
現在は足柄峠茶屋と称し、ここで聖天堂の御朱印がもらえる。

「明治十八年 矢倉沢村皇国地誌」に「足柄峠ノ頂ニ茶屋八郎兵衛ト云フ一戸アリ、駿州駿東郡竹ノ下村ノ農ニシテ往昔ヨリ此地ニ住メリ、建久四年(1193)五月源頼朝富士野ノ狩 途上此家ニ休憩シテ、四方八町ノ地ヲ八郎兵衛ニ与ヘシ以来子孫相続セリト云ヘリ、此八郎兵衛ハ従来竹ノ下ノ村民ナレバ、彼所有四方ト町ノ地ノアルヨリ或ハ頂上ノ東西若干ノ地ハ駿州ニ属セシモノナランカ」と由来が記されている。
「源頼朝」うんぬんはともかく、この地に古くから竹ノ下村民による、なんらかの営みがあったことは確かだろう。
云い伝えでは、峠茶屋の始まりは江戸時代初期にさかのぼるという。

松浦武四郎「東海道山すじ日記」には、次のように記されている。

明治2年2月11日(1869年3月23日)「(地蔵堂から) また九折いよいよ嶮處を上る一り (里) なりて 足柄峠地蔵堂有。甘酒をうる。八郎兵衞と云者一人住り。是駿相の境なり。」
「地蔵堂」は聖天堂の誤りであろう。峠茶屋で甘酒を味わったらしい。


茶屋跡「茶屋」(矢倉沢通見取絵図)
県道の向い側に小平地があり、かつては関所を模した門が立っていた。

「矢倉沢通見取絵図」には、この場所に「茶屋」の記入があり、「相中留恩記略」の挿絵にも家屋が見える。かつて峠茶屋が保管していた木標は、この場所に立っていたのだろう。

「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄古関 足柄峠ノ頂上ヨリ此方ニ字明神トイフ處アリ。其邊其旧跡ナラント云ト。未慥(いまだたし)カナル証ヲ得ス。
天慶二年、平将門関東ニ潜亂セシ頃、衆ニ令セシ詞ニ足柄關ヲ個ムヘシトアリ。

「字明神」(明神曲輪の周辺)が「其旧跡ナラン」といわれるが、確かではない、と述べている。古代の関がどこにあったかは不明。

「源平盛衰記」には、治承4年(1180)、頼朝の使いとして甲斐に向った土屋宗遠が、関が設けられたと聞く足柄峠を越える際の様子が「夜に紛れて通りけるが 見れば峠に仮屋打て 前に篝(かがり)をたく者ども四・五十人が程ぞふしたりける もとより夜半の事なれば 関守睡て驚かず よき隙とおもひぬき足して下りける 関をば過ぎたれども・・・」と語られ、平家方が臨時の関を設けたことがわかる。

平安末期から鎌倉前期の歌人・飛鳥井雅経が詠んだ和歌「とまるべき せきやはうちもあらはにて 嵐ははげしあしがらの山」から、鎌倉時代初期には、足柄峠に関の残骸が残っていたことも見てとれる。

聖天之社「聖天之社 」(聖天堂) 

竹ノ下「大雄山 宝鏡寺」に属す。
本尊「大聖歓喜双身天」は宝鏡寺の境外仏。大きな白い石像というが秘仏。
地元では聖天堂と峠の茶屋の二つを合わせて「足柄山の聖天さん」と呼んだ。
大正3年「足柄村誌」に「再建は延宝八庚申年六月二十日(1680年7月15日)なり。」と記されている。

昭和7年「足柄読本」(足柄尋常高等小学校)に「昭和三年七月県の遊覧地投票に数多の信者此の地を挙げて競争し、二十万五千余票を以って翌八月二十日八勝地の一に当撰せしより、境内も一新し、一層その名高まり、春四月二十日の縁日には山上を埋る程にぎはしくなりたり。」とあって、昭和の初期にも人気が高まった様子がうかがえる。

縁結び・子宝に霊験あらたか、養蚕にも効能ありとされて、4月20日の大祭には良縁・子宝・養蚕豊作を祈願する参拝者が相模・駿河両国から参集して大いににぎわった、という。
聖天堂のお札を頂いた農家は、蚕室にお札を祀ったそうである。

寺伝では、早川(小田原市)の海辺に、船に乗って流れ着いた聖天像を地元民が祀っていたが、弘仁2年(811)に弘法大師が「足柄山」の掲額とともに、この像を足柄山に祀ったとされる。
だが、この話は明治時代中期以降の創作のようである。
別に、伝教大師最澄が近江国大津から勧請した、とする伝説もあるとのこと。

明治13年(1880)「足柄山聖天堂明細帳」には「聖天堂 本尊 大聖歓喜尊天 石像長五尺八寸余 由緒創立不詳、再興北條氏政公城中弓箭鎮護之為安置、其後延宝八(1680)庚申稲葉美濃守正則、大久保加賀守忠朝両君及江戸南新堀白井五郎八再々興之、爾来聯続仕候也」
とあって、「本尊」の「由緒創立」は「不詳」で「再興」した(とされる)「北條氏政公」が「城中弓箭鎮護之為安置」し、その後、江戸時代に入って「再々興」され「爾来聯続」以来ずっと続いてきた、と書かれている。

明治22年(1889) 2月に東海道線国府津-静岡間が開通し、同年7月に新橋-神戸間が全通すると、足柄峠道の往来は大きく減少した。
そこで峠茶屋(高橋家) 戸主が聖天信仰を広めるべく、明治37年に山伏修行をし、それから近在の村々を歩きまわって聖天さんの功徳を説き、お札を授けるようになった。
次の戸主も跡を継いで秦野・平塚・富士吉田・沼津方面に聖天信仰を広めてまわった、というのが真相のようである。
経緯は不明だが、布教の過程で漂着した聖天像や弘法大師が、インパクトのあるツールとして使われるようになったのかもしれない。

海辺・川岸に漂着した、あるいは魚網にかかった仏像を本尊として祀り、お堂を建立した、というような伝承は各地にある。

近い所では、足柄上郡開成町円通寺の本尊・十一面観音像は、谷ケ村円通寺の本尊が洪水によって流れ着いた、と伝承されている。
鎌倉・長谷寺の長谷観音(十一面観世音菩薩)には、養老5年(721)、一本の楠から二体の観音像を造って一体を大和・長谷寺に祀り、もう一体は海に流した。15年後、三浦半島長井の浦に流れ着いたもう一体を本尊として、聖武天皇の勅願により鎌倉に長谷寺が創建された、という伝承がある。
一方の大和・長谷寺(奈良県桜井市)は「今昔物語」に、神亀年間(724-729)、初瀬川に流れ着いた神木から十一面観世音菩薩を造立し、初瀬山に祀って開山した、という伝承があるが(現在の本尊像は天文7年=1538 の再興)、二体を造り、その一体を海に流した、という話はない。

聖天堂は「日本三大聖天」の一つと称する。
一般的に言うと「日本三大聖天」は奈良県の生駒山宝山寺(生駒聖天)、東京の浅草寺子院である乳待山本龍院(待乳山聖天)の外に、
足柄山聖天堂(足柄聖天)・三重県桑名市の神宝山法皇院大福田寺(桑名聖天)・兵庫県豊岡市の医王山東楽寺(豊岡聖天)・埼玉県熊谷市の歓喜院(妻沼聖天)
の内のいずれか一つを加えたものとされ、定まってはいない。

生駒聖天は役行者が開いたとされる修験道場で、弘法大師空海も修行したと伝わる。桑名聖天は、元は聖徳太子が伊勢に創建したとされ、豊岡聖天は弘法大師が開山して本尊大聖歓喜天を中国より請来したと伝わる。
足柄聖天の伝承に現れる漂着した聖天像や弘法大師は、このような伝承を参考にしたのではないだろうか。

寛保3年(1743)「足柄古城跡書上」は「聖天宮社壱ヶ所、往古北城(条)氏政公御氏神与申伝ヘニ御座候」聖天宮はかつて北条氏政の氏神だったと伝わっている、と簡潔に述べている。

史談足柄39「調査報告」に聖天堂のいわれがコンパクトにまとめられたいるので、引用・要約する。

安政7年(=万延元年=1860) の「聖天宮厨子再営勧進書」に「足柄山之神社玉手神宮之霊験新たなる事、世人の知処也。小田原城主北条氏政公、当山嶺に一城ヲ築く時、或夜夢中ニ異形之両神、池之辺ニ立せ玉い、当山は足柄明神の霊地たるに依って、今現霊体を得て、武運長久・国家安全を護るべしと告げ賜う。 依って歓喜余幸、勝地ヲもって城郭と為し、明神宮を爰(ここに)遷し奉り、足柄神社玉手聖天宮與号(となづく)。城中鎮護之神と信仰有り。・・・善縁を結び、悪縁を離れ、間盗・法難を避け、五穀を豊熟令(せしむ) 誠に神変不思議成るを知らず」とあるそうです。

「足柄山之神社玉手神宮」が「霊験」あらたかな事は古くから広く知られていた。北条氏政が足柄城を築く時、夢に「異形の両神」(男神・足柄明神と女神・玉手姫) が池のほとりに現れ、「武運長久・国家安全を護る」と告げたといいます。大喜びした氏政は、この地を「城郭と為し」、両神を移し祀って「足柄神社玉手聖天宮」と名づけ(現在の聖天堂)、「城中鎮護之神」とした、ということですね。

あと8年で明治維新を迎える年に書かれたこの文書、および前述した明治13年「足柄山聖天堂明細帳」にも、流れ着いた聖天像や弘法大師は登場しないが、聖天堂と足柄城との関わりが深いことは分ります。

聖天堂は足柄城築城時に、城の鎮護のために創建されたとするのが妥当だと思う。

      ( 続 く )

 矢倉沢往還 足柄峠道 (5)

 矢倉沢往還  地蔵堂-足柄峠 (3)

     ( 承 前 )

「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄峠 竹下村まで(中略)登一里二十九町二十間 降一里、幅六七尺」
地蔵土橋-茶屋場以下、「」内は 史談足柄 22 「足柄古道(地蔵堂-足柄峠)」(以下「足柄古道」と略す)より引用。

相ノ川橋 欅


④ 欅の脇を通って県道に出る。
ここから山腹を登っていくはずだが、道跡はまったくない。
「相ノ川橋のところで、県道と交叉する。ここには欅の木が一本立っているので、よい目印になる。古道は県道を横切って林の中に入っているが、道らしい様子もない。」

⑤ 車道から10メートルほど上の尾根筋に、道の痕跡かと思われるわずかな凹みがあるが、不明瞭ではっきりしない。
「県道はこの辺りから曲りが多くなっているが、古道は山の峯伝いに林の中を通っているので、距離的には大分短いようだ。」
⑤ から標高520メートルあたりまでの尾根は予想外に細く、尾根上を街道が通っていたとは思えない。「古道は山の峯伝いに林の中を通っている」は「字茶屋場」の手前から先の描写であろう。

⑤ の尾根筋を越えてから先のルートが、A「足柄古道」と、B「矢倉沢見取絵図」では異なっている。
「矢倉沢見取絵図」が完成した文化3年(1806)より後に、Aルートに代わったのか?

B は「見取絵図」の推定ルート。文化3年(1806)以前からこの棚田があり、街道が棚田への道を利用したとも考えられる。
その道は、農作物を積んだ馬が安全に通行できる必要があり、山中に通ずるしっかりした道は、街道としても使用可能だったであろう。
であれば、わざわざ街道を別に通す必要もない、という判断だったのかも。

棚田





⑥ 標高520m前後、県道脇の棚田跡。
足柄平野一帯で最高所の水田だったそうだ。

棚田

1960年代の空中写真。まだ耕作されているようにも見える。
棚田の上端に沿って見える道がBルートか?
は侭 (段差)。街道は侭の畦道を使って上下(南北)に通じていたらしい。

大正5年



大正5年測量 「関本」
棚田上方のAルートが記入されている。

棚田跡





棚田跡。
田と田の間の段差 (侭 まま) がけっこう大きい。


棚田跡 2



棚田跡。左上が尾根筋。

B ルート は ⑤ から山腹をトラバースし 、棚田の脇 (山裾) を通ったようである。

用水路跡



⑦ 治山の碑 (現・登山道入口)
ここから先の登山道はBルートだったのだ。
碑から左に分れる車道(⑧)は、元は棚田への用水路。

用水路石積

⑧ この車道は、棚田への用水路を拡張して建設されたようである。
用水路の擁壁石積(右下)が少し残っている。

A ルートは、棚田上の山腹をトラバースしていたようだが、明瞭な痕跡はない。


ca.530m
⑨ 棚田の上方、標高530m付近の広い尾根。右下に降りて行くと棚田跡。
A ルートは右下の山腹を横切り、車道を横断してさらにトラバース、登山道に合流する。
広い尾根なのに、なんでわざわざ山腹に街道を通したんだろ、不思議。人工的な段差があるが、街道とは無関係だろう。

旧道合流点
⑩ A ルートは車道の下で登山道(=Bルート)に合流する。すぐ上にガードレールが見える。
中央の笹藪の中に、東側から旧道跡の掘割が続いている。
⑩ から車道を横断して尾根道を登ると、まもなくヘアピンカーブに出る。「見取絵図」によれば、ここが「字茶屋場」になる。

車道建設で開削され、元の地形は残っていないが、ちょうどヘアピンカーブのあたりに茶屋があったようにも見える。小さな建物なら立地可能であったろう。
茶屋場

⑪ 茶屋場 標高560m
「しばらくゆくと、又県道に出る。」
この文の「又県道に出」た所が茶屋場だったようである。
現状からは茶屋があったとは思えない地形だが、「見取絵図」によれば、ここになる。

見晴台

見晴台 標高630m
「矢倉沢通見取絵図」を読み解くまで、茶屋は「見晴台」バス停の場所にあったものと思い込んでいた。
一里塚はこの付近にあったのではないか。

「県道に出たすぐのところに大曲りになった所がある。この曲り角の付近を茶屋場といったとのこと。(中略) その昔、お茶屋があったところではなかろうか。」
このあとに「ここから間もなくの所に和田山林道の起点があり」と続くので、「大曲りになった所」は見晴台を指している。
地元では、ここを茶屋場と呼んでいたらしい。地形からすれば、この場所が茶屋の立地として一番ふさわしく思えるのだが、「見取絵図」が作成された19世紀初めには、ここに茶屋はなかった。

とはいっても、相当の交通量があった街道だから、茶屋がもう一軒あってもおかしくない。「見取絵図」作成時点より前、または後にどうであったかは分からない。
不二山道知留辺
「不二山道知留辺」(部分) 松園梅彦
 万延元年 (1860年) 刊
 中央に「出茶ヤ あり」と記されている。この時点でも、「出茶ヤ」は一軒だけだったようだが、図が大雑把すぎて、その場所がどこなのかわからない。

天保国絵図
天保9年 (1838) に完成した「天保国絵図」には、矢倉沢関所の西側(小田原から4里、関所から数百メートル以内と推定)と「足柄地蔵」-「足柄峠」間(同5里)の2ヵ所に一里塚が描かれているが、場所は不明。
5里目は
現在の見晴台あたりにあったんじゃないかな。

「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄峠 是 (=坂田公時カ金蓋石) ヨリ二十町許ヲ下リテ、里こう(=一里塚)ノ跡アリ。隻こうナリ。正保元禄ノ國圖ニモ見ユ。」
「足柄峠」の項に記されたこの「里こう」は 5 里目の一里塚のことであろう。
「二十町許ヲ下」ると地蔵堂、あるいはもっと先まで行ってしまう。「二十町」は二町の誤りであると思う。

小田原から5里の一里塚は「風土記稿」(天保12年=1841 完成) 編纂時点で、すでに「隻 (対の片方) こう」「ノ跡アリ」、道路両側の塚のうち片方の跡だけが残っている、という状態だった。
その跡も、後の車道建設によって消え失せてしまったのだろう。

     ( 続 く )

 矢倉沢往還 足柄峠道 (4)

 矢倉沢往還  地蔵堂-足柄峠 (2)
      
2. 字地蔵土橋-茶屋場

地蔵土橋-茶屋場            [ 地蔵土橋 ]

史談足柄 22「足柄古道 (地蔵堂-足柄峠)」(1984年) より:
「県道を横切って、古道は右下に下る。(中略)堰堤ができていて渡れないが、昔はこのすぐ下のところを渡った。そこを通って川添いにさかのぼると、相ノ川橋のところに出る。この堰堤の古道脇には石仏があったとのこと。」(「足柄古道」)
堰堤は現在3ヶ所あり、これは中間の堰堤のようだ。

字地蔵土橋①「堰堤ができていて渡れないが、昔はこのすぐ下のところを渡った。」
「堰堤」はこの堰堤のことであろう。とすると、このあたりで相ノ川を渡ったのか。

庚申の年にあたる元文5年 (1740)は富士山の御縁年(庚申御縁年)だった。
御縁年の富士登山は1度で 33 回登るのと同じ御利益があるとされ、登山期間も(旧暦)5月から8月までに拡大され、女性には女人結界よりも上方までの登山が許されたため、富士導者(登山者)数が例年の数倍以上に増大すると見込まれた。

御縁年のこの年には足柄峠道を往来する富士導者数の増大が見込まれるが、橋がないと関所要害地に迷い込むかもしれず、また川留めになると多数の宿泊者に対応できぬが、「川端(幅?)拾間余」「殊ニ沢深キ場所ニ御座候ニ付、余ほとの入用等相掛」り、貧しい村ゆえ費用を賄えないので「当五月ヨリ同八月迄富士導者壱人ニ付四、五銭ツゝ之勧進橋」(同年5-8月、富士導者一人につき4-5文の通行料を徴収して勧進橋) を設置したい、と矢倉沢村が同年3月に代官所に願い出ている (南足柄市史 3  No.158)。

この資料は前部が欠けており、橋の位置は書かれていないが、2つの点から「勧進橋」= 有料橋を架けようとしたのが相ノ川であり、元文5年の年初には相ノ川に橋が架かっていなかった、ことが分る。
第一に、地蔵堂下の内川の橋は御厨の村々が架橋することになっており、矢倉沢村が費用を負担するわけではない、からであり、
第二に、架橋の理由として、導者が関所要害地に迷い込むことを挙げているからである。
ふ入山
天保7 (1836) 年10月 矢倉沢村絵図  のうち地蔵堂集落と周辺部分。

「ふ入山」が関所要害地。
図で地蔵堂集落(黄色部分)の右 (北) 側に相ノ川が流れ、その右が「小なら尾山」、さらに右 (北) 方、「谷ヶ村境」までのナラオ沢源流から山伏平の堀切一帯が要害地にあたる。

足柄峠から相ノ川左岸に降り着いても橋がなく、渡河地点が分らずに左岸の山中に迷い込むと、要害地に入り込んでしまう可能性がある。実際に、そのような事例があったのかもしれない。一方、内川周辺に要害地はない。
以上の観点から、元文5年の有料橋は相ノ川に架けようとしていたと考えられる。

また、天保2年 (1831)、道了尊 (最乗寺)-足柄峠間で橋銭四文を支払、および、安政3年(1856)「相州足柄郡ノ足柄峠之内橋銭代六文」という史料が残っており  (南足柄市史 6 )、安政から天保年間にかけても相模国側の足柄峠道に有料橋があっったことがわかり、それは相ノ川に架かる橋であったろう。

    [ 伊勢宇橋 ]  

地蔵堂境内に嘉永7年 (1854) に建立された「伊勢宇橋」碑がある。

伊勢宇橋伊勢宇橋碑 (地蔵堂境内)
「嘉永七甲寅年七月  常陸国信太郡江戸ヶ崎町  瀬尾権六  伊勢宇橋 江戸浅草花川戸町 伊勢屋宇兵衛」

足柄峠西坂・栗の木沢にも伊勢宇橋碑があり、「常陸国信太郡江戸ヶ崎町 瀬尾権六三男  伊勢宇橋 江戸浅草花川戸町 伊勢屋宇兵衛」」と刻まれている。

両碑の文面から、嘉永7年(1854)に碑を建立したのが瀬尾権六の三男で、江戸ヶ崎町出身の浅草・伊勢屋宇兵衛であることが分る。栗の木沢の碑には日付がないが、同時期に架橋したものであろう。

故郷の江戸ヶ崎町(茨城県稲敷市江戸崎)から江戸に出て、一代で財を成した浅草の醤油問屋伊勢屋宇兵衛は、私財を投じて関東を中心に橋を架けた。
栗の木沢の伊勢宇橋は85ヶ所目と伝わり、86ヶ所目は千葉県白井市にある。
ということは、地蔵堂の伊勢宇橋は84ヶ所目になるのだろうか。
白井橋

白井市神崎川の白井橋たもとに立つ「伊勢宇橋」碑。
「伊勢宇橋 八十六ヶ所目」と記されている。

白井橋は大正期まで「伊勢宇橋」と呼ばれていたそうだ。
さらに87・88・90ヶ所目の三基の碑は上州草津村に建てられた。


先の「勧進橋」でも述べたように、
地蔵堂下の内川の橋は御厨の村々が架橋することになっていたから、伊勢屋宇兵衛が「伊勢宇橋」を架けたのは相ノ川だったのだろう。

嘉永7年(1854年)に伊勢屋宇兵衛の資金によって架橋された「伊勢宇橋」は、有料ではなかったと思えるのだが、2年後の安政3年(1856)には相ノ川に架かると思われる橋で「相州足柄郡ノ足柄峠之内橋銭代六文」を支払っている。
とすると、相ノ川の「伊勢宇橋」は、架橋後ほどなくして流失してしまったのだろうか。

「明治二十一年内務省編集地誌稿 関本村」の「橋梁」に「伊勢宇橋 前ノ畑 貝沢川ニ架ス 長 弐間三尺 幅 九尺 構造 木製 架橋年月 不詳 足柄古道ニ属ス」とあり、関本村にも伊勢宇橋があった。これが伊勢屋宇兵衛が架けた伊勢宇橋だとすると、83ヶ所目になるか。そうだとすれば、ここにも伊勢宇橋碑があったのでは。


「前ノ畑」は現在の「前ノ田」に相当するのであろう。古くは畑地であった所を田にしたため、後に「畑」を「田」に変更したものであろうか。
ここにいう「足柄古道」は、江戸時代の矢倉沢往還のうち、和田河原村福田寺南西角の甲州道(小田原-関本-竹ノ下-甲州)分岐から、明治時代の関本村元標(江戸時代の高札場=字札場と思われる)までを指しているので、この橋は、現在の旧貝沢橋にあたる。
貝沢川の対岸(左岸)側は(下)弘西寺村(現・向田)であり、「見取絵図」には「弘西寺邑枝郷下弘西寺村」と記されている。この「伊勢宇橋」は関本村・下弘西寺村の村境の橋だった。

「大正二年南足柄村誌 」には「橋梁 貝沢橋 下弘西寺ト関本トノ界ナル貝沢川ニ架スル木橋ニテ、長二間半・幅二間ニテ足柄古往還ノ交通ニ便セリ」とあり、「県道 足柄古往還」の説明として「小田原町ヨリ(中略)関本ニ至リ矢倉沢往還ニ合ス」「俗ニ甲州街道ト称」することが述べられている。

少しややこしいが、「足柄古道」と「足柄古往還」は同一の道であり、「伊勢宇橋」と「貝沢橋」は、どちらも現在の「旧貝沢橋」のことである。
「伊勢宇橋」は「長 弐間三尺 幅 九尺」、「貝沢橋」は「長二間半・幅二間」とあるから、長さが同じ(3尺=半間)、幅は「貝沢橋」が3尺広くなった。

旧貝沢橋
明治時代の「伊勢宇橋」=大正時代の「貝沢橋」=現「旧貝沢橋」と矢倉沢往還=足柄古道=足柄古往還。
「矢倉沢通見取絵図」には「字乞食石橋」と記入されている。

    [ 相ノ川左岸の道 ]

同左岸


① 左岸側から見る推定渡河地点。
「この堰堤の古道脇には石仏があったとのこと。」(「足柄古道」)
「見取絵図」に「字地蔵土橋」とあるから、「石仏」は地蔵像だったのだろう。

石積跡




② 左岸の山裾沿いに、か細い道が続く。
山側に列をなすいくつかの石は、積石の残骸のようだ。

左岸棚田跡







③ 左岸の放棄された棚田。
棚田跡から欅







峠への登り口の目印となる欅。
右岸にも放棄された棚田。
欅への登り








欅へ登る道。

欅

④ 欅。それほど古い樹ではない。
この樹が偶然ここに生えてきたのか、それとも昔から目印としてこの場に立ち続けてきた何代目かの樹なのか、どうなんだろう。

    ( 続 く )

 矢倉沢往還 足柄峠道 (3)

 矢倉沢往還 地蔵堂-足柄峠 (1)

地蔵堂-聖天堂間の探索調査に当たっては、史談足柄 22「足柄古道 (地蔵堂-足柄峠)」(1984年) および 史談足柄 39「調査報告 足柄史談会調査研究部」(2001年) を参考にさせていただいた。

 1.  地蔵堂 
地蔵堂-聖天堂「矢倉沢通見取絵図」(部分) 文化3(1806)年完成 赤線を加筆した

足柄古道
「足柄古道調査略図」(史談足柄 22「足柄古道 (地蔵堂-足柄峠) 」より転載) 
 
     [ 地蔵堂 ]

日本名山図会 谷文晁「日本名山図会」谷文晁 文化9年(1812)刊 より 「足柄山」

地蔵堂集落の下流側から見た図。
左に高く金時山、右はこなら尾。中央下の丸い小山の上が地蔵堂集落。右が相ノ川、左は内川。

「矢倉沢通見取絵図」にある、地蔵堂前から峠に向う集落内の道を推定する。

地蔵堂 御供山「矢倉沢通見取絵図」より地蔵堂の部分

内川から集落に上ってきた街道は地蔵堂の前で右に曲り、その先で左折、さらに右折・左折して西に向かう。
最後に右・左折している所の山側には小さな尾根の末端が描かれている。
この小尾根は、現在、消防団の小屋がある尾根であろう。

地蔵堂(右)本多秀雄著「あしがらの道」1993年刊  p.158 より「地蔵堂見取図」 (部分)

「あしがらの道」編集時には、まだ地蔵堂の北側に隣接して民家が一軒建っていたことが見てとれる。
この民家と、かつては「石屋」(屋号ではなく通称) と呼ばれていた「万葉うどん」の間を通り、消防団の小屋がある小尾根を回り込んでから西に向ったと思われる。
消防団 万葉うどん

左端、白い建物が消防団の小屋。中央が万葉うどん。分岐から右の小径は現・県道へ下る。
旧県道は分岐を左へ、消防団の小屋の前を通って、現県道の上方を相ノ川橋へ向かう。
消防団の小屋の前は大きく開削された車道になっているが、江戸時代には小屋のあたりで小尾根を回り込んでいたのだろう。

   [ 誓光寺地蔵堂 ]
昔の地蔵堂
正面の茅葺屋根が足柄山誓光寺地蔵堂 (1960年代)。
1975年、このお堂は火災により焼失。
地蔵堂は、弘安5年(1282)開山と伝わる六縁山誓光寺 (曹洞宗) の境内にあったと思われる。江戸時代初期に誓光寺が廃寺になったため、地蔵堂は矢倉沢本村の江月院持ちになったと考えられる。
右側はかつての旅籠「吉田屋」。

「新編相模国風土記稿 矢倉沢村 足柄地蔵堂 堂ハ文化十四年 (1817) 回禄 (火事) ニ罹リ、文政十一年 (1828) 再建ス、正七ノ両月廿四日ヲ縁日トス、 七月ハ殊ニ参詣ノモノ多ク、駿州御厨辺ノ村々ヨリモ参詣ス、乳ヲ病ル婦人立願スレバ必其験アリと云 江月院持」
足柄地蔵尊地蔵堂本尊「足柄地蔵尊」 
足柄明神の本地仏ともいわれる。室町時代初期の作と推定され、室町時代末期作の厨子に納められている。1975年の火災の際、住民がかついで運び出したという。
足柄地蔵尊は乳の病に効能があるとして、7月24日の縁日には多くの女性参詣者が集まった。

新編相模國風土記稿に「聖徳太子ノ作佛ヲ置。長五尺二分。六縁山誓廣寺ノ號アリ。」とあり、「相伝フ」として、一本の杉の霊木から足柄地蔵尊のほかに竹ノ下・宝鏡寺(もとは地蔵院と号す) の延命地蔵尊、小田原板橋・宗福院地蔵堂の板橋地蔵尊の三体を作ったという。ただし宝鏡寺と板橋の地蔵尊には、このようないい伝えはない。

堂守供養塔また「寮 堂守ノ僧住ス」と記す。勧化の際、僧が五升入の大柄杓で寄付を集めたという。

境内の堂守供養塔
正面:「歸太安善乗信女霊 信州筑摩郡下波田村」
右面:「天保五午年四月二十七日(1834年6月4日)」
台座:「施主 里入會中」

信州下波田村出身の女性堂守供養のため、足柄山入会村が建立した。

「明治十八年 矢倉沢村皇国地誌」は「六縁山誓光寺ノ号アリ 本尊行基作(五尺弐分)ヲ安置セリ」と記し、また「古来堂傍ニ一寮ヲ設ケテ堂守ノ僧往セリ、此僧ノ勧化(寄付・勧進)ニ大柄杓ヲ用ヰル(中略)表ニ御免足柄地蔵ト記ス」と「新編相模国風土記稿」と同内容の記述があり、「明治五年十一月廃堂トナリシモ今尚ホ小堂ニ本尊ヲ安置セリ」ともあって、神仏判然令により廃堂になっていた時期があったようだ。


鬼鹿毛馬頭尊
地蔵堂境内「鬼鹿毛馬頭尊」碑
「鬼鹿毛」は説教節「小栗判官」に登場する人食い馬。各地の伝説では、主人を助ける良馬とされることが多い。

堂内に新芝円通寺から移された鬼鹿毛馬頭観世音が祀られ、奉納された大蹄鉄(かなぐつ)も残っている。

新柴 (竹ノ下南方) 円通寺は、小栗判官が愛馬・鬼鹿毛を弔うため、鬼鹿毛馬頭観世音菩薩を本尊として建立した鬼鹿毛寺が起源とされる。元禄16年、震災により寺が埋没、現在地に移転し、円通寺と改名した。

足柄山の入会地では多数の馬が使われたため、10月9日の縁日には何百頭もの馬が参拝した。馬頭観世音の賜りものとして麦を煮て馬に与え、馬方には神酒付の膳 (食事が出たという。

御供山


中央の森が「御供山」。
道路左側、手前の民家が元「吉田屋」、一番奥に小さく見える屋根が元「富士屋」(現・うるし亭)。
江戸時代には旅籠が5軒あったが、明治時代末までに、そのすべてが廃業した。

      [ 発電所 ]

大正8年3月に相州電気(株)によって矢倉沢本村・関場まで電気がひかれたが、地蔵堂は遠すぎた。
大正15年8月、現在の駐車場 (当時は水田) の南側、お茶工場の場所に、集落 (23戸) で発電所を建設し、内川の水を用水路で引き込んで夜間だけ発電した。各戸2灯ほど、ほかに街灯もつけた。第二大戦中に部品が手に入らなくなって修理が出来なくなり、廃止された。1947年、関東配電 (後に東京電力) によって電気が使えるようになった。
お茶工場

駐車場南側の製茶工場。
右上の竹藪斜面に導水管が設置され、流水で発電した。

製茶工場は昭和30年代に、発電所と、隣にあった精米所の跡地に建設された。

水槽








道路脇に残る発電用水槽の一部。
ここから発電所に水を落した。

  [ 地蔵堂-相ノ川沿いの道 ]

足柄古道(地蔵堂-足柄峠)」(1982年11月27日 調査) より引用:
「古道は現在の県道関本御殿場線(=旧県道)に沿って、左上の中腹とのことだが、林の中で歩けるような道はなくなっている。この古道の途中のところに「千現さん」という小祠があったとのことだが、移転をされてもうなくなっている。」

浅間之宮への道


地蔵堂横の「浅間之宮」への道
登り口の右側に石垣があり、上に東屋があるが、車道拡幅前は、その場所に民家が一軒あった。

「千現」は「浅間 (せんげん)」のことだろう。「千現さん」は「矢倉沢通見取絵図」にある「浅間之宮」に相違ない。

浅間之宮跡地


「矢倉沢通見取絵図」に描かれた位置から推定すると、中央の太い立木から手前が「浅間之宮」跡地であろう。四角く開削された平地になっている。
右の道を20メートルほど降りると地蔵堂。

浅間





お堂の基壇に使われていたらしい石材が、ずり落ちている(右下)。
石を割るための溝が刻まれている。

橋






「浅間之宮」跡地から堂ケ尾への道を少し登り、踏み跡を右に行くと、鉄の橋がある。

千現さん橋を渡ると、朽ち果てた「こぶしの杜」標柱が立ち、その向こうに古びた木の小さな祠。祠の中にはなんにもない。
これが「移転をされ」た「千現さん」?

石垣





上部にある石垣は墓地の名残か?
「万葉うどん」のご主人の話では、かつてこのあたりは墓地だったという。

「足柄古道」には「林の中で歩けるような道はなくなっている」とあるが、ここから西の杉林の山腹には踏み跡が何本か続いており、2019年10月の台風によって発生した崩落地まで、特に困難もなく歩ける。
しかし「矢倉沢通見取絵図」から推測すると、江戸時代の往還はこの山腹ではなく、「浅間之宮」の下を過ぎ、現・消防団の小屋あたりから旧県道付近を通っていたように思える。

地蔵堂-欅大正5年測量  大正8年発行「関本」
大正時代の相ノ川渡河地点は、江戸時代から変わっていないようである。

峠への道足柄峠への旧県道 (現県道の上方) 

       ( 続 く ) 

 矢倉沢往還 足柄峠道 (2)

   江戸時代の定山・矢倉沢往還  

      ( 承 前 )

    [ 矢倉沢通見取絵図 ]

「矢倉沢通見取絵図」(2巻) は「五街道分間延絵図」の一部。
「五街道分間延絵図」は、正式には「五海道其外分間延絵図並見取絵図」(東京国立博物館蔵、重要文化財) という。
幕府が東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道の五海道と主要な脇街道の状況把握のため、道中奉行直轄事業として寛政12年(1800)に着手、文化3年(1806)に完成した街道絵地図(道中図)。縮尺はほぼ1,800分の1。

「矢倉沢通見取絵図」のうち、蛤沢-陣場 (馬場平) 間を地理院地図と比較すると、経路がほぼ一致する。

絵図中の書込:a 水抜土橋 / b 字蛤沢 / c 字城山 / d 山神 (原文は縦書)
見取絵図 1
① 蛤沢 ② 次の沢 ③ 沢の源頭 ④ 定山城址 ⑤ 千本 ⑥ クランク状カーブ
地形図 1

 3. 蛤沢 - 定山城址

定山







蛤沢から定山城址間の矢倉沢往還の痕跡を検証する。


上図、赤枠内
矢倉沢往還
蛤沢-定山城址間の矢倉沢往還は、明治時代後期には使われなくなっていたようなのだが、大正11年(1922)の坂本登「足柄踏査紀行」(「武蔵野」足柄號)に「そこ(=地蔵堂)を辞し小川を渡って、蛤澤といふへ来て蛤の化石を見、城山を過ぎ、漸く新道に合した。そこの蕎麦畑の側に(以下略)」と記されている。
「小川(内川)を渡って、蛤澤といふへ来て(略)城山を過ぎ漸く(足柄)新道に合した」は、地蔵堂-蛤沢-定山城址-馬場平=矢倉沢往還の描写であるように思える。大正時代に復活したってことかいな?どうも、よく分らん。
「そこ(=馬場平)の蕎麦畑」とあるから、そのころ馬場平では蕎麦が栽培されていたようだ。

「蛤沢および蛤坂の古道」(史談足柄 21) には (定山から)「林が終る手前を右側に下る狭い道がある。これを下りて内川を渡り地蔵堂相沢橋の上に出る古道」との記述があるが、現在は山全体が杉林になっており、この道 (蛤坂?) の降り口が何処なのか分らない。
蛤沢を渡る




① 蛤沢を渡る
文化3年 (1806) に完成した「矢倉沢通見取絵図」によると「水抜土橋」が架かっていた。


次の沢






② 次の沢
この手前 (左岸) に平場がある。定山の登りにかかる前の集荷場だったのだろうか。

③





③ 杉林を斜上していくと、小さな尾根を回り込む所が切通しになっている。

④




④ 切通しの先で、小さな沢の源頭を回り込む。

前方が、通ってきた切通し。

⑤






⑤ わずかの間だが、古道跡が残っている。

⑥




⑥ この先、はっきりした道跡はない。
踏跡 (らしきもの) があちこちにあり、どこでも歩ける。

上段


⑦ 「史談足柄 39 調査報告」の「定山城址見取り図」中の (g) 点はここらしい。
帯状平坦部が2段あり、この写真は上段。
帯曲輪なのかな。


下段
⑦ 同、下段。こちらが「空堀」だったのだろう。
調査当時 「g 点で幅400センチ、深さ100センチ」もあったそうだが、かつての面影はない。
日付が書いてないので調査日がわからないが、「城址見取り図」に車道の記入がないから、1980年代であろう。

⑧




⑧ 城址手前で掘割になる。
同上「調査報告」によると、これも (g) 点から続く「空堀」で、調査当時は深かったのであろう。

字城山文化3(1806) 年「矢倉沢通見取絵図」(部分)
赤枠内「字城山」
街道のU字カーブの内(下)側が定山城址
赤線は堀、AC は下記「定山城址見取り図」に対応


「新編相模國風土記稿 矢倉沢村 大森信濃守氏頼城跡 西南ノ方。小名足柄(=地蔵堂)ノ東ニアリ。其地ヲ城山ト唱フ。東西四十間許。南北十間許。」

以下、「史談足柄 39 調査報告」から転載した「定山城址見取り図」を参照してくだされ。
定山城址見取り図史談足柄 39「調査報告 足柄史談会調査研究部」(2001年) より「定山城址見取り図」
 (矢倉沢往還) の線に赤点線を加筆した。
同「調査報告」より引用:
「h点が江戸時代の道の分岐点だ。と市の測量の人たちが言っていた」
「江戸時代の『矢倉沢往還』が、廃城になった定山城址の空堀を利用したりして、h点・i点・k点・g点へと登り、蛤沢を渡り、内川を渉って足柄地蔵堂の下へ出たこともほぼ確実」

⑨






⑨ 広い尾根を横切って堀跡が残る

⑩



⑩ (k) 点
南北に連なる廓 ( A-B ) の西側の堀を見下ろす
以下、アルファベットは上記「見取り図」に対応。

⑪






⑪ 西側の堀を見上げる。矢印は撮影方向。
左が廓 A - B

⑫

⑫ 廓 A の西側の堀を少し下り、右の斜面に上る。
かすかな踏み跡がある。
かつての街道は 3m ほど下だったようだ。
堀は浸食されて、すぐ先で急峻な谷になっているが、江戸時代にはもっと下まで堀を降りてから右の斜面に曲ったのだろう。

i






前方の平坦地が (i) 点。

城址ルート
神奈川中世城郭図鑑」戎光祥出版 2015年刊 より「矢倉沢城 2000.01.09 作図:西股総生」
 (部分 / 赤線加筆)
  
江戸時代の矢倉沢往還が通っていたと思われるルートを赤点線で示した。
赤字アルファベットは「定山城址見取り図」に対応。

⑬-1






⑬ (i) 点から次の斜面を東にトラバース。
踏み跡がある。

⑬-2






⑬ の斜面と (i) 点を振返る。

 ⑭





⑭ カーブミラーの後ろに出た。
 前方はカーブミラーと車道。

⑮
⑮ 道路反対側から。
車道建設以前は、道路の向う側と撮影地点はつながっていた。
道路の向う側あたりが (h) 点と思われる。

以降、前回の
 矢倉沢往還 足柄峠道 (1)  に続く。


明治2年、明治新政府の命を受けて京に上った松浦武四郎は、矢倉沢から地蔵堂への道中を「東海道山すじ日記」中に、次のように書付けている。
明治2年2月11日(1869年3月23日)「(矢倉沢から)二十丁上りまた十六七丁、下りて地蔵堂村人家十七八、是を足柄の地蔵と云り。」
矢倉沢から城址まで「二十丁上り」、城址から「地蔵堂村」まで「十六七丁、下り」と体感したようである。
地形図で測ってみると、矢倉沢-城址間はおおよそ 2 キロメートル、城址-地蔵堂間はおおよそ 1 キロメートルだから、「二十丁上り」は実際の距離に近いが、「地蔵堂村」への「十六七丁、下り」は、実際の距離よりかなり長く感じたようだ。
   
      では、また!

 矢倉沢往還 足柄峠道 (1)

  江戸時代の定山・矢倉沢往還         
 

矢倉沢往還 1-2
定山林道が開通したのは1990年代初頭らしい。

2021年5月に仙石原に通じる県道 731 が開通し、定山林道はその一部となった。

定山の古道調査報告「市内史蹟 蛤沢および蛤坂の古道」(史談足柄 21 1983年) では、陣場 (馬場平) の古道分岐から先はか細い山道で、その道も途切れがちで藪の中を歩いたりしている (1982年5月調査)。

 1. 陣場 (馬場平) -定山城址 

陣場「新編相模国風土記稿  御陣場蹟」「西南ノ方。路傍ノ林中ヲ云。長二十間許、横十間許」「家康公ハ (中略) 此所ニ御陣ヲ据ラレシト覚ユ」。

ここに陣を張ったと云われるのは、足柄城を攻略して降りて来た井伊直政隊で、家康本隊は元山中-宮城野-明神・明星ヶ岳間の四ッ尾を経て諏訪野原に出たと推定される。

「相中留恩記略」は「御陣場は矢倉沢村御関所の西方、足柄峠へ往還の傍なる小山(=366m峰)をいふ。道を隔て番場、関場等の名あり」「天正十八年(略)大神君様(=徳川家康)は足柄越を遊ばされし時、暫し御陣を居たまひし遺名なるべし。」と述べ、366m峰を「御陣場」とする。

366m峰の頂上はやや広い畑地で、家が一軒ある(かつては居住していたが、現在は無住)。
「道を隔て番場 (=馬場)」はわかるが、「関場」とは?

定山古道 2

「蛤沢および蛤坂の古道」中の古道図 (部分)

この図の道は、上図の ①-②-「廃道」-「古道」の線と一致する。

定山林道が建設されるまで、江戸時代からの道に変化がなかったのではないか。

天保7年 矢倉沢村絵図



天保7 (1836) 年10月 矢倉沢村絵図 (部分)

366m峰に「御陣場山」、馬場に「番場」と記入あり。

「番場」から右に分れる「山道」は一ノ瀬道 (こなら尾への入会道)。

「陣場」で左にいく山道と分かれて間もなく「千本」と記入された畑地と家屋記号がある。この場所は平坦地で、現在は一面の杉林。

厄除地蔵 文化8(1811)年
① 足柄古道入口の厄除地蔵 (2018年撮影)

地蔵像の左が古道。
このあたり、林道から立派な県道になって、すっかり様子が変ってしまった。

 「南無厄除一切経 願主▢氏寿堂 施主村中」
   「文化八辛未(1811年)稔七月 世話人 善兵衛」 

史談足柄 39 「調査報告」では、台石の二面に文字彫刻跡があることから、江戸時代には定山城址の追分にあって、道標の役割もあったのではないか、と推定している。
古道入口について「蛤沢および蛤坂の古道」は「『足柄道』と『足柄古道』の立札が立ててある」と記しているだけで、厄除地蔵のことは書いていない。
定山林道建設以前の1982年には、地蔵像はこの場所にはなかったのかもしれない。


現存古道









② 地蔵像の先、わずかに残る古道。

この辺で左折

旧道はこのあたりで左折する。
現道の左側奥にはフェンスがあって入れない。

現道が車道に合流する所から左にトラバースする山道がある。
この山道と旧往還は交差するはずだが、旧往還の痕跡はまったくない。

旧道は藪の中


旧道はこのあたりを登っていくが、少し先からひどい笹藪で、探索はあきらめた。

地形図で確認すると、廃道となった旧道は「足柄峠の古代道跡」で紹介した ③ の道跡に続いていたようだ。

千本



「千本」

天保7年 (1836) の矢倉沢村絵図では畑地とされ、家屋記号が描かれている。

見取絵図 千本
文化3年 (1806) 年「矢倉沢通見取絵図」(部分)
この部分が「千本」に該当するようだ。
道の向う側に家屋2軒と屋根1つが描かれ、右奥の鳥居に「山神」と記されている。この「山神」は現存しない。
道の手前側の屋根2つと向う側の屋根1つは、掘立柱に屋根だけつけた物置であろうか。

「千本」を北に横切ると、古代官道跡かと思われる掘割の上端に達する。
古代官道は①から 366 メートル峰に登り、尾根筋を東に向っていたのではないか。

この先、足柄城址東側の鞍部までは 
足柄峠の古道跡 (1) を参照してくだされ。

 2. 地蔵堂・ちどり坂 - 蛤沢

ちどり坂-蛤沢


変則的になるが、地蔵堂から東へ向かう。

新編相模風土記稿 矢倉沢村:
「小名 足柄 又地蔵堂トモ云。是ハ地蔵堂所在ノ地ナルガ故ナリ。」
                                                                     
地蔵堂川



「矢倉沢通見取絵図」(部分)
文化3(1806)年完成。

内川の橋には「字地蔵堂川土橋」と記されており、内川を「地蔵堂川」と (も) 呼んでいたらしい。
「字蛤沢」には「水抜土橋」が架かっている。

地蔵堂 伊能図
「伊能図」(部分)
文化8年12月3日 (1812年1月16日) 、第8次 (九州第二次) 伊能測量隊は矢倉沢村から竹下 (竹ノ下) 村まで測量した。
このあたりについて「測量日記」には「矢倉沢より一里許にて地蔵堂という茶屋あり」と書かれているだけ。
 
相ノ川、内川、狩川が一本の川として描かれている。この図では、内川渡河地点で流れが逆になってしまう。
よくわからないが、強いて言えば ④ で内川を渡っているように見える。

ちどり坂
③ ちどり坂
 うるし亭 (かつての旅籠富士屋) の向い側から 「 ちどり坂」と呼ばれていた坂を下り、堰堤上の川原に降り立つ。
内川を渡って右岸の山道を下流側に進むと採石プラント跡地に至る。


内川右岸の道




④ 右岸の道の途中から、上流側に向って降りて行く古い道跡がある。

街道の跡なのか、採石プラントへの連絡路として造った道なのかわからない。

④ - 1






④ の道を降りていくと、二段堰堤の少し下流に降り立つ。

④ - 2







同地点から下流側

⑤


対岸 (左岸) を見ると、思いがけないことに、崩れかけた石積が見える。
石積の上には、明らかに道跡と分る平坦面が下流に向って続いている。
川を渡って這い上がってみたが、道跡には笹藪が密生して歩けそうにない。

左岸石積






川に沿って降りて行くと、所々に石積が残っている。

⑥ - 1



⑤ 左岸の道跡はこの地点 (画面右端) で河原に降りる。
相ノ川合流点から30メートルくらい上流。


⑥ - 2







川原に降りる直前の石積。


⑥ - 3




同地点の対岸 (右岸)。

1960年代まで、右岸は棚田だった。


天保7年
天保7年 矢倉沢村絵図 (部分)

右岸一帯 (採石プラント跡地) は江戸時代から水田だった。

堰堤が建設された現在では、堰堤上の川原で簡単に川を渡れるが、当時のその場所の川床は現在よりも10メートルくらいは低く、深い峡谷をなしていたのであろう。


「矢倉沢通見取絵図」と「伊能図」に描かれた内川渡河地点あたりの道の形状は、④とする方が符合する。
「矢倉沢通見取絵図」(部分) と地理院地図に線を引いた図を比べてみる。
蛤沢-地蔵堂(上)「矢倉沢通見取絵図」文化3(1806) 年
(下) 地理院地図 ちどり坂を降りて内川を渡り、④ を登るルートを記入した。

両ルートは、ほとんど一致しているように見える。
とすると、④ がかつての街道だったのか。

明治時代以降、御厨の村々が負担していた架橋が行われなくなり、橋が架けられることもなくなると、左岸沿いに緩やかな道を新たに開削して、谷が開けた所で徒渉するようになった、のか (想像です) 。

1961-69




1960年代 空撮写真
蛤沢から内川まで棚田が広がっていた。


1974-78




1974 - 78 年 空撮写真

棚田が採石プラントに替わっている。
採石場は内川の300メートルほど上流にあって、車道が通じていた。


採石プラント






採石プラント跡地

車道跡







右の石積の上が採石場に続く車道

蛤沢を渡る


⑥ 蛤沢を渡る。
江戸時代、水抜土橋が架かっていた。

新編相模国風土記稿「小名足柄ノ東邊山間ヨリ出ツ、蛤澤ト唱フ、今此澤ヨリ蛤形ノ化石出、故ニ此唱ヘアリ」

蛤沢
蛤沢

明治18年 矢倉沢村皇国地誌「字蛤沢ヨリ起リ (中略) 北東ヘ三百間 (中略) 内川ニ入ル、幅六尺ヨリ弐間平水ハ深サ五寸ヨリ壱尺幅三尺ヨリ六尺トス、此沢ヨリ蛤ノ化石今モ出ヅ、石蛤ト云フ」
現在より水量が多かったのか?

「足柄上郡誌」(大正13年刊)に「蛤沢 附近の沢に、山葵(わさび)田を設けて栽培す、其質佳良にして、一般に賞美せらる。」とあり、このあたりでワサビを作っていたようだ。
化石

蛤沢を少し登ると、貝の化石が転がっている。
新編相模國風土記稿「蛤澤ヨリ蛤形ノ化石出ツ。石蛤ト唱フ」
2016年、南足柄市が「箱根ジオパーク」に編入され、「蛤沢周辺」もジオサイトとなった。

    [ 内川の橋 ]

宝永5年2月 (1708年3-4月)  の矢倉沢村明細帳に「足柄地蔵堂前土橋」の表記がある。これが地蔵堂の内川に架かっていた橋の名称としては最古の記録かな?
この文書は虫喰欠損が大きくて、その下が失われており、続いて何が書かれていたのか分からない。

天保12年(1841) に完成した「新編相模國風土記稿 矢倉沢村」に「内川 板橋一 長八間。 土橋二 長 一八間、一六間。 ヲ架セリ。川岸ニ水除ノ石隄アリ。」とあり、内川に板橋が1、土橋が2架かっていたことがわかる。
板橋は、矢倉沢本村への入口となる現在の前田橋か、地蔵堂下の矢倉沢往還の橋のいずれかであろう。

矢倉沢村の地蔵堂橋掛替・修理は御厨の村々が負担することになっていた。
先に触れた宝永5 (1708) 年 矢倉沢村明細帳の「足柄地蔵堂前土橋」の次の行には「御厨御領分」と記されている。その下は虫喰欠損となっていて以下は不明だが、この橋が御厨領に属することを示しているように思える。

「小山町史 2 近世資料編1」に No.69 享保12(1727) 、No.71 天明2(1782) No.73 寛政8(1796)の関係資料が収録されている。

橋の名称がNo.69は「矢倉沢村地蔵堂橋」、No.71 / 73は「矢倉沢村之内地蔵堂大橋」となっているのは、その間に橋が架替えられて呼び方がかわったとも考えられる。
No.69 とNo.71 は50年以上の年差があるから、その間に木製橋が架替えられたとみる方が自然であろう。
架替えられた橋が従前よりも大きくなったので「大」をつけた?「矢倉沢村」を入れているのは、御厨側から見ているからだろう。


     ( 続 く )

 足柄峠の古道跡 (1)

    【 足柄山の古道跡 】

     [ 東   坂 ]
定山古道跡これまでのところ、定山城址より北東側で3ヵ所の古道跡がネット上に公表されている。

図のうち①は古代道路遺構と思われ、②は古代からの道路跡か中世以降の道跡か判断しがたい。
③は中世以降の道跡と思われ、②とともに矢倉沢往還としても使われ、車道(当初は林道)が開通するまで地蔵堂-関場間の交通路(徒歩道)であった。
その他、③の南西、車道脇にも古道跡の法面が残っている。
陣場-千本


陣場 (馬場) - 千本

「千本」は、天保7 (1836) 年10月「矢倉沢村絵図 」中に記入されている地名である。

赤破線は現在の山道

地形図に記入されている黒線の道は、クランク状カーブ開始地点から南側は廃道で、現存しない。

① 390m


① 車道から北の杉林に入り、天保7年の矢倉沢村絵図に「千本」と記入された畑跡の標高390m平坦地を横切ると、古代官道跡らしき凹みが見下ろせる。

標高385mから上を見る。道跡は車道法面まで続く。

① 380m



標高380m
 
下方は間もなく車道法面になる。
道幅・掘割の深さからして、古代官道跡じゃないかな。
千年前、菅原孝標の娘はここを通った?
②-1 鞍部東



② 定山城址東の鞍部から尾根に上ると、道跡が始まる。
左が法面で、平坦面が帯状に続く。
幅からすると、古代道跡の可能性があるのでは?
法面に沿って続く浅い凹みは、林道が開通するまで使われていた道と思われる。
②-2 送電塔手前









送電鉄塔まで道跡が続く。
前方の明るい所に送電鉄塔が立つ。
30号送電塔北東



②の東
30号送電鉄塔の東側

鉄塔の先にも道跡が続く。林道開通まで使われた道だったのだろう。
やがて道跡は消え失せるも、「千本」直前に法面らしき斜面が出現する。炭焼窯跡がある。

③


③ 車道から 「千本」への入口の前方に③ の道跡がある。
すぐに下りとなり、車道法面で道跡は途絶える。
古代道としては幅が狭い。
中世以降、江戸時代-昭和期に使われた道であろう。

定山古道2


渡辺武雄著「市内史蹟 蛤沢および蛤坂の古道」(史談足柄 21 1983年) p.21 より転載

② から ③ の道跡は、この図のルートと合致する。


     [  西  坂  ]

西坂








以下に紹介する古道跡のうち、② 以外はすでにネット上に発表されている。


古代官道跡?







① Google マップ より転載

上の赤枠は水田と嶽之下神社の間に続く帯状地形と神社参道。
下の赤線は斜面をまっすぐ下る凹状地形。

①




藪が深くて展望がきかず、写真では何だかよくわからないが、斜面の凹みが一直線に山裾まで続く。

1



山裾の平坦地に出た所。右側の林が嶽之下神社。
神社と左の田んぼの間に、平坦面が帯状に続いている。

2





前方の舗装道路は嶽之下神社参道。

3



振り返ると、林から出てきた所 (柑橘類の樹が立っている場所) まで平坦面が帯状にまっすぐ続いている。
左は嶽之下神社。

4




山裾からまっすぐ降りてきた道跡 (?) は、そのまま神社参道になる。

山腹のまっすぐな凹状地形から嶽之下神社の参道まで、ほぼ直線に連なる道跡らしき痕跡は、古代の官道跡じゃなかろうか。

① 上部




①から真上にまっすぐ登ると、ここで車道に出る。
少し右に行くと天保期の馬頭観音がある。

馬頭観音

車道脇の斜面の、やや高い所に立てかけてある。
ひょっとして、矢倉沢往還と古代道跡の交差点にあったものを、車道建設時に移動させたのかも。
延宝8(1681)年「駿河国竹之下村絵図面 」に道は記入されていないが、細い道があったとしてもおかしくない。

であれば、車道の上 (東) 側にも道跡が続いているんじゃないですかね。
さっそく上ってみました。すると、やっぱりありました (②) 。
以下は、道跡上方の畑から降りて行った時の写真です。

5




② 畑から古代官道跡 (?) に入った所。
荷造り紐で掘割の幅を測ってみると9メートル。
東坂の ① と同じくらいの幅に見える。
いよいよアヤシイ。

6







道跡の反対 (西) 側。

7





20メートルほど降りて行くと段差がある。

8
段差から40メートルくらい先。
笹藪がひどく、行こうという気になれない。
笹藪の向うは車道のようで、前方が明るくなっている。

車道が建設されるまで、①と②はつながっていたのであろう。

9





③ 戦ヶ入林道から地蔵堂川を左岸に渡って山道を登ると、

10




左に広い道跡が現れる。古代官道の遺構か?
まもなく道は細くなり、県道78 に出る。

1960年代






③ の道は、1960年代の空撮写真にはっきり写っている。

④ 虎御前石の尾根 (このあたりを「虎子じ山」というそうだ) 道は、古代から使われていたと推定されている。頼朝もこの尾根道を通ったのか。
登山道の脇には古い道跡が何本も残っている。
虎御前コース
1/50000 図 中央から左:昭和18年修正 22年発行「御殿場」/  同右:昭和20年修正 23年発行「小田原」
何故か赤坂道が記入されていない。
虎御前コース旧道は、地蔵堂川まで尾根上を通っていた(赤枠内)。下方で南側の谷に降りる現在の道は、
戦ヶ入林道開通後に設置した道であろう。

11








旧道は545メートル地点から北西に向かう。

12








ほどなく深い掘割になる。


13




延宝8 (1681) 年の「竹之下村絵図面」では、峠道が「古城 (足柄城) 跡」から赤坂道を通るように描かれているので、江戸時代初期には、すでに主要な街道としては使われなくなっていたようだ。


11

⑤ 戦ヶ入林道を横切ると、わりと幅広い道跡が下の沢に向って斜面をジグザグに降りていく。
古代官道の特徴とは異なっており、古代道ではないようだ。
カーブが鋭角なので車道跡ではないし、単なる山道としては幅が広すぎて、何なのかわからん。
中世後期以降の道?

⑥⑥ 林道から⑤を降り始めるとすぐに、左の尾根に切通しがあり、尾根の反対側に地蔵堂川に降りる細い道跡がある。
川沿いに道の痕跡はないが平坦地が続き、戦ヶ入林道に合流する。切通しまで造成して通したのだから、重要な道だったのだろう。昭和初期まで、この道を使っていたのかな? ⑤の方が合理的に思えるが。

      では、また!

 足柄路 もう一つの定山 (矢倉沢) 城址

定山 (矢倉沢) 城址と呼ばれている場所から100メートルほど南西に、もう一つの城址がある。
この城址下の道路に「矢倉沢定山城跡」解説板が設置されているため、ここが解説板にある「定山城跡」の「南廓」と誤解する方がおられるようだが、この遺構は解説板の「矢倉沢定山城跡」とは別物。

定山城址両者とも北東面から南面に対して防御態勢をとっており、南西側には顕著な防衛遺構が見られない。

両者間には小規模ながらも切岸状の地形などが見られ、つながっていたようである。
両者一体で定山城 (矢倉沢城) とするのが妥当なのでは。その意味では (解説板でいう「南廓」のことではなく) この遺構を南廓としてもよいかと思われる。

二つの城址間に多少の笹藪はあるものの、北側の林から容易に回避でき、歩行に困難はない。


こちらの遺構がきちんと調査されたことはないようで、詳しい資料を見たことがない。
富士山宝永噴火の際の降灰で埋まり (矢倉沢村では、多い所で3尺くらい積った)、近年の車道工事で南東側を削り取られて、かつての地形は大きく損なわれている。 
 
82
城址見取図

番号と矢印は写真に付した番号と撮影方向。

廓に記入したA、B、Cは説明の都合上、勝手に付したもので、あくまで仮の符号です。
Aはやや広い平坦地ではあるが、遺構のようなものは見当たらず、廓ではないかもしれない。

①




① 解説板の後が廓 C。

奇妙なことに、解説されているのは背後の城址ではなく、北東100メートルほどにある定山城址。

②







② 南側の堀の横断面。
 右が廓 C。
③





③ 西から見る廓 B。
 堀が Y字に分岐している。
④








④ 廓 C から見る廓 B。
⑤









⑤ 南側の堀。前方は写真②の車道法面の上。左が廓 C。

城址2 北東端段差




⑥ 杉の列が段差。
左は打ち捨てられた元茶畑。
茶畑の北西側も低い切岸になっている。

中間の段差






⑦ 二つの城址間の人工的な段差。
写真では分かりづらい。


「市内史蹟 蛤沢および蛤坂の古道」渡辺武雄 1983年 (史談足柄21) に「茶畑 (略) の中央部には、幅 5-6m、長さ 15mほどの空堀の一部が南西方向に延びている。」とあります。
茶畑 段差

茶畑中央を横切る段差 (通路の右縁)

たしかに茶畑の中央を段差が横切っており、通路として利用されている。
かなり削り取られてしまったようで、もはや「堀」の態をなしてはいないが、これが渡辺氏が述べている「空堀」だったのであろう。


茶畑 城址
1960年代、茶畑の空撮写真

茶畑の中央を横断する白線の一部が「空堀」らしい。
右上の赤枠内の白線は、写真⑤の堀であるように見える。

1979-83
1979-83年、空撮写真

渡辺氏一行が調査された頃の茶畑の様子。
中央の線の一部が「空堀」か。

この「空堀」は、堀ではなく古代の官道跡かも?

茶畑西側の杉林の中、道路から10メートルほど上に、車道と並行する切岸があり、古道の痕跡らしい。
この切岸と茶畑中央の「空堀」は位置がずれており、つながっていないようである。
この古道(鎌倉時代-車道建設時まで使われていたと推定)跡らしき切岸については、再調査のうえ報告するつもり。

      では、また!

 伊能忠敬が測った道 大山・蓑毛道 (4) 西の峠付近

 江戸時代の大山・蓑毛道 ( その6)

     【 西の峠付近 】

「天保七年十二月 (1837年1-2月) 蓑毛村明細帳」に
①「廿八町目より追分之有、不動尊道界迄弐町」とあって、「廿八町目」に「追分」があり、その「追分」から「不動尊道界」=西の峠「迄弐町」、
②「 木戸  壱ヶ所、高サ六尺八寸 横幅六尺、  右は石尊宮・不動尊追分ニ之有候。石尊宮西口一ノ木戸」とあり、「石尊宮 (山頂)・不動尊追分」=西の峠に「高サ六尺八寸 横幅六尺」の「石尊宮西口一ノ木戸」があった、 ことがわかる。

以下、この2点について検証する。
01300(左)「元禄二(1689)年 東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」(部分)
(右) 地理院地図 
赤線の道は女人禁制地内に入ることなく、女性も通行できた。

    ① 西の峠周辺の道

西の峠は、北方の山頂、南方は蓑毛への道、東方は大山寺不動堂へ向かう不動尊道 (かごや道 ・下社仮拝殿造営後の明治時代初頭には御拝殿道)、西方は春岳山 (春岳沢源流一帯)への道が交差する十字路になっている。
江戸時代、28丁目=女人禁制碑から北は女性立入禁止だったから、女性は西の峠に立入れなかった。
「天保七年 蓑毛村明細帳」にある「廿八町目より」「不動尊道界 (=西の峠) 迄弐町」は距離ではなく「町目」のことで、西の峠が30町目であることを意味している。
28町目から30丁目=西の峠間の実際の距離は、およそ1町(109m)。

西の峠

西の峠

正面(北)が山頂への登拝道、右(東)へ下社(旧・大山寺不動堂)、左(西)は春岳山-イタツミ尾根へ、手前(南)が蓑毛への道。
右下、指導標手前に御拝殿道碑。

峠の茶屋は、この写真の撮影位置あたりにあったのかもしれない。


御拝殿道碑「御師の村」(1984年 秦野市) によると、碑文は
「左 御拝殿道 明治九年八月新築」
(「明治九年八月新築」の部分は失われている)

明治6年に下社仮拝殿が完成したため、この石碑が設けられたのだろう。

迅速測図 明治15年阿夫利神社仮拝殿

迅速測図「神奈川縣相模國大住郡大山村」 明治15年12月測量 
視図 (挿絵)



道標裏面
反対面:こちらが表だそうです。

「取次 青木輝馬 東京 □講中 世話人」

享保期(1716-36)頃から、檀那・参詣者の祈願祈祷を、御師が供僧寺院・別当八大坊へ「取次」ぐようになっていったらしい。

失われた部分に「此方みのげ道」とあったそうです。
「此方」は手前側=南方をさす。

「明治九年八月」に、この「御拝殿道」碑を西の峠に「新築」した、ということは、その時点で蓑毛峠越えの「新」御拝殿道は未だ建設されていなかった、という事なのではないか。
BYQs1678左)明治16年測量「大山町」 /  右)明治39年測図「大山」

明治15年11月測量図 (迅速測図) と明治16年測量図には蓑毛峠から阿夫利神社まで「小徑」が記入されており、明治39年測図では蓑毛峠の北側70メートルくらいまで「里道 間路」、その北には「小徑」記号が記入されている。

とすると「新」御拝殿道は、まず小径として明治10年から同15年の間に開設されたと推定され、明治39年には拡幅改修工事が蓑毛峠の北側まで進行していた、とみてよいであろう。

蓑毛峠 御拝殿道
蓑毛峠北側のこのあたりは、明治年39年測図にみえる「里道 間路」の終点付近にあたるか。
見事な石積擁壁は、改修工事の際に建設されたものであろう。

蓑毛峠を通る「新」御拝殿道が建設されたため、西の峠からの「旧」御拝殿道を「かごや道」と呼ぶようになった、てことかな? それとも、江戸時代から「かごや道」の名称はあったのか?

下社
「相模國大山阿夫利神社下社新築圖」 
 銅版画 制作:暗雲閣 制作年不明

明治43(1910)年、下社竣工。

現・下社拝殿造営時(1977年竣工)、この旧拝殿を北側に移して相殿とした。

山駕籠は第二次大戦期まで、あるいは1950年代まで使われていた、ともいう。
夏山期間は農閑期であるため、山駕籠は山麓農民にとって恰好の副業であり、宿坊に出入りする職人も手伝っていたようだ。

山駕籠は24丁目の「駕籠屋・立場」まで上ることができ、その先は歩いて行く決りだったそうだ。
春岳山への道

元禄2(1689)年の絵図にも記入がある、西へ春岳山「滝ヶ沢」をこえてイタツミ尾根に続く道。

滝ヶ沢から西は崩壊が激しく、通行はきわめて困難。

「春嶽川、 村之北ニ当り、水上ハ春嶽山中程字滝ヶ沢より涌出」(天保7年 蓑毛村明細帳)

上に示した「元禄二(1689)年 東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」をみると、不動尊道が西の峠に上る手前で、尾根道と並行して28町目=女人禁制碑に達する道が分岐している。
女人禁制碑より内 (北) 側に女性は入れないから、禁制を避けるための別の道がないと、女性が蓑毛-大山寺不動堂の間を往来できなくなってしまうため、この道が必要だったのである。

明治元年10月6日(1868年11月19日)、女性1人を含むイギリス領事館の一行7人が木戸門をこじ開け、勝手に頂上まで登る、という事件があった。
神仏分離が急激に進行中だった当時の大山では、神道側内部も四分五裂の状況にあったが、急遽大同団結することになった。そこで合意された項目の一つとして、明治2 年から祭礼期間中の女人登山を許可することになった。(以上は 川島敏郎著「大山詣り」2017年 有隣堂 より要約)

明治5年3月27日 (
1872年 5月 4日) には太政官布告
「神社仏閣之地ニテ女人結界之場所有之候所、自今被廃止候条、登山、参詣、可為勝手事」が発布され、女人禁制が公式に廃された。

それからほどなく、登山禁止期間さえも無視されていった様子は、女性1人を含むアーネスト・サトウ一行が、開山期間外の明治6(1873)年11月に大山に登った際、「信者が時々信仰行脚で頂上まで登って来る。」(E.サトウ「日本旅行日記 2」東洋文庫 p.175)と記していることからもうかがえる

女人禁制追分
女人禁制碑 (左奥) と28町目石 (手前)
「廿八町目より追分之有」

女人禁制碑の前が「追分」だったようだ。
「追分」より先、西の峠方面に女性が立入ることは許されなかった。

禁制碑から道をはさんだ向い側、青いテープが巻いてある樹の左側が、女性も通れた不動堂への道の入口。

天保9年(=1838)の作と推定される道中記「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」に「蓑毛ゟ(より)直ニ登山ニ懸ル。表口不動尊江之追分ケ迠(「迄」の誤字)廿八丁。」とある。
この場所が、女人禁制碑が建立された弘化2年(=1845)より前から追分であったことが分る。弘化元年以前にも、別の女人禁制碑があったのだろうか。

28丁目明治時代初めまで、不動堂-蓑毛間を往来する女性は、この道を通った。
女人禁制が解かれると、この道は不要になった。
前方女人禁制碑 右上尾根北側から見る両道の分岐点。
正面が28町目への道。
西の峠へは切り株の先で右斜め上に登り、くの字に折れて、現在の西の峠より10メートルほど南の尾根筋に出る。
尾根道までわずかな距離だが、女性が峠に上ることは許されなかった。

表参道 (本坂) では、大山寺不動堂脇の八ノ鳥居・木戸門が女人結界を兼ねていた。

龝(秋)里籬蔦(あきさとりとう)編「東海道名所圖會 巻之五 大山寺」寛政9年(1797)
「石尊大権現社 本堂奧不動より嶮路廿八町にあり。女人結界なり。勿論常に諸人の参詣を禁ず。毎歳六月廿七日より七月十七日まで参詣を免(ゆる)す。(略)常は本堂の傍なる中門を閉(とじて)登山なし」

それだけでなく、
慶長14(1609) 年の「定」によって「前不動(現・追分社)」から上は「清僧結界之地」とされ、「妻帯幷山伏在家居住之屋敷」は「八大坊清僧之」所有となった。
して午後4時から午前8時まで女人禁制となったそうである 。

  ②「石尊宮西口一ノ木戸」

「天保七年十二月 蓑毛村明細帳  木戸 石尊宮・不動尊追分ニ之有候。
石尊宮西口一ノ木戸
「新編相模国風土記稿 蓑毛村 春嶽山 山ノ中腹ニ木戸門アリ。是ハ石尊社ヘ西ノ方ヨリ登ル路ニテ常ニハトサセリ。」

30丁目 礎石か(左)「石尊宮・不動尊追分」=西の峠で見つけた、穴があいた四角い石。角材用の礎石に見える。
(右)場所は、三十丁目石から2メートルほど離れた登山道上(画面中央)。場所と形からして「木戸」の礎石だったんじゃなかろうか。

木戸右下に三十丁目石。
丁目石の先に「
高サ六尺八寸 横幅六尺」の「石尊宮西口一ノ木戸」があったのかな。

だとすれば、伊能測量隊は、眼前に閉ざされた木戸を眺めながら、「峠茶屋にて小休」したことになる。

本宮は山頂の石尊社(および頂上部)のことだが、江戸時代には木戸から上が「本宮」(地元では「ほんごう」と発音した)と呼ばれ、神域と見なされたという。

「大山縁起(真名本)」(鎌倉時代末-室町時代初期)に「上人行本宮山」-良弁(とされる開山上人)は(大山)頂上に行った-とあります。
「相中留恩記略」(天保10年成立)は「大山寺  山頂 爰(ここ)に石尊社あり。是を本宮といふ。」と記す。

木戸(門)が、蓑毛道の女人結界である28丁目ではなく30丁目の西の峠に設置されたのは、 28丁目であると、大山寺 (現・下社) から不動尊道を西の峠に登ってきた登山者が、木戸を通らずに山頂に行けてしまうからである。

不動尊道図式にすると、左図のようになる。
① 西口木戸(門)
② 女人結界(=女人禁制碑)
③ 本坂木戸 青銅製鳥居は享保4年(1719)に建てられた。「からかねの大鳥居あり(略)是ゟ(より)上へハ女人禁制なり」(「相州大山参詣獨案内道の記」)

女性は②から上(北)が立入禁止だから、緑色の道がないと、大山寺-蓑毛間が通行できない。
①が西の峠より下(南)にあると、大山寺から西の峠に登り着いた登山者は、木戸を通らずに山頂に行けてしまう。
    
      では、また!

 伊能忠敬が測った道 大山・蓑毛道 (3) 丁目石 - 2

 江戸時代の大山・蓑毛道 (その5)  

 【 30-36丁目石 (町石) を検証 】

     [ 三十丁目 ]

30丁目西の峠
正面:「三十丁目 神田 龍吐水」
右面:「弘化二巳(1845)年正月吉日」
左面:「御師 邊見民部」

下部、「水」の右にも文字らしきものが刻まれているが、判読できない。

「神田」は、現在の千代田区北東部にあたり、東部は主に町人地、西部は主に武家地で、江戸の総鎮守・神田明神を祀る。
弘化2年当時、神田を担当した火消は「よ組」だった。
「龍吐水」(雲龍水ともいう)は、江戸時代から明治時代中頃まで使われた手押し消火ポンプ。

長崎から江戸に伝わった「龍吐水」について、幕府は寛延 4 / 宝暦1(1751)年に町方から意見を聞いたうえ、明和年間(1764-72)初期に町火消に導入したようである。
しかし、龍吐水は高値なうえに放水能力が低く、運搬も困難で、実際の消火活動にはほとんど役立たず、むしろ、消火活動の目印となる纏をもって風下の家の屋根に立つ纏持ちに水をかけるために使われたりしていたようだ。
草双紙年代記




「草双紙年代記」
天明3(1783)年刊
山東京伝 画

水を天に噴き上げて大雨を降らせる場面。右下に龍吐水


龍吐水








龍吐水 

「消防防災博物館」より転載


水鉄砲筒状の小型手押し消火ポンプ (水鉄砲) も龍吐水と呼ばれた。
大型の龍吐水より機動性に富むため、火消の常備品となった。
「関ヶ原町歴史民俗学習館」より転載

各町に龍吐水屋・龍吐水師・龍吐水細工所などと称する業者がいて、龍吐水を製造販売していた。

調べた範囲では、銘に「神田」が含まれる龍吐水に
「江戸 神田三川町 龍吐水師 天野屋利平」「江戸 神田三河町二丁目 龍土師 天野半七」「神田松田町 松本竹蔵」があった。
「神田松田町」は現在の神田駅東側、「神田三川(河)町」は同西側あたり。

これらの業者が「よ組」と緊密な関係にあったことは間違いあるまい。


「神田 龍吐水」
「芝で生まれて神田で育ち、今じゃ火消の纏持ち」と云われた江戸町火消のうち、神田明神を氏神とする一番組の「よ組」は、人足数が最も多く、人気もナンバーワンだった。

寛政年間(1789-1801)には江戸木遣り ( 元は木材などを運ぶ時の作業歌。のち祭礼の歌にもなった ) の始祖ともされる喜六・弥六の二人の木遣り名人が、よ組から現れている。
文政年間(1818-30) の佃節の一節「いきな深川 いなせな神田 人の悪いは麹町」からは、左官・大工・土方が多く住んでいた神田の若者の気風を「いなせ」とみていたことが知れる。
そんな神田の火消を「龍吐水」で象徴したのだろうか。
当時は「神田 龍吐水」だけで、いなせな神田の火消が、たちどころに思い浮かんだ、のかな?

   [ よ組 ]


よ組

(左)享保7(1722)年8月
担当地区:「鎌倉町 永富町 鍛冶町 多町 大工町 白壁町  須田町 鍋町 紺屋町 小柳町 平永町 三河町 人足七百二十人」
纏上部は、神田の「田」。
嘉永4(1851) 年の「町火消配置図」では、担当地区が東神田となっている。
(右)
「新板 纏つくし」落合芳幾  安政3(1856)年 より 「よ組」(部分)


900m 茶店跡標高900メートル地点

『日本山岳案内 1 』(1940年5月)  の「大山 浅間山尾根経由」の項に「小平らな尾根の分岐点であって、茶店が一軒ある」とある。
この文章の前後の描写からすると、写真右側の石積上の小平地に茶店があったらしい。


「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」(天保9年)「蓑毛ゟ(より)直ニ登山ニ懸ル。(略)道筋所々堂社、幷(ならび)ニ茶屋有之。」


「秦野むかしがたり」(1992 秦野市老人クラブ連合会)に戦前の話として「登山道の中腹に三軒、地元より茶店を出し、客が休めば麦茶・サイダー・ラムネ等を売っていた。」とあります。

とすると、その頃の蓑毛道には、上記の店のほかに2軒の茶店があったということだな。立地条件から考えると、うち1軒は西の峠にあったのかもしれん。もう1軒は蓑毛峠かな。

戦前の表参道には、下社-山頂の間に茶店が十軒くらいあったそうで、水は、下の方の店では下社から汲んでいき、上の方の店では、頂上近くのわずかな湧水「ゴクウの水」を汲んでいた、という。
「ゴクウの水」は御供水 (ごくうすい) であろう。大正末ころ、コップ一杯の水を2銭くらいで売っていた。

「相模國雨降山細見之扣」(19世紀中頃)に「二十四丁目、大日如来、左り方壱丁余り入、閼伽之水湧出ル。」という記述がある。
「閼伽(あか)之水」は仏に供える御供水。「ゴクウの水」はこの水のことだろう。
24丁目は山駕籠の終点でもあった。

「大山縁起」真名本「上人行本宮山。無水不便。咒以三鈷杵穿石。石竇引溜。湧出不絶。若人洒掃。水失却。亦洒掃止時亦如故。今本宮閼伽井是也。」
「上人」は良弁、「本宮」は大山の山頂部を指す。

「大山縁起」は開山上人「金鷲行者」良弁にまつわる霊験譚。真名本は鎌倉時代末-室町時代初期に成立か。物語風の仮名本は室町末期になって成立したと推定されている。

「峯中記略扣」日向修験・常蓮坊(江戸時代後期-末期)「石尊大天狗小天狗(=山頂の3社)江札納夫ヨリ閼伽ノ水有」


天保七(1836)年 蓑毛村明細帳「閼伽水 右は春嶽山ニ有之、六尺四方之清水ニ御座候、大山石尊之御供水ニ相用申候。」


     [ 三十三丁目 ]

倒れた33丁目石


標高920メートル地点

倒れた三十三丁目石
こうして埋もれていくのか。


三十三丁目
「三十三丁目 諏訪町 銭?屋喜三郎 元鳥越 出羽屋金八」
「銭」ではないかも。よくわからん。
左面は埋没。
サイズは八丁目石と同じ。
「諏訪町」と「元鳥越町」は隣町ではなく、少し離れている。
寄進者の二人は、どういう間柄だったんだろう。

「(浅草)諏訪町」の名は、「おすわさま」として篤く敬われた諏訪明神社に由来する。社前は浅草寺雷門へ向かう人通りの多い道。
「(浅草)元鳥越」町の「鳥越」は鳥越大明神 (鳥越神社) に由来する。「元」がつくのは、正保2年、浅草鳥越町域の一部が幕府によって収公された際の代地が「浅草新鳥越町」となったため、もとの町が「浅草本鳥越町」に改称、のちにさらに改称して「浅草元鳥越町」となった。

右面




右面の枯枝を取り除くと

「弘化二巳年正月吉日」


    [ 三十六丁目 ]

追分道標











本坂16町目
追分

本坂追分道標 宝暦11(1761)年 「従是右富士浅間道」
基壇の脇 (写真左下) に蓑毛道36丁目石


36丁目







正面:「三十六丁目 福富町壱丁目 大口屋清一」
右面:「弘化二巳年正月吉日」
左面:「御師 邊見民部」

「(浅草)福富町壱丁目」は元鳥越町に隣接。
「大口屋清一」は不詳。基部が苔で覆われてはっきり読み取れず、最下端の文字は「一」ではないかもしれない。

元鳥越町 福富町1丁目 諏訪町「浅草御蔵前邊圖」(部分) 文久元 (1861) 年出版 方位は上が西、右が北
赤枠  左上:元鳥越町  その下:福富町1丁目  右下:諏訪町

本来は36基あったはずの弘化二年の蓑毛道丁目石のうち、現存するのは7基のみなので、はっきりとは分らないが、蓑毛から女人禁制碑までは「御蔵前」の南側、西の峠から上は同西側から北側の江戸町民が願主・寄進者となっているように思える。
つまり28丁目=結界を境として区分けされているように見える。
とはいえ、29基は消失しているので、たしかなことは分らない。
            
     では、また!

 伊能忠敬が測った道 大山・蓑毛道 (2) 丁目石 - 1

 江戸時代の大山・蓑毛道 (その 4)

【 弘化二年の丁目石 (町石) を検証 】
    ( 二十八丁目まで )

弘化二年の丁目石は、さらに西の峠に三十丁目、標高920メートルに三十三丁目、本坂追分に三十六丁目が残存し、御師名と建立日付が共通する。
この三基については、次回報告する。

正面宝暦2(1752)年建立
不動堂石段下の道標
「従是 不動 石尊 道」
「御蔵前」(台石)

この道標(と28町目石)のスポンサー (檀那) は小田原千度小路と相州岩村の各講中(大山講)。
ところが、台石には「御蔵前」とあるのだ。
それに、道標の文字と比べて書体がまったく異なるし、なによりも文字 (と台石自体) がアンバランスに大きすぎないか。
どういうことだろう。

「御蔵前」は、弘化2(1845)年に設置された元宿・八丁目・ニ十八丁目の丁目石に共通して現れる。

「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」(天保9年=1838) に「(不動堂近くに)浅草御蔵前ゟ(より)奉納 茶施たい(接待)の堂有之。
此所ニも寄(奇)麗の額敉多有之。」とあり、御蔵前は参拝者をお茶で接待するお堂も寄進していた。

浅草御蔵前辺図 (部分)   (国立国会図書館デジタルコレクション より転載)
御蔵前 切絵図
左:神田川 下:隅田川 ( 右側が上流。吾妻橋から下流は大川と呼ばれた。)
合流点から右、隅田川 (大川) 沿いが柳橋(浅草)代地と俗称された。明治9年、代地河岸に改称。その上流側に「浅草御蔵」と「御蔵前」。

     [ 弘化2(1845)年の丁目石 ]

代地川長左:元宿 丁目石 (上部欠損)「御蔵前 代地川長」
右:「開化三十六会席 
浅草代地 川長」絵師:豊原国周 明治11(1878)年出版 

現在の台東区柳橋1丁目の隅田川沿いは、俗に柳橋代地、あるいは浅草代地と呼ばれ、花柳界であった。代地が多かったために、そう呼ばれるようになったのだろう。
「川長」は料理屋、明治28年まで同地で営業していた。

川長(左)「流行料理献立競」嘉永7年(1854) 「同(前頭) 大代地 川長」
(右)「即席会席御料理」安政6年(1859) 「関脇 大代地 川長」
「大代地」は現在の台東区柳橋 1・2丁目にあたる。

2
左:「八丁目 御蔵前 上善」「上善」は詳細不明。料理屋か?
右:「二十八丁目 御蔵前 武蔵屋徳松」「ほ組」(台石)  「武蔵屋徳松」は、永井啓夫著
「新版 三遊亭円朝」(青蛙房 1998年) に、その名が二か所で現れる。

同書によると、同業者間のトラブルが原因で、はなし家をやめようとした円朝が「知人の顔役、武蔵屋徳松(茶船乗の親分、浅草茅町の寄席武蔵野の席亭)になだめられて思い止ったという。」( 同書30ページ)。
もう一ヵ所は、「円朝はこの年(明治元年)の秋、父の知人、茶船乗の親分武蔵屋徳松のすすめで、大代地(浅草旅籠町・台東区柳橋二丁目)へ移転した。そして、徳松が経営する浅草茅町の寄席武蔵野へ出勤、両国におとらぬ盛況を得たという。 
大代地にはこの頃、文人画人が多く住み、和やかな交際の場を作っていた。」( 同書45ページ )。

この武蔵屋徳松が、弘化2年の丁目石に記された「武蔵屋徳松」と同一人物なのか、確定はできないものの、明治元年と弘化2年は23年の隔たりだから、その可能性はあると思う。

茶船 (喜田川守貞著「守貞謾稿」巻之五 生業 上 より引用):
「大阪より漕し来る樽および菱垣船、ともに品川浦に繋ぎ、この茶船をもって諸賈物を川岸に伝え漕す。すなわち大阪上荷船と同用の舟なり。鉄砲州および大川端(吾妻橋から下流の隅田川右岸一帯)にこの屋あり、号(なづけ)て「はしけやど」と云う。茶船米六十五石積を本とし、この運賃銀十八匁五分なり。けだし船士一人なり。三人を用う時は別に二人を雇いと云い、一人各三百銭なり。しかも米百二、三十石は積み得るなり。」

武蔵屋徳松は寄席の経営者であり、茶船の乗組員を仕切っていた親分でもあった、ということだな。

 [ 廿七丁目石とニ十八丁目台石の「ほ組」]

27 - 28
左:「廿七丁目 ほ組 平吉 平三(郎)」( )内は資料から復元
右:二十八丁目 台石「ほ組」 「ほ組」は江戸町火消「いろは四十八組」のうち八番組(ほ・わ・か・た組)のひとつ。

ほ組

左:享保7(1722)年8月 担当地区:「浅艸平右衛門町 茅町辺、旅篭町 森田町 猿屋町 天王町 瓦町 元鳥越町辺 人足百三人」 嘉永4(1851) 年の「町火消配置図」では、担当地区が蔵前となっている。
右:纏つくし(新版)安政3(1856)年 より「ほ組」


「御師 邊見民部」が「御蔵前」を檀那場としていたことは、間違いなかろう。
では、宝暦2年の道標(町目石の起点)が弘化2年の丁目石 ( の起点?) の台石に乗っかっているのは、どうしたわけか?
道標台石これは道標の右面基部。
台石の凹みと道標との間にかなり隙間がある。
写真ではよくわからないが、矢印先の台石凹みの隅から左に凹みの端の線がある。
初めから道標の台石にするものなら、隙間なくぴったり合わせて作るものだ。

ということは、この宝暦2年の道標は、弘化2年の大きすぎる台石に載っている、ということだ。
なんらかの事情で、宝暦2年の台石と弘化2年の上部が失われ、残った上下を組み合わせた、のだろう。

道標追記 2024年3月6日 

「秦野 郷土研究」2号 1976年1月 所載 〈『「会報」秦野文化協会 昭和三十六年第5号』から「秦野市内の道標」安本利正〉にこの写真「蓑毛 不動堂前所在」があった。台石がない。
「秦野市内の道標」が秦野文化協会「会報」に発表されたのが昭和36年(1961)。この頃には、宝暦2年の道標はまだ台石に乗っていなかったのだ。

     ( 続 く )

 伊能忠敬が測った道 大山・蓑毛道 (1) 町目石と蓑毛水害

  江戸時代の大山・蓑毛道 (その 3)       

    [ 宝暦2年の町目石 ]

石段








蓑毛大日堂の右奥に不動堂に登る石段があり、基部に道標とされる石碑がある ( 石段左下 )。

道標(左)正面:「従是 不動 石尊 道」「御蔵前」(台石) 
(中)右面:「寶暦二壬▢(1752)六月吉日 相州 岩村」( ▢は判読不能、申か?)
(右)左面:「相州小田原 千度小路 講中」
裏面:風化により、上部はほとんど読み取れない。「同行石工八良兵衛 御師横溝喜太夫」(「御師の村」1984 秦野市 ) だそうです。

台石の「御蔵前」については、項をあらためて検証する。

28町目二十八町目石
正面:「是迄ニ十八町目」
右面:「願主 相州小田原 千度小路 講中」
左面:「寶暦二壬申六月吉日 相州岩村講中」

「千度小路」と「岩村」は、どちらも相模湾に面した漁村だった。
「岩村」は現・真鶴町。石工が多く住んでいたという。

「千度小路」は、現在の小田原市本町3町目から浜町3町目にかけての海辺の地区。後北条氏時代には船方村だった。
江戸時代には漁業・廻船業・魚商の拠点で魚座を作って魚を販売し、「海士方(あまかた)」と呼ばれる役の魚商人が藩に魚を献上した。
明治時代になると魚座商人によって魚市場が開設され、1968年まで魚市場があった。
海の守り神・八代龍王
を祀る龍宮神社があり、ここで大漁と安全を祈願してから海に出た、という。

龍宮神社(龍宮さん)は八代龍神ともいう。八代は熊本県八代海のことで、秀吉の小田原攻めの際、八代水軍が難破、海岸に打ち上げられた難破船から船神様を取り出して祭ったのがこの神社だといい、船員はこの地に住み着いたそうだ。
不漁の時には大山に詣で、豊漁を祈願したようである。
大山は相模灘に出る漁師にとっては山当て (航海の目印とする山) として重要な山であったことから、豊漁と航海安全を祈願する山でもあった。


蓑毛不動堂下の道標とニ十八町目石は、「相州小田原千度小路講中」「寶暦二壬 六月吉日 相州 岩村」が共通しており、この二つはワンセットで設置されたと断定してよいだろう。

「天保七年十二月 (1837年1-2月) 蓑毛村明細帳」に「
坂之儀は、大日堂より石尊道迄登り五拾三町」、天保12(1841)年に成立した「新編相模国風土記稿」には「坂 村内大日堂ヨリ石尊社ヘ行道ニアリ。登五十三町。」と記されている。
どちらにも「大日堂より」とあるから、蓑毛不動堂石段下の宝暦2年の道標は、やはり町目石の起点と考えてよいかと思う。
「風土記稿」に「石尊社ヘ (中略) 五十三町」とあるから、「明細帳」の「石尊道迄登り五拾三町」は「石尊社(山頂)迄」のことだろう。

万延元年(1860)「不二山道知留辺」には蓑毛から「五十六丁上り」と書かれている。
「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」(天保9年=1838)も「表口不動尊江之追分ケ迠(=「迄」の誤字)廿八丁。同所ゟ(より)頂上石尊宮迠廿八丁、都合五十六丁の登り。道筋所々堂社、幷ニ茶屋有之。」と記し、どちらも蓑毛-頂上を56丁とする。

    [ 53町と56丁 ]

36丁目本坂追分 (本坂16町目) から先、山頂の28町目までの12町を加えると48町になるんだが、なんで53町、あるいは56丁なんだろ?

53町は 18 の数字と関わりがありそうだ。
表参道の男坂・女坂はそれぞれ18町、「不二山道知留辺」(万延元年)の大山図では、蓑毛道と大山寺を結ぶ不動尊道が「十八丁」とされる。 

「18」という数字は、念仏によって極楽浄土に往生し仏果が得られると説く阿弥陀如来の「第十八願」(念仏往生願・王本願)が平安時代から浄土教で重要視され、深く信仰されたことに由来するようである。
「十八界(十八境界)」(六根・六境・六識の総称)にも、この数字が使われる。
江戸時代には「武芸十八般」・「歌舞伎十八番」などの表現が見える。
18は縁起の良い数として使われていた。
蓑毛道終点(=本坂追分)が36丁目なのも、18の倍数ということだろう。

表参道(本坂)との追分を終点とする蓑毛道では、表参道の町目とは別に、36丁目(本坂16町目)から山頂までを(不動尊道と同様に)18丁とカウントしたのではないか。
すると、(終点36丁目=始点1丁目として) 35+18=53丁となり、計算が合う。
そ~ゆ~ことなんじゃないかな。

56丁は二十八宿 からきていると考えられる。
二十八宿は、天球を28宿 (星座) に区分する中国起源の天文学・占星術の考え方で、高松塚古墳・キトラ古墳の壁画には、東西南北の各七宿(全部で二十八宿)を守る四神=青龍・玄武・白虎・朱雀が描かれている。
江戸時代には二十八宿を採用した貞享暦が作られ(1684-1754に使用)、天文と太陰暦は渾然一体となって日常生活に深く浸透し、28という数は特別な意味を持っていた。

28丁目南足柄市 大雄山最乗寺二十八宿灯 
結界門下方の28丁目 (終標)
(左)元治元年(1864)建立「軫 廿八丁目」
(右)明治40年建立「軫 二十八丁目」
軫 (しん) は朱雀七宿の第七宿(最後の宿)、からす座 γ 星 (みつかけぼし)。

最乗寺参道、最後の二十八宿灯(終標)も結界前を28丁目とする。

明治7年3月吉日本坂・登拝門(かつての木戸門)脇、途中で折れた一町目石。「壱町目」「明治七年三月吉日」

登拝門の反対側に、1966年に旭講が寄進した新しい一町目石が立っている。

二十八宿にちなんで、本坂・表参道では結界である大山寺・木戸(門)から山頂まで、蓑毛道では大日堂から結界である女人禁制碑までを、それぞれ28丁(町)としたと思われる。
不二山道知留辺
不二山道知留辺 (部分) 万延元年(1860) 松園梅彦 
この絵図には「蓑毛」「五十六丁上り」と記されている。

蓑毛道28丁目・追分から不動尊道を「十八丁下り」(ここにも 18 の数が使われている)、「大山寺奥不ドウ堂」を参拝し、「登山門」を通り抜けて山頂28町目に至るルートとして、「上り」が28+28=「五十六丁」とした、とも考えられるが、大山寺に立ち寄らずに蓑毛道を頂上まで登る「冨士・大山道中雑記」でも「都合」56丁とされるのは、追分(女人結界)から頂上までをも28丁ととらえる、二十八宿に基づく概念があったのだろう。

  [ 大正12年9月15日の水害 ]

下の図は
「大正12年と現在」の蓑毛図の一部。ただし、出典元不明。
大正12年と現在


かなり以前に図だけコピーしてあったため、出典元がわからなくなった。御了承ください。
「現在」がいつなのかも、わかりません。


図の内容からして、大正12年9月15日に発生した大雨による災害の前後の状況を示したものと考えられる。

この日、土石流が3回発生。3回目の土石流で家屋15戸が流出・埋没した。

現在の蓑毛橋左岸側たもと、少年像から川岸にかけての敷地に当時は人家があり、道はその東側の横溝家との間を上流へ向かっていた。

蓑毛橋左岸上流側。横断歩道の向うに少年像(川岸にかけて民家があった)、その右、車が停まっている所が、上流に向かうかつての道。
車の右に横溝喜太夫宅があった。

当時の春岳沢は現在よりも狭くて深く、蓑毛橋はもっと低い位置に架かっていたそうである。
被災家屋が蓑毛橋左岸付近に集中していることから推測すると、大量の流出物が蓑毛橋に引っかかって流れをせき止め、右岸側より低い左岸側に土石流があふれ出したのではないだろうか。

橋左岸

蓑毛橋左岸側下流

右岸の民家よりかなり低い
横断歩道の向う側に光宝院があった。

拡大図

上図の蓑毛橋付近を拡大

赤枠
上:「横溝喜太夫」
下:「横溝喜太夫 転居」
上の場所から下に転居した

この図によると、蓑毛橋近くから下流のやや高い場所に「横溝喜太夫」(赤枠)と光宝院(現在の公衆トイレの位置)が転居している。
横溝喜太夫は、不動堂下の道標に刻まれた御師の名前である。
神道系の大山御師の名には「太夫」「大夫」がつくことが多いから、横溝喜太夫も神道系の御師だったのだろう。
道標設置は1752(宝暦2)年、関東大震災後の水害は1923(大正12)年、その間に170年ほどの隔たりがある。御師(先導師)名を代々世襲してきた、ということだろう。
長福院
蓑毛図の下部
現在の鳥居の脇に、光宝院の隣にあった長福院が移転した。
赤線部「蓑毛上から転居(関東大震災後の崩落土石流で家屋崩壊)」

この時の洪水災害より前から、御師がこのあたりの地域に居住していたことがわかる。

あくまでも上の図が正しいと想定したうえでの話になるが、そうであれば、蓑毛の御師は関東大震災以前の時点で、全戸かどうかは分からぬものの、すでに元宿からほとんどが転居してきていたことになる。
元宿が消滅した原因が、この時の大雨による災害、とされてきたのは、同じ大雨で大山町の宿坊街が壊滅的被害をこうむったため、蓑毛側も同様だったと捉えてしまったからではないか。


      ( 続 く ) 


 伊能忠敬が測った道 大山寺-蓑毛 (2) 

江戸時代の大山・蓑毛道 ( その 2)

     ( 承 前 )

700m







標高700メートル

賽の河原に向かうトラバース開始



710-720m






標高710-720メートル
はっきりした道跡はなく、
崩れた斜面にかすかな踏み跡が続く


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標高750メートル
やがてクランク状の屈曲部となる
上に大きくえぐれた道跡が見える

屈曲点上






標高755メートル
屈曲部の上から、広い道跡になる
立派な道だったようだ

左折する





上から見る屈曲部
急激に左折する


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50メートルほど進んで、
屈曲部を振り返る

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196






路肩側が崩れている所もあるが、賽の河原まで広い道跡が続く。
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賽の河原から見る蓑毛道

左下、円筒状の石造物は寛延四(1751)年の善光寺如来台石 (「秦野の石仏 (3)」秦野市教育委員会 による)。
蓑毛道に面する右側が台石の正面。
江戸時代には、この上に善光寺如来石仏が蓑毛道を向いて立っていたのだろう。
善光寺如来台石

善光寺如来台石
「寛延四(1751)年辛未年九月吉日 
 善光寺如来供養佛
 當村 願主 相原久兵衛」
朱色の塗料がわずかに残っている。

六地蔵






賽の河原 六地蔵
廃仏毀釈で頭部が失われたらしい

賽の河原
かつての六地蔵。
第二次大戦後間もないころか、まだ背後が草山。

享保4年3月25日(1719年5月14日)、武蔵国川口村(八王子市・秋川街道沿い)の行者・鍋屋勘兵衛が閉山中に禁を破って山頂に登ったうえ、石尊本宮に放火して捕まり、この場で処刑されたと伝わる。
しかし、取り押さえられてから寺社奉行所で吟味の上、斬首されたというから、山からは降ろされている。
刑を執行するために、もう一度この場所まで連れて登ったとは考えにくい。
寺山村柴野で処刑されたともいう。

また150年ほど後のことになるが、明治3年 蓑毛村明細帳に「死馬捨場」として「字西川原 壱ヶ所」と記述がある。「西川原」 がサイノカワラで、ずっと昔からそう呼ばれていたのであれば、ここである可能性もあるかな。

六地蔵後の謎の穴

六地蔵の後に、埋まりかけた穴がある(後方)。上方にも、もっと大きい穴が2つある。
賽の河原には「中の茶屋」があったと思われ、茶屋用の井戸だった? ( ただし、伊能図に家屋記号はない )。
手前右側、四角い台石の上に割れた蓮華座。その上には石仏が載っていたに相違ない。

賽の河原には相当数の石仏・石造物があったはずである。廃仏毀釈で失われたそれらの多くが、背後の穴の中に遺棄されているのではないかと想像する。
六地蔵の頭部や善光寺如来も埋まってるのかな?

廿七丁目

(左)正面:「廿七丁目 ほ組 平吉 平三(郎)」
2013年 撮影            
(中)右面:「弘化二年正月吉(日)

2021年1月 撮影 

(右)左面:「御師 邉(見民部)」 
2021年1月 撮影 

女人禁制碑女人禁制碑

(左)左面「是従女人禁制」
ここから先、女性は立ち入れなかった。
この先 ( 西の峠) に木戸門があって、夏山期間 (6月27日-7月17日) 以外は戸が閉じられ、登拝できなかった。
(中)正面「ニ十八丁目 御蔵前 武蔵屋徳松」 (台石)「ほ組」
(右)右面「弘化二年乙己正月 邊見民部 蓑毛村 世話人」

御師・猪股豊政著「相模國雨降山細見之扣」(嘉永4年以降-安政の大火 以前)に「是ゟ(より)女人禁制牌(碑)、幷石鳥居有之」と記されているが、「幷石鳥居」とあるから、「是」は大山寺境内、「石鳥居」は八ノ鳥居(=現在の登拝門)を指すと考えられ、この碑は本坂入口にあった「女人禁制牌」なのであろう。

28町目宝暦二年(1752)の町目石
(左)正面「是迄ニ十八町目」
(中)左面「宝暦二壬申六月吉日 相州岩村講中」
「岩村」は現・真鶴町。石工が多く住む漁村だった。小田原藩主が岩村のアワビを将軍に献上したことがある。
岩村の石工・八良兵衛がこの町目石を製作したのだろう。
(右)右面「願主 相州小田原 千度小路 講中」

小田原千度小路旦那帳「天明七丁未年 (1787-88年)
小田原千度小路旦那帳
  極月吉祥日」
 
( 裏面:「御師 草柳源大夫」 )
 (「民衆宗教史叢書 第22巻 大山信仰」雄山閣出版 より転載) 

「千度小路」は小田原の海辺、現在の本町3町目から浜町3町目あたり。後北条氏時代には船方村であった。漁業・魚商・廻船業で栄えた。

丁(町)目石 (町石) は表参道・裏参道それぞれ別に設置された。
表参道は前不動堂 (現・追分社) から不動堂 (現・下社) まで18町とされて、町目石がおかれていた。さらに不動堂 (本堂) 脇の木戸・八ノ鳥居を1町目として、山頂の28町目までが設置された。
裏参道の町目石は本坂との追分の36町目 (本坂16町目) までと思われる。

裏参道の弘化2年の丁目石は「弘化二年正月」「御師 邉見民部」(「邉」は「辺」の異体字) が共通しており、元宿-
女人禁制碑-本坂追分まで一本の参詣道であったことがわかる。
28丁目・女人禁制碑は別格として、8丁目石と33丁目石は、ほかの丁目石よりサイズがかなり大きい。
27丁目と28丁目 ( 台石 )にある「ほ組」は、当時、江戸・御蔵前を担当した町火消。

   [ 御師 邊見民部 ] の謎

「御師 邊見民部」は、女人禁制碑に「蓑毛村」と刻まれているものの、檀那場が江戸であることから、蓑毛の御師とは思えない。蓑毛村の資料にも、その名の御師はでてこない。
大山町にも、この名の御師の記録は見当たらないが、一字違いの「御師 逸見民部」がいた。

飯田隆夫著「山岳信仰における神仏と参詣地の研究―相模大山を事例に」p.53の表「天明6年(1786)坂本上分三町・下分三町御師表」のうち[坂本下分三町(別所・福永・新町)御師]に「逸見民部 蜜蔵坊」の名が見え、p.56の表「文政7年(1824)大山寺護摩取次坂本上分三町・坂本下分三町御師」からは、授得院を取次寺とする上通御師(御師の3ランクの最上位)であったことがわかる。
また「逸見民部」は「白川家門人帳」に安政5年 (1858) 9 月の入門者として記載されているものの、実際にはそれ以前に入門していたようだ。呼名・苗字は源義廣、阿夫利神社祠官だった。

「邊見民部」と「逸見民部」には何らかの関連があるのか?
名字の「逸見」には「いつみ」と「へんみ」の両方の読み方がある。「逸見民部」が「へんみ」民部であったのなら、両者は「邊」と「逸」の字が違うだけで読み方は変らない。
となると、「逸」の一文字を全体的には似ているといえる「邊」に意図的に変えた、とも思える。
「逸見」を名乗ることができない何らかの事情があって、書体が似た「邊見」に変えたのか? 謎である。

28丁目
女人禁制碑には削除跡が残っている。
(左)正面上部 「右」と「左」それぞれの下が削り取られている。「右」の下には「蓑毛」道、「左」の下には「不動尊」道、あるいはそれぞれに類した名称が刻まれていたと推測される。
(右)右面 「邊見民部」の上と「蓑毛村 世話人」の下が削り取られている。
右上には「御師」、左下には蓑毛村民の名が彫り込まれていたと思われる。

いずれも明確な、しかも相当に強固な意図をもって削り取ったに相違ない。
削除されたと推測される文字から考えると、邊見民部は御師という名称、および蓑毛村との関わり、つまりは仏教的要素を消し去りたかった、のであろう。

蓑毛村と民部がどのような関係にあったのかは分らないが、御師の肩書を消したのは、幕末から強まっていた大山寺八大坊と御師との間の激しい対立が背後にあったことは間違いない。

明治の初めに御師から祢宜に変ったこと、あるいは権田直助が阿夫利神社祠官に任命され、さらに先導師へと改称されたことをきっかけとして、この削除が行われたのではないだろうか。
正面左上の文字が「不動尊」道であったとすると、大山寺が撤去されて阿夫利神社(下社)に取って代わられたことも、削除の動機となったのだろう。

「信者が時々信仰行脚で頂上まで登って来る。」(E.サトウ「日本旅行日記 2」東洋文庫 p.175)
明治20年に春山開き大祭(4月5日-15日)が新たに加わったが、サトウが頂上に登った明治6(1873)年11月は例祭期間中ではない。明治6年時点で、すでに開山期間外に頂上まで登る信者が少なからずいた様子がうかがえる。
なによりもサトウ自身が、何のおとがめもなく11月の山頂に登っているのだ。
旅行日記には「寺院の左手には木でできた柵と門口があり (中略) 階段の下にある鳥居までを囲っている」と記述されているだけで、門が閉ざされていたようには思えない。

      ( 続 く )

 伊能忠敬が測った道 大山寺-蓑毛 (1)

 江戸時代の大山・蓑毛道 ( その 1 )

     【 大山蓑毛道 】

「相中留恩記略」天保10年(1839)成立 より「大山寺」 中央が不動堂

大山寺
文化8年11月29日 (1812年1月13日)、実質的に伊能忠敬が率いる第8次(九州第二次) 測量隊が、大山寺不動堂 (現・阿夫利神社下社) から不動尊道 (かごや道)・西の峠を経て蓑毛に降りる時に通った道。

「実質的に」というのは、伊能忠敬の肩書は「手伝」であり、「天文方」は「高木作左ヱ門」だったからである。
測量隊は「測量御用」のために宿々村々から無賃で人足と馬を徴発しつつ、かなりの速度で測量していった。
大山蓑毛道
赤実線:残存古道
赤点線:推定古道

本坂追分 (16町目・蓑毛道36丁目) から蓑毛への道は、蓑毛道・裏参道・石尊道・富士道などとも呼ばれた。
明治6 (1873) 年、大山に登ったアーネス・トサトウ も西の峠から下は、蓑毛道を通って蓑毛に降りた。

元宿南入口の常夜灯から大山南山稜に上る現在の登山道は天保7年の「蓑毛村絵図面田畑色取」に記されているから、江戸時代終り頃にすでに存在していたことが分るが、登拝道として使われるようになったのは、明治6年11月8日に火災で元宿の11軒が焼失し、後に(明治10-15年の間と推定)蓑毛峠から下社への道が開削されてからである。

 【 調査資料 1 】 伊能図 / 元禄2年・天保7年絵図 / 明治15年迅速測図

eb8「大日本沿海輿地全図  第99図」(部分)  に加筆

「伊能図」とも呼ばれ、忠敬没後の文政4(1821) 年に完成。

不動堂の左に「峠茶屋」の家屋記号がある。「峠」は西の峠。

北側から元宿に入り、蓑毛村から南では誤って春岳沢-金目川の右岸に道が記入されている。

「新編相模国風土記稿 巻之三 山川」より:
「金目川 源は大住郡春嶽山(蓑毛村屬)より湧出す、故に上流を春嶽川と呼ぶ、東田原村に至りて始て此川名(=金目川)を唱ふ」


942
「元禄二年(1689) 東田原西田原両村と蓑毛小蓑毛寺山三か村山論裁許絵図」(部分) 
道のカーブ描写は、かなり正確。

元宿
元宿:
八町山道・大山登拝道分岐点の上流側に3軒、下流側に12軒の家屋記号が描かれている。




05f



「蓑毛村絵図面田畑色取」(部分)  天保7年 (1836)

上の絵図から150年ほど後の村絵図。
元宿から28丁目に至る蓑毛道には「御坂」とあり、道の中程にも茶屋かと思われる家屋が記入されている。

同じ年の天保七年 蓑毛村明細帳に「御坂之内 神馬不動尊 修験密正院持」「御坂之内 鏡石 修験本大坊抱」との記述がある。「御坂」は、上の村絵図中の「御坂」(=大山蓑毛道)であろう。途中に「神馬不動尊」と「鏡石」があった、ということか。

「蓑毛村絵図面田畑色取」と蓑毛村明細帳は同じ年に作成されており、両者には関わりがあると考えられる。

元宿手前から大山南山稜に上る現在の登山道も記されている。南山稜との合流点(標高750メートル)の下方に描かれている独立樹のある場所が、現在の蓑毛峠に当るのであろう。


これらの絵図に記入された蓑毛道は、(下りの場合)いずれも賽の河原から西へ折れ、元宿の北側に降りて行く。

安政5 (1858) 年「相模国大隅郡大山寺雨降神社真景」 五雲亭(歌川)貞秀 
拡大図安政の大火以前の大山が描かれている。
女坂の途中の二ヶ所 (現在の前不動=来迎院本堂と大山寺の位置) に「西の河原」があり、現在の賽の河原の位置は「中の茶屋」とされ、家屋が描かれている。

天保7年の村絵図面では、木戸の左下にある家屋記号が「中の茶屋」なのだろうか。

「新編相模国風土記稿 (1841年成立)  大住郡 大山  (不動)堂前楼門ノ下、右ニ折スル山路ヲ日向越ト云 又(不動)堂ノ左方ニ路アリ。是ヲ蓑毛越ト称ス。」
「相州大山順路之記(寛政元年=1789 刊)  冨士山への道あり。〈蓑毛越え〉といふ。」
とあり、「蓑毛越」は蓑毛に通ずる「山路・道」の呼称であって、特定の地点を示す名称ではなかった。

「相模國雨降山細見之扣」(嘉永4年6月以降、安政の大火より前に著述) には「額堂幷ニ西之茶屋、是ゟ(より)蓑毛掛越道」とあります。

1873(明治6)年11月、大山に登ったアーネスト・サトウ一行は、表参道16丁目 (追分) から蓑毛に降りている。
その行程は「A Handbook for Travellers in Central & Northern Japan」と庄田元男訳
「日本旅行日記 2」(東洋文庫) に記されているが、細かい描写がない。
上記二書からは蓑毛への下降路の様子は判然としないが、
「日本旅行日記 2」p.175 に「十町目の石の道標を通り過ぎ (中略) 蓑毛におりた」とあり、元宿南側の常夜灯から分岐する蓑毛峠経由の登山道には丁目石が設置されなかったから、アーネスト・サトウが問題の道を通ったことがわかる。

石の道標 (丁目石 / 町石) は (現存する八丁目石もふくめて) 他にもあったはずなのに、なぜ「十町目の石の道標」だけを記述したのだろう。他の丁目石とは違う形をしていた、あるいは目立つほど大きかった、もしくは丁目石とは別の石の道標があった、ということなのか。

十返舎一九「箱根山七温泉江之島鎌倉廻 金草鞋」文化10年-天保5年 (1813-1834) 刊 第二十三編「蓑毛」には「みのげより大山廿一丁めへいづる。(略) これより大山へかゝる。みのげにも御師の家あり。」とある。

わざわざ「大山廿一丁めへいずる」と書いたのは何故なのだろう。中の茶屋が21丁目だったのだろうか。とすると28丁目=女人結界まで 7丁もあることになり、丁目数が多すぎるように思える。ひょっとすると屈曲部なのかも。
【 探索調査報告 】大山寺-蓑毛 (2)
を参照いただきたいが、この場所には独特の雰囲気があって、なにか特別な場所だったのかもしれない、という感じもする。


「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉  (蓑毛道には) 道筋所々堂社、幷(ならび)ニ茶屋有之。


明治15年測量「大山町」







明治15年測量 迅速測図
「大山町」より部分

赤枠内が問題の道
明治時代初期に開削された蓑毛峠-下社の道(「徒小徑」)が記入されている。
元宿に家屋記号はない。



明治16年測量





明治16年測量 明治28年発行
 1/20000 「大山町」

迅速測図の翌年に測量。
蓑毛峠越えの小径は上図と同じ。
元宿に家屋記号がないのも同じ。

賽の河原への登り口が、元禄絵図より100メートルくらい上流側になっている。


江戸時代蓑毛道






1960年代 空撮 赤枠内に道が見える。

google earth



google earth
660メートル地点-賽の河原間の旧道跡がはっきり見える。


 【 調査資料 2 】「測量日記十八」
   「辛未・壬申、測量日記」

十一月廿九日文化8年11月29日の測量日記


止宿推定地赤丸:大山町止宿 推定地
「宿舎 成田庄太夫」


文化8年11月29日 (1812年1月13日)  大山町の止宿から田原村まで測量。

( 以下、蓑毛村までの、主に経路を抜粋)  

「一同大山町止宿出立。一手 (=全員) にて奥不動堂迄測。  女坂を測る。来迎院にて小休、奥院不動堂迄測  奥不動より手分測。  奥不動より初 (=始め) 、峠茶屋にて小休、蓑毛村 揖斐与右衛門知行所迄測 昼休木世満坊、一里二十二丁五十間六寸。」

「奥不動堂・奥院不動堂・奥不動」は、いずれも大山寺不動堂をさす。前不動堂と区別するために「奥」をつけたのだろう。「不二山道知留辺」にも「奥不ドウ堂」と記されている。

宝珠山来迎院「新編相模国風土記稿 来迎院 女坂ノ右ニアリ」

「来迎院」の現在の建物は、安政の大火による焼失後に再建された「前不動堂」(現在の追分社の場所にあった) を、神仏分離により移築したもの。大山で二番目に古い建築物。
寶珠山来迎院本堂である。

御用 測量方御用旗 「御用 測量方」

「峠」は西の峠。茶屋があったのだ 。女人禁制地内なので、男性だけで営んでいたはず。とはいえ、時は真冬の一月半ば (グレゴリオ暦)、この茶屋が営業していたとは思えない。
御用旗を掲げた測量隊のために、特別に店を開けたのであろう。

蓑毛道の木戸門は峠の北側にあったから、閉山期間中であっても西の峠には立ち入れた。

江戸時代初頭から、蓑毛村は旗本「揖斐」氏の知行地だった。(「新編相模国風土記稿」蓑毛村 「今揖斐與右衛門 知行ナリ」)
「木世満坊」は不詳、蓑毛にあった坊であろう。しかし、1841年完成の「新編相模国風土記稿」に記された蓑毛の院坊の中に、その名はない。
書き順どおりに素直に解釈すると「蓑毛村」の「知行所迄測」ってから「木世満坊」で「昼休」みをしている。知行所は村の有力者宅に置かれるのが普通であったから、「木世満坊」は元宿ではなく、村の方にあったのだろう。

さらに「 (東) 田原村止宿迄測」る (「蓑毛村より一里二丁四十九間三尺 」) 。
 
   
 【 探索調査報告 】

大日堂
「相中留恩記略  蓑毛村 大日堂」 
「天正十九年十一月、大日堂・春日社、合て弐石の御朱印を附せらる。」
赤枠内  左「大山道」 /  右「春日社」。「大日堂」の左手前に「観音堂」と「大鐘」が描かれている。

道者は大日堂左手の湧水・金剛水でミソギをしてから大山に登拝した。
金剛水は雨乞いの聖水としても霊験あらたかとされたが、関東大震災によって水が涸れてしまった。
蓑毛道入口伊能測量隊とは逆に、蓑毛から西の峠に登っていく。

蓑毛大日堂の奥、木喰光西上人入寂地の前から大山蓑毛道を進む。
享保20年(1735)、地蔵堂の庵主だった光西上人は、飢饉で苦しむ農民の救済を願ってこの地に入定した。
大山道





春岳沢右岸に続く登拝道
「蓑毛村 大日堂」図の、右上隅に見える道がこのあたりかな。
蓑毛


大正10年測図 昭和4年修正測図 
昭和8年発行 1 / 25000「秦野」

古いガイドブックに「元宿橋」と記されている橋(矢印。現在は仮設橋)で春岳沢を左岸に渡る。

常夜燈




かつての道は沢から常夜燈(文化元年建立)のところに上って、十字路になっていたようだ。
現在は少し下流側で舗装道路に出る。
常夜燈の右は現在の登山道、左が元宿への道。元宿丁目石



元宿に残る丁目石  上部欠損 失われた上部に「□丁目」とあったはず。
(左)正面「御蔵前 代地川長」
(中)右面「(弘化二) 巳年正月吉日」 ( )内は推定
(右)左面「(邉) 見民部」 ( ) 内は推定

八町山道との分岐点か


最奥の民家西側
左の春岳沢に向って、八町山へ向かう道跡と思われる痕跡がある。

すぐ先の春岳沢に「土橋」が架かっていたものか。
「土橋壱ヶ所、字春嶽口」(天保七年 蓑毛村明細帳)

民家の横から入る



現在の入口。

現在、最奥の民家敷地の北側が入口になっているが、元禄二年絵図には、このあたりに3軒の家記号が描かれている。
少し南側で八町山道と分れて登拝道に入っていったようだ。
すぐに古い山道になる




30メートルほど進むと、はっきりした道になる

天保七年 蓑毛村明細帳によると、この参詣道(「御坂」)の途中に「神馬不動尊」と「鏡石」があった。

八丁目







八丁目石 (赤テープの杉の右)
標高 455 メートル
八丁目

(左)正面「八丁目 御蔵前 上善」
(中)右面「弘化二巳年正月吉日」
(右)左面「御師 邉見民部」(「邉」は「辺」の異体字 )
 弘化二年正月は 1845年2月7日から3月7日。

490m



標高490メートル

「十町目の石の道標を通り過ぎ (中略) 道はそれほど石が多くはないが険しくて雨が降れば多分ぬかるみになるに違いない」(E.サトウ「日本旅行日記2」)
このあたりが「十町目」だったのかな。

サトウ一行より少し前の明治4年7月11日(1871年8月26日)に、蓑毛から大山に登った田中芳男の「冨士紀行」では「大日堂ヲ社内ヲ通リ抜ケテ、大山へ登ル。当今、材木切倒シテ深林疎澗トナル。差(やや)登レバ樹木全尽テ、原野状ノ山トナル。道ハ迂曲シテ登レトモ、急阪ニアラズ。」と描写されている。
「差登レバ樹木全尽テ、原野状ノ山トナ」ったのは、このあたりからか。
明治3年 蓑毛村明細帳に「秣場 御坂」とあり、蓑毛村の萱場となっていたことが分る。

「冨士・大山道中雑記 附、江之嶋・鎌倉」(天保9年=1838)に(蓑毛道)「麓ゟ(より)絶頂まで 壱丁め毎ニ石杭有之。」と記されている。天保9年には各丁目に町石があったのだ。
弘化2年(1845)より前だから、宝暦2年の町目石だったのか、別の年にも設置されたことがあったものか、どうなのだろう。
現在では残り少なくなっているが、倒れて埋もれたのか、撤去されたものもあったのだろうか。

515m 林道下 道消える






春岳林道下方で道が消える。林道工事で落下した土砂で埋まってしまったようだ。
左上の尾根筋に再び道跡が現れ、林道に上る。

545m




春岳林道上 尾根筋
標高 545メートル

「山は葺屋根材になる丈の高い草 (萱) に覆われている」(E.サトウ「日本旅行日記2」)

570m





標高 570メートル

「道ハ迂曲シテ登レトモ、急阪ニアラズ。」
 (田中芳男「冨士紀行」)

610m








標高 610メートル くの字に曲る


650m








標高650メートル 道消える


700m

標高700メートル
賽の河原に向かうトラバースが始まる

     ( 続 く )

 旧皆瀬川村 武田久吉が歩いた道 (3) 

今回の探索物件は①-⑥と⑦-⑩の二つ。

1 )  ①-⑥は1905(明治38)年9月、武田久吉・高野鷹蔵両氏ほか日本博物学同志会一行が歩いた山北-市間-犬クビリー神縄-玄倉-塔ノ岳-松田 の行程のうち、初日の23日に通った市間-現・地蔵岩コース間の道。
2 )  ⑦-⑩は、かつて高杉-市間-深沢を結んでいた、この地域の主要道の一部。
市間 中尾

享保12年の村絵図では、①地点で十字路になっている。

当時は中尾まで破線のような道があったのかもしれない。探索してみたが、なんの痕跡も残っていない。

古道絵図









享保12(1727)年 村絵図 (部分)

赤枠内が市間-中尾の道。
上の地形図の ①-⑥ と、⑦-⑩ あるいは ①-⑩の破線? (道の痕跡なし) 。


    【 現場調査報告 】

 [ 1 市間 ー 地蔵岩コース ]

1905(明治38)年9月23日午後5時20分、日本博物学同志会の一行8名が、玄倉から塔ケ岳に登るべく東海道本線山北駅に降り立った。22歳の武田青年をはじめ、血気盛んな若者の一団である。

山北から皆瀬川沿いの道を遡上、山道を市間に登り着き、同地で案内人を得た。すでに日は暮れている。
そして神縄を目指して歩きだした道が、今回の物件 1 ) 。
現在の地蔵岩コースに合流するまで、高度差約60メートル、距離にして400メートルくらいのわずかな行程。
とはいえ、今から300年ほど前の享保12年の村絵図にも描かれている、この地域の重要な生活の道であり、神明社への参拝の道でもあった。
市間-犬クビリ(左)明治29年修正 明治31年発行「松田惣領」 
(右)大正10年測量 大正14年発行「山北」明治地形図と道路位置に変化はないようだ。

博物学同志会一行とは逆に、地蔵岩コースとの合流点から市間へ調査する。
分岐点





① 地蔵岩コース 標高440mあたり

正面、平坦な尾根道が左にカーブする屈曲点が市間への道の入口

市間への道








② わりと明瞭な道が続いている。

石積







ところどころで崩れているが、踏み跡はある。
法面に石積

草に埋もれた石積








草木に埋もれかけた法面の石積

ベンチ








③ なぜかベンチがある。 左が道

炭焼窯








④ 道端に炭焼窯跡

子の神祠?






子ノ神祠?

全体がコンクリート製
祠の中はからっぽ
堰堤






⑤ すぐ先のガレ沢に堰堤
小さな沢にしては深く、すこし登って高巻く
明治時代には小さな溝にすぎなかっただろう

下から堰堤



下から見た堰堤 素朴な石の積み方

昭和恐慌 (昭和3-6年) のころ、救済策として地元住民を雇用して堰堤 (谷止) を建設したそうだ。
その時代の素人造りかも。 


市間の人家







⑥ まもなく道が消え、市間の民家の裏(北)側に到着。
同ルートを引返した。

同日、博物学同志会一行は夜道を玄倉に到着して宿泊。
翌24日、玄倉川源流から塔ノ岳を越え、提灯一つを頼りに夜闇の大倉尾根を降り、松田の旅館にたどり着いた時には25日午前3時になっていた。
この年の10月、武田久吉・高野鷹蔵ら7名が発起人となって日本山岳会が創立された。      

 [ 2 地蔵岩コースから中尾へ ]

中尾への道 入口




標高約420メートル
地蔵岩コースと中尾への道の分岐点

道が明瞭なので、間違って入らぬようテープが張り渡してある

トラバース








⑦ 山腹をトラバース

尾根筋を越える








⑧ 尾根筋を越え、西側の斜面に入る

山腹をジグザグい降りて行く









⑨ 西面をジグザグに降りる
表示板 2





途中にあった表示板
北を上にした

赤枠内が降りてきた道
右上に「古道」と記入した道は【1】で報告した市間への道
町道上










下に町道左の堰堤下に降りてきた










⑩ 車道と左奥の堰堤の間に降りてきた

対岸に中尾の民家








木の間ごしに中尾の民家


中尾 墓石中尾 墓石

中央「元禄十六年 十一月十三□」(1703年12月21日)「禅定門」とあるので俗人の墓石であろう。   
右の無縫塔には梵字が刻まれている。他は摩耗して読めない。禅僧の墓かな。

     では、また!

 旧皆瀬川村 武田久吉が歩いた道 (2)

   【調査資料 2 】
1986年、奥野幸道氏は「丹沢の古道をたずねて」を「丹沢だより 196」から4回にわたって連載、のちに手をいれて一本にまとめた同じ題名の論考を「足柄乃文化 22」(1995年3月発行)に発表された。
ここでは「足柄乃文化 22」から、奥野氏の市間-犬クビリ間の調査について検証する。「」内は同書より引用。

「どの道を歩かれたのだろうかと旧図(明治21年測図29年修正測図、明治31年発行、大日本帝国陸地測量部)を辿れば、山北駅から皆瀬川沿に市間そして大野山の東側を通って二本の点線(間路)が神縄へと通っているので、多分この道を辿られたものと思う。」と、事前に日本博物学同志会一行の行程を推定されている。

大野山明治21年測図 明治29年修正 明治31年発行
5万分の一「松田惣領」に加筆

山北町の文化財保護委員に事前調査を依頼、調査完了をまって、1977年12月3日、紀行文を手に、現地におもむく。
記述は山北へ向う列車内の描写から始まっているが割愛。

「明治31年帝国陸地測量部二万分の一地形図松田惣領を見ると、二本の点線の馬道が山北から皆瀬川沿いに市間へ登って、大野山の東側を通って神縄へ出ているので、この道を歩かれたものであろうとこの道を辿ることにした。」と、地形図の話がもう一度でてくる。

ところが、文化財保護委員の調査資料には、市間から「竹山峠」まで「(武田氏一行は)旧図にある道を歩いている」とあるにもかかわらず、続いて「竹山峠について松川さん(文化財保護委員)は、現地では竹山峠とは呼称していない唯、竹山、高杉山、中尾山と色々呼ばれている。 現在の古宮の位置、一本木とも呼ぶとある。新地図にはこの道はなく尾根づたいにかわっている。」とあって、いつの間にか旧版地形図の「二本の点線の馬道」とは違う道の話になっている。

何度読み返しても、この部分がわからない。「竹山峠」は「現在の古宮の位置」=タケ山頂上、という認識か?

古宮「現在の古宮」

663標高点から100メートルくらい南の林の中に位置している。「一本木」は通称だろう。顕著な独立樹があったのだろうか。
犬クビリあたりを「一本木」と呼ぶ、とも聞いた。
であれば犬クビリから古宮あたりの尾根上を「一本木」と云うのだろうか。詳細はわからん。

「古宮」は「六六二高地」( タケ山)にあるから、高野氏の「市間の村落を通って道は其の村の西北に聳へて居る六百六十二高地の南側を通って始終少しづゝ上り下りをして半道も来ると、其れから登りで頂上に達した」という表現と、まるで相違しているのだが。
高野氏の文章をものすごくわかり易く書き直すと「663標高点 (タケ山) の南下を通り、上り下りして、それから登って頂上(=稜線)に達した」となり、「其れから登りで頂上に達」するまで尾根上にでていないことがわかる。

達した「頂上」である「竹山峠」については
「山を上って下るのであれば峠なのである」と述べており、「峠」を過ぎると下っていることが分るが、古宮から大野山に向うと、ほぼ平坦な道を300メートル以上は進まないと下りにならない。
また「此峠は草山」とも記しているが、古宮のあるタケ山頂上は聖域とされているから現在でも牧草地にはなっておらず、樹木に覆われている。明治38年当時も同様であったろう。これらの点からしても、タケ山頂上が「竹山峠」とは考えられない。

ともかく、奥野氏の文章を続ける。
「市間で高杉への道を右に分けて竹山へと登る旧道があるはずであるが、新道が出来て利用者もなく廃道になってしまったのではなかろうか。農家に寄ってたづねたらとても通れないだろうがと念をおされて、踏跡らしき山道をおしえられた。」

高野氏が「六百六十二高地の南側を通って始終少しづゝ上り下り」と記しているにもかかわらず、博物学同志会一行が市間(上ニワ)を出てから、すぐさまタケ山(「六百六十二高地」)に向けて登りにかかった、と考えたようなのだ。
南側を通って」を「南側を登って」と解釈したらしい。すると次の「始終少しづゝ上り下り」と齟齬をきたすことになる。タケ山に登るとなると、「少しづゝ上り」ではなく、ひたすら「上り」だし、「下り」があろうはずもない。

「入口は岩に階段が刻まれて、はっきりとしているが少し登ってゆくと踏み跡は右の方へ山腹をからむようになって、杉林に入ってしまったので、左へ急登してゆくと高杉からの道へ出た。旧道はどうもこの杉林を抜けていたようで第二回の調査の折にそのことがわかった。旧道は頂上に牧場が出来たので変更されたようだ。高杉からの道へ出たところは広々とした牧場になっていた。 この道は旧図に出ている高杉の神社から登ってくるものと一致している。」

「高杉からの道へ出たところは広々とした牧場」とあるから、663標高点(タケ山頂上)の南方で神明社からの尾根道に出たのであろう。
とすると、それから古宮、663標高点を通り過ぎ、頂稜を犬クビリに向った、ということになり、高野氏の「六百六十二高地の南側を通って始終少しづゝ上り下りをして (中略) 其れから登りで頂上 (=頂稜) に達した」」という描写とはまるで違っている。

謎めいていて途方に暮れるが、「竹山、高杉山、中尾山と色々呼ばれている」の部分がカギになるかもしれない。この点を検証してみる。
字図








山北町発行の字図。
かなり大雑把で、おおよその境界しかわからない。

字図 神明社








高杉集落上の道路脇の表示板。
上下を逆にして、北を上にした。

頼りになるのは植林地内にある表示板だが、表示範囲が狭い。

字図 地蔵岩コース













右に90度回転させ北を上にした。
右上の赤枠は、博物学同志会一行が通った道。
左下の赤枠は、中尾に降りる旧道。
左下枠内、左端赤丸が、この表示板の場所。

大野山 高杉

山北町発行の字図と、植林地内にあった表示板から作成した、おおよその字の範囲。
正確ではないことを承知の上で、ご覧くだされ。

字 西ケ尾の太赤線は、日本博物学同志会一行の経路。
字 洞ノ沢と字 地蔵岩の境となる太赤線は、中尾に降りる旧道。

大雑把な図ではあるが「竹山、高杉山、中尾山と色々呼ばれている」わけではなく、タケ山・高杉山・中尾は、それぞれ別の字(アザ)であることがわかる。

字「タケ山」は古宮・神明社と深い関りがありそうなことが推測される。「タケ」は「竹」ではなく「嶽(岳)」であることは、前回の【調査資料 1】で述べた。
特に注意したいのが「字 高杉山」。
「高杉」という名称から高杉集落のある場所を思いうかべてしまうが、高杉集落の字は「高杉後」(と「南平」)である。上掲写真の表示板には高杉集落の場所に「高杉」と記されているが正確ではなく、山北町字図にあるように「高杉後」が正しい。南から見て「高杉山」の後方に位置することから付されたアザ名であろう。
江戸時代の絵図から推察すると、犬クビリを境にして東側を「高杉山」、西側を「大野山」と呼んでいたようだ。

作成した字図から、当時の主要道が字の境界線になっている所があることがわかる。

地券明治6年に地租改正条例が施行され、翌年には布告によって所有者自身に「所有ノ確証」を立証する責任がある(立証できなければ官有地に編入)とされた。
測量して地券を作成しないと、土地が政府に取り上げられてしまうことになった。

測量結果は地券に記入され、地券台帳(のちに土地台帳)が作成された。現在は土地登記簿の表題部に記載される。


(以下、探索団員の想像) 地元で早急に測量して、各所有者の境界線を決めないとヤバいことになる。といって、まともな測量技術はない。そこで、当時の主要道路を境界線にすれば所有者間の争いもないだろうし、測量の苦労も減る、みたいなことなんじゃないかな(あくまで想像です)。

本題に戻る。
竹山、高杉山、中尾山」とあるうちの字「中尾」は、問題の道とは離れており、字「高杉山」は現・地蔵岩コースから頂稜・古宮にかけての南面、字「タケ山」は古宮・神明社から頂稜北側のイタドリ沢右岸一帯に広がっている。

このうちの「高杉山」を、「高杉」の名がはいっているために高杉集落がある場所と誤解し、その結果、東方の古宮あたりに違いないと思い込んだ、ということかもしれない。
明治時代の測図を見れば、市間から西横に進むことも、稜線に出る場所がタケ山よりかなり西方であることも一目瞭然のはずだが、なぜ素直にそう考えなかったのか不思議だ。

謎は解明できなかったが、奥野幸道氏の、
明治38年に博物学同志会一行が歩いた市間-犬クビリ間推定経路の検証を以上で終える。


今回の検証対象からはずれるが、神縄へ降りる道が印象に残ったので引用する。
「湯本平へ下るハイキングコース(中略)途中の桧林までは旧道と同じで、ここから滝口沢を渡って神縄へ下る道があるはずなのが、その道を発見することが出来なかった。もう20年も前になるだろうか、(中略)神縄から大野山へ二回ほど登っている。ところどころに道しるべなどあり、カヤトの原で小さな松の苗木がうえられていた。(中略)廃道になってしまった。」

奥野氏が現地調査を行ったのが1977年12月だから、「20年も前」は1950年代半ばになろう。そのころは「カヤトの原で小さな松の苗木がうえられていた」神縄から犬クビリへの道が、まだ現役で使われていたのだ。

動乱の南北朝期、足利軍に敗れて河村城を脱出した新田義興は、神縄から城ケ尾峠を越えて甲斐に逃れたという。
神縄には、おそらく大野山を越えて行ったと思われる。
大野山南面は高杉神明社経由・鍛冶屋敷から地蔵岩経由・深沢経由の3ルートが考えられるが、北側は犬クビリから神縄に降りたのであろう。

      ( 続 く )
  


 旧皆瀬川村 武田久吉が歩いた道 (1)

      【探索物件】 

明治38年(1905) 9月、日本博物学同志会一行12名が歩いた山北-(市間-犬クビリー)神縄-玄倉-塔ノ岳-松田 の行程のうち、当時22歳の武田久吉青年ら血気盛んな若者8名の後発隊が、初日の23日に通った市間-犬クビリ間の経路 (先発隊4名は谷ケから河内川を遡上、神縄から玄倉のルートをとった)。

この時の一行の山行に関連する資料には「武田博士」としているものも多いが、氏が東京帝国大学から理学博士号を授与されたのは十年以上も後の大正5年 (1916) なので、ここでは「博士」号は使用しない。

 【資料調査 1 】 
この時の紀行を武田・高野両氏が残している。
高野鷹蔵氏は「山岳 第一年第一號」に「塔ヶ嶽」、武田氏は1971年に創文社から刊行した「明治の山旅」に「塔ノ岳」を発表した。
「明治の山旅 (平凡社版)」に「「明治二十一年測図」の「秦野」という五万分の一地形図のほかに同じ年に測量した二万分の一「塔ケ岳」という地形図もあった」とあり、両地形図を使用したと思われる。
探索団員は「明治二十一年測図 秦野」を持ち合わせないため、明治29年修正5万分の一図「松田惣領」を使う。

関連箇所を【A】高頭鷹蔵「山岳 第一年第一號」(明治39年4月発行)の「塔ヶ嶽」、【B】武田久吉「明治の山旅」(平凡社)所載の「塔ノ岳」から引用する。

該当箇所を検証するため、番号を付した。( )内は探索団員の注釈。

(明治38年9月23日、午後5時20分、後発隊8名が山北停車場に下車) 
①【A】「(市間の一番取り附きの家を出発)時に七時過ぐる事五分 其れから畑の間をだらだら上りに少し行くと大きな平屋があって道が別れて居て判らない」
②【A】「(案内人と)市間の村落を通って道は其の村の西北に聳へて居る六百六十二高地の南側を通って始終少しづゝ上り下りをして半道も來ると、其れから登りで頂上に達したのが八時五十分」
【B】「上り下りの有る道を通って、竹山峠と呼ぶ小さい峠の頂に達したのが八時五十分。」
③【A】「此(この)峠は極く小さなものではあるが山を上って下るのであれば峠なのである 土地では竹山峠(タケヤマタフゲ)と呼んで居る」
④【A】「其れから始終降り道で山の峰づたひに行くので一里も來たかと思ふ所から道は眞直について居て (中略) 此邊を犬首(イヌクビ)と呼んで居る」
【B】「大体下り道を通り、昔大力の男が山犬の首を取ったとかいう犬首と呼ばれる地から(略)神縄村に下り着いた。」
大野山
明治29年修正
明治31年発行
 1/50000 「松田惣領」

① 市間は上ニワ・下ニワの二つの地区で構成されている。「ニワ (庭)」は小集落。
皆瀬川から登ってくると、まず下ニワがある(地形図で「市間」の文字の左下)。

下ニワ
下ニワ

深沢に通じる町道が下ニワ集落内を横切る。
町道から下側に家屋はすでになく、かつての敷地が残るのみ。
このあたりに【A】「一番取り附きの家」があったのか。


下ニワ 町道上
下ニワ
町道上側の民家

一行は下ニワの「一番取り附きの家」で【A】「玄倉へと道を聞いたが 偖(さ)て夜道では一寸迷ふらしい」
この家で案内を頼んでみたものの、不調に終わる。
午后7時5分、この家を出発、上ニワに向う。
上ニワ
上ニワとタケ山(背景)。

【A】「其れから畑の間をだらだら上りに少し行く」 上・下ニワの間は緩傾斜で幅広い尾根になっており、当時は畑地だった(現在は茶畑)。
【A】「大きな平屋があって道が別れて居て判らない」

「大きな平屋」は、明治29年修正図に四角記号で記載されている皆瀬川小学校。
小学校の北東角で、高杉に向かう道と犬クリビへ向かう「道が別れてい」る。
この家(小学校)で、どちらが玄倉への道かを尋ねると、親切にもてなされ、案内人も手配してもらった。
松田惣領
明治29年修正 
明治31年発行 
1/50000「松田惣領」
小学校(赤円)が記入されている。

②【A】「市間の村落を通って」:「市間の村落」は上ニワのことである。数軒の民家があったのであろう。犬クビリへの道は、民家の間を通って西に抜けていたようだ。
市間 上ニワ








上ニワ 

現在の様子
 (google earth より転載)
赤記入は、当時の小学校と道路の推定位置

大正10年測量 山北大正10年測量 
大正14年発行
「山北」

大正3年、皆瀬川小学校は古宿に移転、この地形図から消えている。
上ニワを出発したのは、午後8時ころだろう。すでに夜、地元の案内人が、最短距離でもっとも安全確実な道をとるのは当然である。

【A】「道は其の村の西北に聳へて居る六百六十二高地の南側を通って」
「六百六十二高地」は、現在の地形図で 663 と表記されるタケ山のことである。西北に聳えているタケ山の南斜面を西に進み犬クビリに向かう。
【A】「始終少しづゝ上り下りをして半道も來ると、其れから登りで頂上に達したのが八時五十分」、【B】「上り下りの有る道を通って、竹山峠と呼ぶ小さい峠の頂に達したのが八時五十分」
IMG152456


【A】「六六二高地の南側を通って、始終少しづゝ上り下りをして
【B】上り下りの有る道を通って

石積が残る昔からの道が「六六二高地の」南西面に続く。


IMG154914




【A】「半道も來ると、其れから登り」


トラバースから登りにかかる地点に、旧道跡が残る (登山道の向う側)

IMG_151340








頂稜にむかって上りはじめる旧道跡

IMG_151135



地蔵岩コースは斜面の左端を通っているが、右側の草地を見ると、上方の擁壁に向って大きくジクザグを描く旧道跡が、かすかに識別できる。

この道は、1727年の村絵図にも描かれている、駄馬(荷馬)が通る街道 (小田原道)であった。


竹山峠 犬クビリ

赤実線:残存古道
赤点線:推定古道

登りついた頂上を【A】「山を上って下るのであれば峠なのである 土地では竹山峠(タケヤマタフゲ)と呼んで居る」、【B】「竹山峠と呼ぶ小さい峠の頂に達した」

IMG_160110鞍部から東の高み。「上って下るのであれば峠」とあるので、一番高い所が「竹山峠」であろう。
そこからここまでの下りが
【A】「山の峰づたい」の「始終降り道」。

明治地形図では、登りついた「頂上」は、現在の地蔵岩コースより東側になっている。1968年に県営大野山乳牛育成牧場が開業して(2016年、廃業。以後、民間業者が運営)牧草地になったため、道の位置を変えたのだろう。

問題は「竹山峠」。「竹」の字は勝手にあてたものと思う。地元では「タケ山」としており、古宿でも尋ねてみたが、「タケ」の漢字は知らない、「タケ山峠」は聞いたことがない、という。「土地では竹山峠と呼んでいる」というのは疑わしい。
「タケ山」については 【資料調査 2】でも検証するが、「タケ」は疑いなく「嶽(岳)」である。「嶽(岳)山」は各地にある。読み方も、タケヤマ・ダケヤマ・ダケサンなどで、険しい山・目立つ山が多く、修験道との関わりが深い。

旧皆瀬川村のタケ山は、山頂に (伝) 神明社古宮 (古社)、東に神明社がある。宮・社があることから「嶽」と呼ぶようになったか、あるいは古来から崇めてきた「嶽」に宮・社を建立したか、のどちらかであろう。


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鞍部から犬クビリ方面。東側の最高地点(竹山峠)からここまで「山の峰づたひに」およそ一町。
【A】「此邊を犬首(イヌクビ)と呼んで居る」

200メートルほど直進し、北面のトラバース道にはいる

【A】「其れから始終降り道で山の峰づたひに行くので一里も來たかと思ふ所から道は眞直について居て (中略) 此邊を犬首(イヌクビ)と呼んで居る」
【B】「大体下り道を通り、昔大力の男が山犬の首を取ったとかいう犬首と呼ばれる地から(略)神縄村に下り着いた。」

鞍部から北面トラバース道に入るまでの間を「犬首」と認識しているらしい。
貞享4年(1687)頃、狼
(「山犬」)を罠でとらえて退治(「クビリ(絞殺)」)した場所がイヌクビリと呼ばれるようになったが、何百年も前のことだから場所が特定されているのではなく、そのあたりがイヌクビリと呼ばれてきた、ということなのだろう。

解釈がもっとも難しい部分である。
【A】を文面通りに受け取るのは不可能、といってもいい。
最大の謎は【A】「一里も來たかと思ふ所から道は眞直について居て (中略) 此邊を犬首(イヌクビ)と呼んで居る」の部分。
「犬首」は犬クビリのこと
狼の頭蓋骨は、今も深沢集落の、代々名主をつとめた大野家に「魔除け」として伝わるそうだ。狼をうちとった茂衛門は「狼の茂衛門」として勇名をはせたという。

「一里」は「竹山峠」からの距離とみてよいだろう。一里は約3.9キロメートル、歩けば1時間はかかる。
「竹山峠」から西に一里いくと、河内川を飛び越し、不老山東の番ケ平あたりまで行ってしまう。もっと東方で稜線上に出たとしても、河内川のはるか西に行ってしまうことに変わりはない。
逆に、犬クビリから東に一里は、皆瀬川を飛び越えて高松山の少し西あたりになる。どう計算しても「一里」はあり得ない。これをどう考えるか。

不可解な文章をしばらく眺めていて、ふとひらめいた。字が間違っている!「里」ではなく「町」(109メートル)だ。著者の書き間違いか、あるいは印刷段階での誤植であろう。
「一町」と読み替えれば、犬クビリまでの記述が理解可能になる。
「竹山峠」から西の鞍部までちょうど一町くらいの「降り道」、そこから北面のトラバース道までの距離は200メートルほど、高度差20メートルくらいの登りになる。
闇夜の行進では、下りの印象が強かったのだろうか。

「山北の停車塲」から神縄までの
文章【A】を、もう一度じっくり読んでみた。
山北-神縄間では「(停車塲から)五六町進むと道がだらだら降りになって居て酒匂川の一支流(=皆瀬川)に出た」に始まって、「町」と「丁」の字が7回あらわれる。町と丁を区別して使っているわけでもないようだ。「里」は問題の個所の1回だけ。
「里」は誤植に違いない。里と町を書き間違えるとは思えない。

その後の方では「片手重次」が「片平」に(こちらが正しい)、「増田吾助」は田中五一と取り違えたのか「増田五一」に変わっている。
そのほかにも文意の解釈に苦労するところが処々にあり、
【A】は読みやすい文ではない。

以上で市間-犬クビリ間の検証を終えるが、以後の玄倉に向う行程にも興味深い所があるので、もう少し続ける。

犬クビリ
明治21年測量 「谷村」

「谷村」は谷ケ村のこと。
犬クビリから大野山北東面をトラバースする神縄への道記号が記入されている。
赤枠あたりを犬クビリと呼んでいたようだ。

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(上)大野山北東面にわずかに残る旧道跡
(中)250メートルほど西、新しい堰堤が続くガレ沢まで、かすかに道跡が残っている。
(下)ガレ沢の下方に八丁神縄林道 


犬クビリ-神縄中央から上:明治21年測量「中川村」
中央から下:明治21年測量「谷村」(「谷村」は谷ケ村のこと)

博物学同志会一行は誤って赤破線の尾根を降りてしまったようである。

案内人と別れて神縄村に降りていく記述をみると、【A】「玄倉川(河内川の間違い)の緣に出て大きな道路(=奥山家道)に合」しているから、神縄への分岐点を見逃して西よりにそれ、神縄より南側で河内川沿いの街道(=奥山家道)に出てしまったようだ。
もっと上流で滝口沢(棚口沢)を渡り、東側の山から集落に入っていくのが本来の道である。
【A】「小暗い木立があって小さい橋が掛って居る(中略)大串氏がアット云って轉んだので驚いて行って見ると轉んだのではない其の流れへ落ちたので橋の緣につかまって居った」。
大串氏が落ちたのは、神縄手前の滝口沢(棚口沢)に架かる奥山家道の橋(図中の「←橋」)であろう。

日影(左)犬クビリ-神縄の道 (小田原道)。本来の道は、滝口沢を渡って、ここに降りてくる。/ (右)前方左下が日影地区。日影集落を通り抜けて、街道に出る。

さらに子泣沢を渡った神縄日向地区から大道祖神(おおざいのかみ)峠(=三神峠)を越えて玄倉に向うつもりが、道を間違えて登ってしまったのは松ケ山らしい。明治時代初期に松ケ山西面をトラバースする新しい街道が開削されるまで、落合-神縄間の交通路として使われた山越えの道である (
旧神縄村 松ケ山の道 参照)。

三神峠道一行が通る予定だった大道祖神 (三神) 峠旧道の切通し

「新編相模国風土記稿 神縄村」には「大道祖神山 村の中央にあり」とあって、江戸時代には (明治時代でも?) 松ケ山から三神峠あたりまでを「大道祖神 (オオザイノカミ) 山」と呼んでいたらしい。また「棚口沢と唱ふ 或は瀧口沢とも云」とあり、「棚口沢」の方が主に使われていたようだ。

貞享3年(1686)4月の「神縄村指出帳」に「当村橋二ヶ所 内壱ヶ所長三間但たな谷と申所 壱ヶ所長弐間半 但こかの沢と申所」「右両橋川村三ヶ村中山家奥山家迄勧進仕候而掛申候」とある。「たな谷」は棚口沢、「こかの沢」は子泣沢のことであろう。重要な街道に多くの村々が共同で架橋したことがわかる。
天保5年(1834)4月の神縄村「地誌御調書上帳」には「沢 村東ノ方山々より湧出南ノ方山市場境ニ而河内川へ落入申候右沢名ナグチ沢と相唱え申候」と記されている。
この「ナグチ沢」が棚口沢にあたるが、最初の「タ」がぬけた誤記では?
「足柄上郡誌」(大正13年刊) にも「神縄村の棚口沢(滝口沢)」と書かれている。

【A】西に降りて行くと「斜に交叉して居る十字路になった」。街道と田ノ入集落への道との交差点に出たようだ。
十字路から「上を行くのか下を行くのか判らない」。「上」が落合への街道、「下」が田ノ入集落への道。
②-1 神縄往還大正初期に拡幅改修された旧街道(松ケ山西面、田ノ入集落上)
明治時代には、もっと狭かった。

【A】「一番廣さうな道を行くと河の音が下の方に聞へる」。
「一番廣さうな道」は落合への街道、音が聞える「河」は河内川である。

【A】「畑がある所へ來」/【B】「やがて足下の川がひどく屈曲している所へ来」ると、馬に乗った人がやって来る。尾崎集落の手前だった。河内川は尾崎と田ノ入の間で大きく湾曲して街道に近づく。尾崎集落は山腹をトラバースする街道の上方にある。【B】「すでに十一時二十分」。

馬に乗ってきた人は神縄の医者だった。

明治38年にどうだったかは不明だが、大正期には神縄に医院・警察・銀行・学校があった。その昔には、大室山を中心に活動した神縄修験もあった。
神縄(左)大正10年測量「山北」 赤丸(下)「文」記号が見える。赤丸(上)清龍寺は東側の、現在は墓地となっている場所にあった。 /  (右 google earth) 赤丸の位置あたりに学校があったようだ。

医者に案内人を手配してもらい、玄倉の燈が見える所まで案内された。玄倉川左岸の道を進み、玄倉村に到着して先発隊4名と合流した時には零時二十分になっていた。

      では、また!

 旧皆瀬川村 (2)

      ( 承 前 )

神明社神明社(高杉大神宮) 創建年代不詳。

「神明社 村の鎮守なり、里俗高杉太神宮と呼べり」(新編相模国風土記稿)

南北朝の頃には、河村氏の崇敬が篤かった。
遠い伊勢神宮の代替地として、近隣からだけでなく、越後・奥州からも参拝者があったという。

御神体は小田原玉瀧坊(本山派修験)銘がある懸佛(かけぼとけ)だそうである。
かつては古宮の場所 (タケ山頂上) にあったが、遠くて参拝に不便なため、御神体を下に移そうとした。ところが途中で御神体が動かなくなったため、その地に祀ることにした。それが現在の神明社、ということになっている。

別当寺は山北成就院(真言宗東寺派)だったそーだ。真言宗系の修験は当山派であるが、本山派玉瀧坊との関わりは分らん。


神明社古宮(伝) 神明社古宮(古社)
タケ山頂上。本来は山ノ神祠と思われる。

伝承では神明社の最初の宮地とされ、「古宮さん」と呼ばれて崇められている。
高杉大神宮 (神明社) の元地に山ノ神を祀ったか、神明社から登りつめた頂上にある祠が、後に大神宮に関連付けられて、元の社はここだった、という話に変わっていったか、のどちらかだろう。

山上に住んでいた山伏が星祭を行ったことから、タケ山は星山とも呼ばれる。
「星まつり」(「星供(養) 」ともいう) は旧暦元旦、立春、冬至などに行われる密教祭儀。

「足柄上郡誌」(大正13年刊) に「治承四年十月」三千騎を率いて藍沢宿に到着した大庭景親は、甲斐源氏と頼朝の軍勢に挟まれたことを知って弱気になり、「足柄より北星山と云ふ所に逃げ云々とあり。星山とは、河村山のことか。」と述べられている。
「足柄より北」の「星山」は、ひょっとしてタケ山のことかも。とすると、平安末期のタケ山に山伏集団がいた、ということになるのか。

「吾妻鏡」治承四年十月十八日の条には「大庭三郎景親、平家の陣に加はらんが為、一千騎を伴なひ発向せんと欲するの處、前武衛(=源頼朝)二十万騎の精兵を引率し、足柄を越え給ふの間、景親前途を失ひ、河村山に逃亡すと云々。」とあります。
「平家の陣に加はらが為、一千騎」を率いて出発した景親は、20万騎を率いる頼朝がすでに足柄峠を越えたことを聞いて進退きわまり、動揺した兵の逃亡も相次いだため「川村山(河村城)に逃亡」した、とあり、星山は登場しない。

八丁




八町(八丁)
名称の由来は山北から一里八町、または人遠から八町あるから、ともいう。

人遠・八町は旧寄村との交流が深く、婚姻もあったため、ヒネゴ沢乗越から寄村虫沢へ至る道を「ハナジョロウ道」とも呼んだ。
女郎は若い女性を意味し、花女郎は花嫁のことである。「花じょろ道」という登山道として復活した。

八町には宗良親王や河村氏が本拠としたとか、後醍醐天皇あるいは天皇の王妃が隠れ住んだ、とする伝承があるそうだ。まさか!
八丁 道祖神 馬頭観音




八町
(中央) 双体道祖神 (サエノカミ)
(右) 馬頭観音

左上に薬師堂






人遠  左上、赤屋根が薬師堂


薬師堂







人遠薬師堂 破損が激しい。

「新編相模国風土記稿」に「薬師堂 本尊の外に地蔵を置く、小名人遠にありしを、今假に安ずと云、 地蔵堂二 一は破壊して、今は薬師堂に置けり」とある。

「地蔵堂二」は鍛冶屋敷(現存)と人遠の二堂のことで、そのうち人遠の地蔵堂が壊れ、その地蔵尊を薬師堂に仮安置している、ということだろう。
1727年の皆瀬川村絵図には人遠地蔵堂の記入があるが、「新編相模国風土記稿」が完成した1841年には、すでに倒壊していたことになる。

薬師堂鰐口



薬師堂の鰐口 (神奈川県指定文化財)

嘉吉2(1
442)年に厚木市長谷寺(飯山観音)の銅鐘を鋳造した飯山の鋳工・清原国光の作と思われる。


山駕籠









薬師堂内に吊下げられた山駕籠。
医者の送迎、病人や妊婦の搬送に使われた。


湯が沢入口


湯ケ沢集落への登り口

昭和初期に全戸移転した。
その後戻ったのか、現在は一軒家がある。居住はしていないようだ。


湯が沢民家






上部の林道から湯ケ沢の民家


耕作地跡






皆瀬川のほとりにある湯ケ沢集落の耕作地跡

上ニワ市間 上ニワ。 後方はタケ山。
市間は上・下の二つのニワ(地区)に分れている。

「お峯入り」の「道行き」(行列) は、このあたりでタケ山をふり仰ぎつつ踊りを奉納した。
画面の右に市間集会所がある。その敷地は皆瀬川小学校の運動場だったそうだ。

明治38年9月、武田久吉・高野鷹蔵両氏ら博物学同志会一行が塔ノ岳に登った際、上の写真の民家裏側から左にトラバース、現在の地蔵岩コースに出て犬クビリを越え、神縄に降りた。
下ニワ




市間 下ニワ
山腹を横切る町道から下の住居はすでになく、敷地が残るのみ。
中央右、太い樹木の後に井戸がある。

龍集大権現


龍集大権現祠
  (大野山山頂)

南朝方の武将が戦勝祈願に祀ったと伝わるが、本来は雨乞いのためだろう。


20171008 大野山



2017年10月、「お峯入り」第20回。
この年、神明社への「道行き」は大野山から行なわれた。

野山は「王の山」で、「王」は後醍醐天皇であり、山頂にある龍集大権現祠は南北朝期に南朝方の武将が勝利祈願に祀ったもの、という話が伝わっているが、疑わしい。
戦勝祈願ならば八幡神あたりを祀りそうなものだが、龍神は戦とは関わりがなさそうだ。

大野山は雨乞いの山であったから、水の神・雨乞いの神とされる龍衆 (天龍八部衆のうち龍族=八大龍王の総称、水を司る) を祀り、やがてリュウシュウに「龍集」の字を当てるようになったのかも。

他に、龍集は1年を意味する、という説もあるそうだ。
龍は木星、集は星の宿のことである。
木星の公転周期は約12年。1年に1次ずつ移動し、12次で一周して元の宿に戻る。それがやがて十二支を用いた紀年法へと変化していった、そうである。
ある年の木星の位置(宿)を歳次といい、年を表すようになって「文政十龍集丁亥」(文政10年龍集ひのとい)、「慶応三年龍集丁卯」(慶応3年龍集ひのとう)」のように年号に付けて使われるようになった。
龍集権現との関りは分らんが、修験者の加持祈禱や占いと関係あるのかな。

「雨乞い」といえば、思い浮かぶのが大山の二重滝。
二重滝
「大山不動霊験記」
寛政4(1792)年刊 より(部分)
右上の二重滝と俱利伽羅堂から橋を渡り、左下の八大坊上屋敷の上へ日向道が続いている。

以下、「
大山寺縁起絵巻」下巻 平塚市博物館本 (仮名本) 享禄5 (1532) 年 より、要約:

大山を開山したと伝わる良弁が、岩窟下の池端で祈ると、池から震蛇大王(真名本では深砂振邪大王)が現れ、「おかげで兜率天の内院に生れ変われた。大山に垂迹して大山寺を守護したい」と語った。大蛇(真名本では龍神、護法善神)に姿を変えて垂迹するという、本地垂迹説に基づく神仏習合がみてとれる。良弁が参詣者のために水を流すよう頼むと、岩窟上から水を落として「二重の滝」となった (真名本では「龍神は二重の滝の主人」)
詞書にはない役行者が描かれている絵巻には、修験道の深い影響がみられる。

以後、八大龍王と称され、大山の守護神にして雨乞いの本尊となったという。
俱利伽羅堂 (「新編相模国風土記稿」では「二重堂」) は安政の大火でも被災しなかったが、明治の神仏分離で移転し、今は二重社が祀られている。
二重社の祭神は高龗神 (タカオカミノカミ) で、祈雨・止雨の神。
「高」は山を指すといい、「龗」は降水を司る龍蛇の神・龍神・水神。「小天狗」とも称される。

俱利伽羅堂(左)俱利伽羅堂 (大山龍神堂・八大堂) 俱利伽羅龍王を祀る。元は二重滝の横にあった。寛永18(1641)年、徳川家光の寄進により再建。神仏分離後、現・前不動堂 (来迎院本堂) の横に移転した。

(右)「諸宗仏像図彙.2」(国立国会図書館デジタルコレクション)より「俱利伽羅不動」(江戸時代) 不動明王の化身とされる倶利伽羅は剣に絡み付く黒龍の姿で表現され、俱利伽羅龍王とも呼ばれる。


丹沢修験集団の一つに、大室山 (山頂に幕末まで、道志側の椿村が建立した「大牟連山大権現」碑があった)を拠点として活動した「神縄修験」があった。

新田義興「本朝武将伝」新田義興 (「本朝武将伝」明暦3年刊)
足利勢(と北朝方を支援した八菅山修験)に敗れた南朝方の新田義興(義貞の側室の子)は、正平(南朝の年号)8年3月5日(1353年4月17日)の夜半に河村城を脱出、神縄から城ケ尾峠を越えて甲斐の富士修験の庇護を受け、さらに越後へ落ちのびて行ったという。神縄には、大野山を越えて行ったのではないか。
甲斐の国まで義興の山越えを案内したのは神縄の山伏だったのだろうか。
正平13年(延文3年)10月(1358年11月)、義興は多摩川・矢口の渡しで謀殺された。

神縄の裏山である大野山は神縄修験の活動範囲内だったはずで、龍集権現を祀ったのは神縄の山伏であったかもしれない。
     

大野山の名称について考えてみる ( 単なる空想です)。
大野山








「相模国足柄上郡川西村」(部分)
 安永2年(1773)

 図中に「大野山」(黄色枠)と記入がある。

高杉


「皆瀬川村内入会山絵図」(部分) 安政3年(1856)

大野山は入会山ではなかったため、山名記入がない。
「高杉」集落の上方の山に「高杉」と書かれており、この絵図から推測すると、犬クビリあたりまでを「高杉」と呼んでいたように見える。

以上の2枚の絵図をもとに推測すると、犬クビリを境にして東側が高杉山 (神木とされる杉の巨木があったのかな)、西側が大野山と呼ばれていたらしい。

大野山は、 頂稜部が大規模な萱場 (秣場) になって「大野」 (広い野) と呼ばれるようになり、やがて「山」をつけて「大野山」になった、
最高地点に龍神を祀り、雨乞いをするようになってから、儀式上の呼び名として「龍集山」が使われた、ということか。 

「高杉」山のうち、 伝・古宮 (古社) から高杉大神宮 (神明社) の周辺は「嶽(タケ)」と呼ばれ、山をつけて「タケ山」とも呼ばれた、
⇒ 字名として神明社の周辺が「タケ山」になり、南西斜面には「高杉山」が残った。

 ・・・みたいな感じじゃないですかね。

異説として、
⇒ 南北朝期、河村氏を始めとする南朝側の武将が後醍醐天皇を奉じて龍集大権現祠を建立、戦勝を祈願した 
⇒ 以後、龍神祠がある西部が「王 (後醍醐天皇) の山」と呼ばれるようになった 
 ※ 戦勝祈願に龍神を祀るとは思えず、「王の山」説はかなり無理があると思いますけどね。あくまで空想ですよ。
旧共和小学校古宿 (鍛冶屋敷 上ニワ) 
昔は古屋敷とも称したそうだ。
後方はタケ山 663メートル

大正3年、皆瀬川小学校が市間から古宿に移転し、共和小学校と改名した。2011年3月、閉校。
共和村は明治22年(1889)、都夫良野村・皆瀬川村が合併して発足。1955年、山北町となる。

河村城本城址

古宿南東370メートル峰(城山)の南北朝期河村城本城址記念碑。

昔は集落から山頂にかけて畑地で、山の西面を捲き、吾妻山を経て山北へ降りるしっかりした道があった。その道を、山北から通勤路に使った共和小学校の先生がいたそうである。

山頂に土塁跡がかすかに残っており、土塁の内側の平坦地も畑になっていたという。
山頂から南面には切岸跡と思われる段差がいくつか見られる。
昭和7-15年にかけて「共和村一帯の山地」が「河村山城」だった、とする説がとなえられ、この記念碑が立てられた。結局、ここは河村城の北の詰め、ということで落ち着いたようだ。

鍛冶屋敷  集落の刀鍛冶が伊勢神宮に刀を納めたのが名称の由来という。皆瀬川村政の中心地で「本村」とも呼ばれた。
鍛冶屋敷地蔵堂



光蔵院地蔵堂

天保期まで「生土山広蔵寺」だった。
本尊は室町時代末期の地蔵菩薩石像。
昔は山伏がいて、星祭を行ったといわれる。
かつては多くの参拝者を集めた。

不動滝
不動滝

二段、落差10メートル以上ある。

イズマ沢が鍛冶屋敷沢(「新編相模国風土記稿」では「澤山澤」)に合流する直前にある。
合流点の右岸側にわずかな平坦地があり、不動堂はそこにあったのだろうか。

      では、また!             

 旧皆瀬川村 (1)

今回の探索物件は、
1) 明治38年9月に武田久吉・高野鷹蔵ら日本博物学同志会一行が、山北から犬クビリをこえて神縄に至り、塔ノ岳に登った際に通った市間から犬クビリまでの行程のうち、市間からのトラバース道と、おまけとして地蔵岩コースから中尾に降りる道、
2) 鍛冶屋敷から深沢に至る道、
の2つだが、皆瀬川村は奥山家道から外れているせいか、触れられることが少ない。
そこで、先に皆瀬川村について簡単に紹介する。

    【 旧皆瀬川村 】

旧皆瀬川村には、安戸から通ずる「皆瀬道」(明治22年、都夫良野村と合併して共和村になってからは「共和道」)と呼ばれた道がある。「
新編相模国風土記稿」に「(皆瀬川) 村南に川村御關所道係れり、幅六尺、」とあるように、鍛冶屋敷集落の手前までは奥山家道 (川村御関所道、小田原道) でもあった。
ただし、皆瀬道もまた「小田原道」と呼ばれたので、ややこしい。
この道をさらに進むと、犬クビリを越えて神縄村に至る。
皆瀬川村









史料上、ミナセガワが最初に現れるのは、寛永17 (1640) 年の検地帳に「水無瀬川之内深沢村」のように村名ではなく地域名としてであった。
正保1 (1644) 年の国絵図では「皆瀬川村」として描かれている。
皆瀬川村絵図 1727



上図は享保12(1727)年に作成された「皆瀬川村絵図(井上家文書)」(神奈川県立公文書館蔵)に赤字記入。「人遠」と「古宿」は絵図に名称記入がないため、( )で示した。
古宿(ふるやど)は鍛冶屋敷の一部なので書かなかったのだろう。

この絵図は、1707年の富士山宝永噴火による被害状況視察のため幕府が派遣した代官に、皆瀬川村が提出した村鏡帳(村況報告書)に添付された
宝永噴火時、皆瀬川村は約70cmの「降り砂」で覆われたという。
この村鏡帳によると、当時の皆瀬川村は家数86、人口532。農地に恵まれず、「薪・萱売り」「炭焼き」「煙草栽培」「楮(こうぞ、和紙の原料)栽培」などの農閑稼ぎをしていた。村の鎮守は高杉の「天照大神宮」(神明社)。
2009年5月時点では83軒、人口218。家数は微減、人口は半分以下になった。

寛政 4 (1792) 年に出版された「大山不動霊験記」第4巻 第123話は、水無瀬川村の元七が、江戸に運送した炭代金を請取(うけとり)に江戸へ行った帰り、盗賊に襲われたが撃退した話。
江戸まで代金を受取に行ったのは元七だが、運送は誰か (業者?) が請負ったように思える。この頃、川村郷の炭が江戸まで運ばれて売られていたことがわかって興味深い。
また、当時は「皆瀬川」「水無瀬川」のどちらも使われていたことがわかる。

旧皆瀬川村で最も知られているのは「山北のお峯入り」だろう。1981年、国指定重要無形
民俗文化財に指定された。
2012 お峯入り 神明社







2012年「お峯入り」 高杉神明社
「修業踊り」人遠集落の4名が担当

2017 お峯入り 神明社





2017年「お峯入り」 高杉神明社
「道行き」 

村の伝承では、南北朝期、南朝に忠節を尽くす河村氏のもとに宗良親王が身を寄せたことになっており、その時からお峯入りが始まったとされているが、史料があるわけではない。
「お峯入り」が最初に文書に現れるのは文久3(1863)年、幕末期のこと。もともとは村の鎮守である高杉大神宮 (神明社) に奉納する村祭に、修験道の影響が加わったもののようだ。
タケヤマの「古宮」の神(山の神)が「お峯入り」の祭の主神だったそうである。

「お峯入り」の名称が使われるようになったのは戦後になってからで、江戸時代は「御祭礼」、明治31年(1898)には「祭典道中行列」と記録されている。
以来、2017年10月に20回目の開催となった。

各集落ごとに演目が決まっており、役割は各家に固定されている。所作はすべて口伝。演技者は男子のみ、総数81人。昭和期に入って、都夫良野からも参加するようになった。
人口が少なく、高齢化も進むとあっては、今後も開催しうるものか、大いにあやぶまれる。 

元来は市間に集合して神明社に移動(道行き)、途中のタケ山を仰ぐ場所(旧皆瀬川小学校の運動場があった所らしい)で万燈を振って古宮の神に歌舞を披露、神明社で再び歌舞を奉納した。

大神宮まで列をなして行進したためか、古くは「おねり」とも云っていたそうだ。
尾根の高い所にある大神宮に奉納するから「尾根入り」であり、それが「おねり」に変化した、という説もあるという。
                 
西丹沢には南朝と後醍醐天皇にまつわる伝説が多く残る。
世附村能安寺(三保ダム建設にともない向原に移転) に伝わる百万遍念仏は、山伏姿の宗良親王が王政復古を祈願して百万遍念仏を納めたのが起源とされ、都夫良野村は後醍醐天皇の侍者が開いたと伝わる。
さらには、後醍醐天皇の本当の御陵は世附川源流にあるとして、その発掘に全財産を注ぎ込んだ人物まであったとさ。
能安寺 百万遍







能安寺 (向原) 百万遍念仏


深沢金山社 銅鏡深沢金山社 銅鏡裏面 (「新編相模国風土記稿 皆瀬川村」より)
「正長三年 十一月十四日」(1430年12月8日)
室町幕府と対立した鎌倉府は、正長2年9月の「永享」改元後も「正長」年号を用い続けた。銅鏡に「正長」が使われていることは、この地域が鎌倉府の強い影響下にあったことを示している。
永享10年(1438)、永享の乱で鎌倉府勢は幕府軍に惨敗、鎌倉公方足利持氏は自害した。
深沢金山社(金山様)は明治41年、神明社に合祀。

共和観光要図 共和村勢要覧 19511951年3月発行「共和村勢要覧」から「共和観光要図」。

大野山の祠には「龍相権現」と記されている。「相」はショウとも読むがシュウとは読まないんじゃないかな。当時はリュウショウ権現と呼んでたのか?

タケ山の別称とされる「星山」の星の字として「目」の下に「王」の字を当て、タケ山(663m)の位置に記入している。

古宿の南東方、370メートル峰(城山)山頂に、10メートルほどの土塁 (跡)が認められる (図中の「河村山城趾」)。
昭和初期に河村山城は共和村一帯にあったとする説がとなえられ、この山頂が南を守る砦とされたようだ。
山頂南面に切岸跡と思われる段差がいくつか残存する。

図の中央にある「大瀧」は不動滝のこと。「小瀧」は未確認。

江戸時代、八丁から山北に至る皆瀬川沿いの道は皆瀬川通り、あるいは川宇津道りと呼ばれていた。
関所を通らずに山北村に行けてしまうため、問題視されたこともあった。

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